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産後うつに、1年半気づかなかった。〜体重42kg、首が横を向けない日が来るまで。|産後うつからの回復記録①|私自身の部屋

産後鬱は、幸せの中に忍び込んでくる

産後鬱というと、どんなイメージがありますか。

子どもを可愛いと思えない。夫が憎い。何もできなくなる。

私はそのどれでもありませんでした。

息子は愛おしくてたまらなかった。一緒にいる時間が幸せで、お世話をしている時間じゃなくても、もっと質の高い時間を過ごしたいと思うくらい。一緒にいるのに切なくてやりきれない、という感覚が産後鬱の底にいる時にはあった。

夫も同じです。毎日夫に恋する日記を書きたくなってしまうくらい、思いやりがある人で、頼めばなんでも有言実行してくれる。

子どもが超ラブだからこそ、つらかった。夫のことが好きだからこそ、ぶつかることがつらかった。

他のカップルに聞いてみると、優秀で家族思い・子育てに積極的なパートナーを持つ人ほど、期待値が上がる分、ズレやぶつかり合いが増える印象があります。うちも同じでした。

産後鬱は、憎しみや拒絶から来るとは限らない。愛しているのに、幸せのはずなのに、それを感じられなくなる。そういう形でも来る。

毎日息子を抱っこして、ミルクをあげて、寝かしつけて、夫を送り出して、仕事もして、家事もして。

むしろ全部、ちゃんとやっていました。

だから、気づかなかった。1年半もの間、一番近くにいる夫も、そして、自分も。

まさか自分が産後鬱だなんて、想像したこともなかった。


なぜ、産後鬱に気づきにくいのか

昔、日本の大手証券会社の本社で働いていた頃、鬱で退職していく人を何人も見てきました。

だから鬱がどういうものか、頭では知っていた。

でも産後鬱は、普通の鬱とは違います。

子どもが生まれた喜びと、ホルモンの変化と、生活の激変と、夫婦関係の変化が、全部同時にやってくる。

しかも、どんなに落ち込んでいても、どんなにすり減っていても、朝は毎日来るし、子どもは毎日ミルクが必要です。

そして初めての育児だから、どこまで何をやれば正解なのかわからない。これでいいのかという不安がいつもある。だから全力でベストを尽くそうとする。止まれない。止まらない。

愛する子どものお世話を止めるわけにはいかないから、自分の持っているものを振り絞ってでも毎日をこなしてしまう。

外から見ると、普通に毎日をこなしている分、育児に慣れていないまま、新生児のお世話で寝不足なだけ、に見える。

夫婦間の言い争いが増えても、それが産後鬱の症状とは思われない。夫側から見ると、急に変わった妻の様子はホルモンのせい、で片づけられてしまうこともある。

実際に自分でもそう思っていました。

産後鬱の入り口に立っていても、気づいてもらえない。気づけない。それが一番の問題だと思っています。


私たちは、最後まで自分たちらしくいようとした

息子が生まれる1ヶ月前のベイビーシャワー。

みんながイメージするような赤ちゃんメインのパーティーじゃなくて、コンドミニアムのプールサイドで友達を呼んでBBQパーティーをしました。

そのあとは行きつけのお店を貸し切ってDJの友達が夜通し音楽をかけてくれました。臨月の体で楽しむだけ楽しんだ。

出産予定日の3週間前、SNSにこんな投稿をしていました。

「もう出産前に思い残すことはない!と言い切れるくらいやりたい事やらせてもらって、最後の最後まで楽しく過ごせたそんな臨月です!」

本当にそう思っていた。

出産前に、夫とも決めていたことがありました。

親が子どもに全部を合わせるんじゃなくて、親が1人の人間として、まず幸せな状態の上に、家族としての幸せを作っていこう、と。子どもに「親が自分を犠牲にして子育てしている」と思ってほしくなかったから。

新婚で、恋愛の延長線上で家族生活を始めた私たちは、今までの生活と家族としての生活を全部再現しようとしていました。

そして、過激に生きてきた二人だから、助け合えば、お互いの理解があれば、なんの調整もせずに、自分たちらしさを全部実現できると思い込んでいたんです。

それが、後になって振り返ると、産後鬱への入り口だったかもしれない。


産後数ヶ月、上下左右でとんでもない工事が始まった

息子が生まれて、慣れない育児への不安と愛が一緒になって、全力で子育てに注力しました。

夫もいつもそばにいて、愛してくれていた。でも実務の部分ではまだ慣れていないことも多く、見えていないことがたくさんあった。

今までだったら喜んで送り出していた、誰かの誕生日会、お別れ会、友人の訪問、マラソンレース。それが少しずつ自己勝手に見えるようになってきた。

でも新婚だったし、お互いを犠牲にせずに子育てをしようと言っていたし、私もそういうのをサポートできる妻でいたいと思っていたから、子育てだけじゃなくて、夫が夫らしくいられるためのサポートや家事も全力でやるようになった。

そんな頃、産後1ヶ月くらいして。

Gina式でようやく息子の寝る時間が読めるようになり、スケジュールが安定し始めた時、上の階でとんでもない音の工事が始まりました。

まじかと思っていたら、今度は下の階。そして最後は横の部屋。

直接「ぶぉーん」という音が、毎日9時〜11時、13時〜16時で続く。ベトナムでは旧正月に向けて改装工事をする家が多いのですが、今までこんな状況になったことはなかった。

夜は夜で授乳がある。日中は工事の騒音で眠れない。

普通の状態で考えれば、引っ越すか、一時的に別のところに移ればよかった。でも寝不足で疲れた頭と、まだ痛む帝王切開の傷では、そんなことを考える余裕もなかった。

3ヶ月くらいそれが続いた時、私が一度寝不足で頭がおかしくなりそうになって。夫が近場の地域に宿を取って、少し休みに行こうと提案してくれました。

でもそこでもエリア中が停電。ベトナムの暑さの中、混合育児だったから消毒やお湯の確保のために走り回ることになった。

今まで大好きだった旅行すら、私を追い詰めるイベントになり始めていました。


「一旦自分解散」を宣言した年末

息子が生まれて初めての年末、SNSにこんな投稿をしていました。

「2024年は結婚・出産を一気に終えて、母である私・妻である私・家族の中の私を日々全うすることで気持ちも体力も精一杯。38年間『私』だと思っていたものが色んな意味で一気に崩壊しました。結果『一旦解散!』宣言することに(笑)」

笑いながら書いていた。

でも今振り返ると、このころから、私は私自身をケアすることを放棄し始めていたんだと思います。


少しずつ、自分を隔離していった

正解がわからない海外育児。周りに比べられる人も、サポートする社会システムもない。相談できる家族も近くにいない。

海外で子どもを産むということは、行政手続きから教育、保険、予防接種のスケジュールまで、全部自分で調べて意思決定しないといけないということでもあります。3カ国分のパスポートとビザ、それぞれ異なる予防接種のスケジュールの比較、海外医療保険の選択。その全てが、寝不足のまま私の肩にのっかっていた。

▼ 海外出産のリアルはこちらに詳しく書いています 海外で子どもを産むと、行政も教育も全部自分で設計することになる。

そして産後って、周りから「幸せでうまくいっているべき家庭」と思われていることが多いから、家庭内の問題を気軽に話せない。私が口にしたことが夫や家族の社会的ステータスに悪影響を与えるんじゃないかと思っていた。

独身時代の友人と噛み合わなくなっていく会話やスケジュール。

でもその状態でママ友を新しく作りに行く気力もない。常に幸せでうまくやっている自分でいないといけないプレッシャーを感じる場所にも行けない。

そうやって、無意識のうちに、周囲から自分自身を少しずつ隔離していきました。




ライブの夜、何かが終わった

子どもの頃からずっと続けてきたトランペット。

唯一、生涯続けている趣味。そして夫との出会いのきっかけでもある楽器。

息子が生まれてからしばらくして、スカバンドのリーダーから連絡が来ました。大きなイベントがあるから出ないかと。

帝王切開の傷も癒え、夫も応援してくれて、久しぶりにステージに立ちました。

ライブ中は友達が息子を見てくれて、打ち上げも夫が「楽しんでおいでよ」と言ってくれた。久しぶりに、私自身としての自分を感じた夜でした。

夫もライブに来てくれていた。いつも最前線で全力で踊りながら応援してくれる。出会ったあの人と同じように。

でも打ち上げの途中で、息子と夫のことが気になって連絡を入れたら、家から5分のバーに友達と一緒にいると言う。深夜12時。息子も一緒に。

実は、夫婦で一緒に出かける時に、息子を乳母車に寝かせたまま夜に外出することは、それまでにもありました。もちろんその時は、息子の寝るサイクルや準備を完璧に整えた上で。

だから夫は、今回も同じ感覚だったんだと思います。

でも違った。

1日の段取りは私だけが把握していた。何時までに何をしないといけないか。明日の授乳のタイミング。息子の睡眠サイクルへの影響。そういうことを、私は夫に詳しく言語化できていなかった。

そしてそれを言葉にできなかったのは、精一杯だったからだけじゃない。

そういう自由な夫が好きで結婚したから、がっかりさせたくなかった。子どもが生まれて変わってしまったね、という言葉が怖かった。

そもそも私たちは結婚前、子どもが生まれてソーシャルライフをやめていく先輩たちを見ながら、「自分たちはそうならないように自分たちらしさを保とうね」なんて、甘いことをお互いに言っていた時期でもあった。

だから、「こうしてほしい」と本音を言えてなかったんだと思います。

この感情を言葉にできたのは、ずっとずっと後のことでした。2026年の6月に、どん底まで落ちてから、初めて。

この頃からだったと思います。私の中に、言葉にならない何かが積もり始めたのは。

そしてこの夜をきっかけに、私はトランペットを吹くのをやめてしまいました。

子どもの頃からずっと続けてきた、唯一の趣味。夫と出会わせてくれた楽器。それを、自分でも気づかないうちに手放していた。

今振り返ると、その瞬間が、私という人間が少しずつ消えていく、始まりだったのかもしれません。


次回予告

息子が生まれてから、怒涛の日々が続きました。

引っ越し、渡航、台風、息子の痙攣、ワンオペ。

体重が42kgになるまで、私は止まれなかった。

次回、「why not、It's okay。その口癖が、私を産後うつに追い込んだ。〜根性論で全部まわそうとした結果、体重が42kgになっていた〜」


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