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【小説・ヴィーナス症候群】(125)もう無理

第一章 鉢合わせ

その日の午後。
ヴィーナス児の当事者団体「コルチカムの会」の事務局員で当事者でもある階上つばさは、文京区の福祉センターを訪れていた。
小規模な就労支援連絡会の開催に合わせ、コルチカムの会報と紹介冊子を届けに来たのだ。
名前も載らない端役。来て、置いて、帰るだけ──のつもりだった。

ところが──

「つばさちゃんじゃん。うそ、こんなとこで何してるの?」

資料室前、スタッフの列の合間をすり抜けるように現れたのは神俣葵だった。
同じヴィーナス児で、いまは三十代の“第一世代”。
かつては「トルソーさん」としてアパレルの現場に立ったこともあり、
現在は福祉制度やパラリンピックの分野に強いフリーライターとして活動している。

「あ……葵さん。取材ですか?」

「そうそう。就労支援の現場って、制度の谷間が見えやすいんだよね。で、つばさちゃんは?」

「資料だけ……うちの団体が後援になってたから、届けに来ただけなんです」

「なるほど。……でもさ、顔、疲れてる。何かあった?」

「……新しい会長が、無理で。たぶん、もう辞めると思います」

葵は「あー」と小さく笑った。

「あの人、外ではウケいいもんね。でも、中の人にとってはキツいって、何人かから聞いたことある」

「なんか全部“あの人のおかげ”になるんですよ。
助成金の資料作っても、報告書まとめても、“会長の采配が良かった”とか……もう、何が自分の仕事だったのか分かんなくなってきて」

「……うん、それ、しんどいね。
つばさちゃんさ、トルソーって、興味あったことある?」

「どこかのアパレルに『スタイルいいね』って誘われたことはありますよ。
でも……年取ったら潰しがきかないような気がして。現場だけで食べてくのって、怖くて」

「わかる。でも、いまは違うよ。掛け持ちもいるし、短期だけの人も。
ドレス屋のFelice、いま人手不足でね。見学だけでも来てみない? 空気、悪くないよ。私がいた頃よりずっと働きやすくなってる」

そう言って差し出された小さな案内カード。
“Felice/トルソー募集”の文字が控えめに印刷されていた。

つばさは、それを受け取りながら思った。

(逃げるんじゃなくて、“場所を変える”っていうのも、ありなのかも)

「……少し、行ってみようかな」

「その気になったら、連絡して。見られるってこと、誰の文脈で見られるかって、すごく大事だから」

第二章 ようこそ、の声

翌週。
つばさは予約した通り、初めてFeliceのアトリエを訪れた。

浦安の街。海のにおいがほのかに混じる空気の中、白い外壁の三階建て。
その一角にあるスタジオとアトリエを兼ねた建物が、ドレスブランドFeliceの拠点だった。

「こんにちはー」

自動ドアの先から、聞き覚えのある声がした。
出てきたのは、Felice専属トルソーの武隈莉子だった。
身長はつばさより頭ひとつ分大きく、髪を低めにまとめ、生成りのシンプルなワンピースを着ていた。

「えっ、ほんとに来てくれたんだ! やっとやる気になってくれたんだ〜!」

莉子の声には、思った以上に素直な喜びがこもっていた。
奥からは檜皮谷奈緒夜久野由美の姿も見え、ふたりとも手を止めてつばさの方を向いた。

「いらっしゃい。見学だけって聞いてたけど、全然いいよ。
こっち、スタジオのほうね。白ホリと仮縫いのスペースがあって、撮影が入ると分かれて使ってる」

奈緒が案内してくれたのは、明るい自然光の入る広いスタジオだった。
壁際には仮縫い用のトワルが並び、衣装ハンガーにはふわりとしたドレスがかけられている。
奥ではピンを打っていた若いスタッフが、ちらっと視線を上げて、にこりとした。

「いまちょうど、来月の展示会用のSNS素材を撮ってるところなんだ。
見学してもいいし、今日一着だけ着てみる? 立つだけでいいから」

「え、着るの……ですか?」

つばさは思わず訊き返したが、莉子はうなずいた。

「うん、でもほんとに“立ってくれればいい”だけ。
あとは私らでピンもカメラもやるし、ポーズも要らない。
それに、Feliceの子ってだいたい最初は“逃げてきた人”だからさ。別にこっちに染まんなくていいの」

その言葉に、つばさの喉の奥が熱くなった。

「じゃあ……1着だけ、着てみます」

スタッフに案内されて着替え室に向かい、袖のないチュールのドレスを着たとき、
鏡に映った自分の姿が不思議と“安心して見られるもの”に感じられた。


誰にも見下されていない。
誰にも解釈されていない。
ただ、布と身体がそこにある。

スタジオの照明が灯り、誰かが「じゃあ、1カットだけいきます」と声をかける。

──立てば、それでいい。

それだけのことが、こんなにもまっすぐで、やさしい。

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