why not、It's okay。その口癖が、私を産後うつに追い込んだ。〜根性論で全部まわした結果、体重42kgになるまで。|産後うつからの回復記録②|私自身の部屋
私の合言葉は、「why not」と「It's okay」だった
走ったことがほとんどなかったのに、42kmのトレイルランニングを完走した。リズム音痴なのに、サルサの大会に出た。言葉ができないのに、海外で仕事を見つけた。音大を中退して、慶應経済を卒業した。高卒資格のまま大手証券会社に就職して、海外移住して、会社を作った。1週間歩き続けた標高5,400mのアンナプルナサーキット。4言語の習得。20kgのダイエット。台湾半周のサイクリング旅行。米国MBAの取得。ヨガインストラクター200時間。
10代の大阪の下町にいた自分には、想像できなかった世界へ、「why not」と「It's okay」という口癖が連れてきてくれました。
年齢や性別を言い訳にせずに挑戦し、学び続けること。
それが私の生き方のモットーでした。
私以上に強烈な生き方をしてきた夫と出会った時、
「この人だ。この人とだったら家族になりたい」
とすぐに思ったのも、不思議なことじゃない。
でも今振り返ると、その口癖こそが、産後うつへの入り口だったかもしれない。
どんなに苦しくても「It's okay」。どんなに無理でも「why not」。
止まれない体に、止まれない心。
それが産後という、人生で初めて「止まらないといけない時期」にぶつかった時、私は完全に崩れていきました。
2025年、止まらなかった1年
息子が生まれてからの1年は、振り返ると信じられないスケジュールでした。
息子がまだ数ヶ月の頃、夫と一緒にトレイルランニングのレースに出ました。夫は70km、私は21km。
帝王切開後の体で21kmを走りきった。当時は、それが誇らしかった。育児を言い訳にしたくなかった。息子にも、親が挑戦し続ける背中を見せたかった。だから夫と一緒にエントリーすることを選んだ。
SNSにはこんな投稿をしていました。
「21kmは短かったけど、それでも産後の私にとってはとても大きな挑戦でした。このレースで確信したのは、育児を自分の限界の言い訳にしたくないということ。息子にもそう感じてほしくない。小さな調整を重ねながら、一緒に前に進んでいきたい。」
言葉は本当のことでした。
でも同時に、体力も気持ちも、もう何も残っていなかった。
怒涛の移動が、始まった
息子が生まれて半年が経つかたたない頃、ホーチミンの住んでいた家を引き払いました。9ヶ月後にダナンに移住することだけ決めて、荷物は全部貸し倉庫に入れて。
その直後、夫の父のがんの宣告がありました。
https://note.com/manalabo/n/n265008fb7b9b
しばらくして日本へ1ヶ月の一時帰国。
その後は夫の仕事の関係でホーチミンに少し戻り、友人のアパートをサブレットしながら生活。1歳になっていない息子の掴み立ちが始まり、目が離せない日常のスタート。
夏はフランスへ2ヶ月間の渡航。
夫の家族への挨拶回りで、1週間ごとに宿が変わる生活を、1歳にもならない息子を連れて続けました。
息子が、真っ青になった
秋、無事にダナンへ移住。
でもちょうどダナンの台風シーズンが始まり、10日以上止まない雨で、強制的に外に出られなくなりました。
2025年が私たちが住んでいるベトナム中部が、降水量でギネス記録二番めを更新し、大きな災害へとつながった年でもあります。
そんな中、息子が高熱を出して、熱痙攣で緊急入院しました。
目の前で、真っ青になった息子が泡を吹きながら、呼吸が数秒止まりました。まだ1歳になったかならないかくらいの、あの小さな体が。
息子を抱えてタクシーで病院に向かった10分間は、人生で一番長い10分でした。永遠に感じた。今でも思い出すと、胸が締め付けられます。
人生で一番の恐怖がそこにありました。
その経験から余計に、子どもをおいてまで外に出ようなんて思えなくなっていきました。
その後も夫の海外出張、年末の日本への一時帰国。出張から直接大阪にジョインした夫に対し、私はワンオペで息子と深夜便で向かいました。
帰省しても、夫と感じていることが全然違った。
それでも、止まらなかった
これだけのことが起きながら、私は走り続けていました。
産後1年もしないうちに、オンラインで米国MBAを取得しました。当時業務委託でとあるスタートアップ立ち上げに向けて、仕事にも復帰しました。なぜかあの時期、他の会社のコンサル業務も一気にたくさん引き受けたりして。
そのかたわらでヨガインストラクター200時間のコースも受講しきった。
この頃から、夫が毎日トレーニングを続けていることや、夫の外出が、いつしか重たく見えていました。
「この人は相変わらず自分のことばかり」と文句を言い出したのもこの時期でした。」
でも実際には、私自身もレースに一緒に出場したり、「親が挑戦し続ける姿を見せたい」という言っていたし、そう思っていた。
夫のせいじゃなかった。自分でそう選んでいた。
それなのに、自分が限界になっていくにつれて、夫の行動が自分勝手に見えていく。
でもその感情を、言葉にする気力も、余裕も、なかった。
2026年、限界を越えた
2025年の怒涛が過ぎて、2026年になれば落ち着くかと思っていました。
でも、落ち着かなかった。
夫の転職と新しいスケジュールのスタート。
急に家を追い出されることになって、今まで経験したことのない難航するダナンでの家探し。思い切った郊外への引っ越し。今までより手のかかる家の掃除と管理。
気づいたら、私は誰にも会わなくなっていました。オンラインで会う仕事仲間以外との会話もなくなっていた。
そこに輪をかけるように、毎週のように続くホーチミン時代の友人の訪問。
食べることも、眠ることも、最低限の自分を保つための作業に感じていました。
拒食症になったわけじゃない。食べることがタスクに思えて、だんだんと面倒くさくなって、後回しにしていった。ずっと自分を後回しにし続けていた。口紅やドライヤーを使わなくなった時と同じように。
このつみかさなったすべてを、夫は知らなかった。
何より、この無理や我慢は、私の勝手な夫や息子への愛と思いやりから来ていた。思いやりって、自分で口にだすと、押し付けになる気がして、相手に言ったことがないんだから、夫は限界の中で私が毎日を回してるなんて、そんなことも知る由もなく。
だからぶつかるたびに、それが伝わらないことがよりフラストレーションになって、気がついたら、大好きな夫を責める日々が続いていました。
体重42kg、首が横を向けない
元々50キロ台後半だった体重が42kgになっていました。
体のあちこちが突っ張っていて、首に関しては横を向くこともできない状態。
病院にも行きました。カウンセリングにも、東洋医学にも。できることは全部やりました。
それでも、良くならなかった。
病院で検査もしたけれど、首のヘルニア以外は、何も悪いところはないという結果だった。
それでも仕事を続けたのは、唯一、画面の前のプロとしての自分だけが自信を与えてくれたから。むしろ、自尊心を保てていたのは、仕事を続けていたからだと思います。
そして、仕事という明確な理由があれば、自分のために時間をとっても許される気がしていたから。
でも正直、気持ちも体も、限界でした。
鬱は、自分から自分へのメッセージだった
今振り返ると、体が私を止めてくれたんだと思っています。
もしあの時、止まらずに走り続けていたら、どうなっていただろうと思うことがあります。
まだ幼い息子がいる。愛する夫がいる。
「大丈夫」「もちろん」という言葉の無責任さと、一方的な思いやりが、どれだけ自分にも、家族にもよくないものだったか。
誰かのためを思って限界を超えることは、美しいことに見える。でも限界を超えた先に何かが壊れたら、一番悲しむのは、守りたかった人たちです。
産後うつは、ネガティブなものじゃなかったと今は思っています。
「今のやり方じゃダメだよ。やり方を変えて、仕組みを変えるタイミングだよ。」
自分から自分へのメッセージだったんだと思う。
why not、It's okay。
その口癖で乗り越えてきたことがたくさんあった。でも根性と気合いには、限界がある。
体が動かなくなって、初めてわかりました。
止まることを覚えないといけなかった。仕組みを作ることを覚えないといけなかった。
でも、そこに辿り着くまでに、もう少し時間が必要でした。
次回予告
体重42kg、首が横を向けない。薬でも、治療でも、カウンセリングでも、良くならなかった。
私の産後うつを治したのは、想像もしなかったものでした。
次回、「私の産後うつを治したのは、薬でも治療でもカウンセリングでもなかった。」
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