見出し画像

【小説・ヴィーナス症候群】(52)トルソーの涙

――それは、誰もが知っていた翌日だった。

前日、改革派の国会議員・五条誠司による「ようあんなんと結婚する奴おったな」という失言が拡散され、ネット中が燃え上がっていた。動画、スクリーンショット、切り抜き、引用リポスト。ヴィーナス児と呼ばれる当事者たちの怒り、悲しみ、呆れ、すべてが、かき消されそうなほどの騒音の中にあった。

中堅ファッションブランド〈Ria〉のアトリエ、その一角。

ミシンの音も止まり、誰もが黙ってスマホを見ていた。
その空気を突き破るように、イザベラが声を上げた。

「マジ、何なん!? あの五条だかいう国会議員!」

小笠原諸島出身で欧米系の血を引く瀬堀イザベラは、目を真っ赤にして怒っていた。アシスタントデザイナーとして日々忙しく走り回っている彼女が、これほど感情をむき出しにしたのを見た者はいない。

「“あんなんと結婚”って……そりゃ、女なら結婚するわ! それこそ、五条みたいな男がのうのうと国会議員やってることの方がおかしいんじゃない!? 国会議事堂に火ィ付けたろかな!」

「ベラちゃん、落ち着いて……」
イザベラの隣で、家久綾音がそっと言った。
綾音はまさに五条が「あんなん」と名指しした、両腕のない「ヴィーナス児」当事者であり、他の多くのヴィーナス児がそうしているように、アパレル業者でフィッティングモデル「トルソーさん」として、このRiaで働いていた。

「火なんか付けたら犯罪で逮捕されちゃうよ。……まあ、五条さんに言われなくても、私たちが一番分かってるけどさ。そんなの。これが世の中の“本音”なんだよ……でも……」

綾音の頬に、ぽろりと涙が伝った。唇を噛んだまま、視線を落とす。


「だって……くやしいじゃない……!」
イザベラの声が震える。「あんな奴らが国会議員だって言ってチヤホヤされて高い給料もらって、これからも威張り続けるの? こんなに、こんなにホンワカした可愛い子を傷つけて……!」

誰もが、言葉を失っていた。

「……今どきのフィッティングの現場じゃ、トルソーやる子たちがいなかったら成り立たないんだから」

沈黙を破ったのは、デザイナーの愛子だった。丸メガネを指で押し上げ、静かに言った。

「こういうのは、社長の名前で正式に抗議しなきゃいけないんだよ」

そのまま、勢いよくアトリエを出ていった。

しばらくして。
カツカツというヒールの音と共に、あっさり戻ってきた。

「あら、愛子さん、意外にすぐ戻ってきたわね」
パタンナーの史恵が、軽口を交えて言った。

「……いや、もう総務が先に動いてたのよ」

愛子は拍子抜けしたように笑った。

「“あの五条って奴に今すぐ抗議して!”って社長室に駆け込んだら、もう抗議文打ってた。トルソーいちばん多く使ってるウェディングの〈Felice〉が、各社に呼びかけてるんだって。クレマチも五条に出すって」

「クレマチって、“clematis & nest”?」

「そう。最近急にコンプラ厳しくなったみたいで、営業の男の子がボヤいてたわ。『ポリコレに全振りしろって言われても現場が追いつかない』って」

史恵はふうんと頷きながら、首をすくめるように言った。

「……いずれ、あの五条って国会議員も、タダじゃいられないでしょうね。こんなことになって」



その言葉に、誰も反論しなかった。

ミシンが静かに回り出したのは、それから数分後のことだった。

いいなと思ったら応援しよう!