【第1章】うつ病15年の先にあったのは父の死、母の介護、自身の更年期障害、2つのゴミ屋敷ー毒親? 発達障害グレーゾーン?~氷河期世代の私の困った人生
□はじめに
こんにちは、深拍です。
いつもnoteではイラスト付きのお散歩記録や絵手紙を主に発信しています。
絵はほんわかした雰囲気で、「可愛らしい」「色が綺麗」とよく言ってもらえます。文章の雰囲気も絵に寄せているので、私の性格もふわっと柔らかく、ちょこっとユーモアがあって、なんて思ってくださっている方も多いかもしれません(願望混じりです。そろそろ「この人けっこうヤバい?」とばれてきているかも。。)
そんな深拍にお馴染みの方は、今回のタイトルに驚かれたと思います。
また初めましての方はタイトルに惹かれて来てくださいましたでしょうか。
親の死や介護、自身の更年期障害といった多くの方が直面する問題。
それに加えてこの令和の現代、なにかと話題に上がることの多い
メンタル疾患、発達障害、毒親問題=機能不全家族、ゴミ屋敷、そして就職氷河期世代ーそれらの問題を抱えているのが、今の私です。
最初にお伝えしておくと、この自伝めいた記事の中で解決策は提示されません。
私自身、絡みあった問題に足掻いている真っただ中で、解決をみていないからです。
ただ
「困ったなー」
と、半ば遠くを見るように佇み、待ったなしで対処しなければいけないことにだけ、日々どうにか対処している状態です。
どうして今こんな状態になっているのか。
こんがらがった糸を解くように、私の今までの人生をお話していければと思います。
□人生の年表
まずは私の年表的なものをご紹介。
◆生育期(1976年生まれ。大阪育ち)
父:母へのDV、浮気多数。1日にタバコを200本吸うほどのヘビースモーカー(母と私は喘息持ち)
母:父からの暴力、モラハラとワンオペ育児で無理心中を考えるほど追いつめられる。感情的で怒りから私に包丁を向けたことも。
二人とも片付けられない人で私はゴミ屋敷育ち。立派な片付けられない女に成長。
◆19才
大学進学を機に上京、一人暮らし開始
◆23才
就職氷河期の真っただ中の2000年、大学卒業
小説家になる夢があり、就職活動はせず。派遣社員として働き始める。
270万円以上の奨学金の返済開始。
◆30代
30歳を目前に控え就職活動をし、正社員になる。
翌年、うつ病を発症。以降大量に薬を服用しつつ無職だったり派遣を転々としたり。数年間、障碍者手帳3級を所持。
◆45才
2021年、急激に体が変化し、15年間服用していた精神薬のほとんどを自主的に断薬。
→「哀」しかなかった感情に喜怒哀楽が戻ってきて翻弄される。再発リスクに怯える。
◆47才
父、癌により死去
◆48才
母、骨折、入院→介護施設へ
自身に更年期障害の症状が現れ始める
◆現在、49才
様々な問題を抱えつつ彷徨う日々
□現状とお困りごと一覧
●私の現状(49歳)
・夫なし(結婚歴なし)、子なし、兄弟なし
・長いうつ期間で友人関係が切れ、リアルで会う友達なし
・職なし(父の死後、派遣先を休職→退職)
◆実家(大阪)、ゴミ屋敷
◆私のアパート(東京)、汚部屋
・昔からひどく片付けられない。主治医からはADHDの傾向ありと言われている。
◆父が亡くなったあとの諸々の手続きが完了していない
・一時母とのコミュニケーションがひどく困難になり、距離を置いたことも一因。
・父が田舎に広大な土地を所有しており、それも大きな精神的負担になっている
◆母の介護問題
・要介護3。昨年骨折してから車いす生活。呼吸器疾患のため24時間酸素吸入が必要。今は施設にいるが帰宅に向けて準備中
◆私の更年期
・生理周期が大きく乱れてきている。時折ひどくイライラしたりするが、精神疾患を長く抱えていてずっと不安定な状態なので、更年期障害なのかどうかは判断つかず
◆うつ病の再発リスク
・急激に回復した4年前は躁うつ病の可能性も指摘されたが、そうではないよう。15年間大量の薬を服用する重度のうつ病であったこと、その中でもどん底と小さな回復の波を繰り返しており、再発リスクは高い。
(現在もメンタルクリニックに通院しており、抗不安薬は毎日、時折睡眠薬を服用しています。そのため厳密には寛解状態ではありません)
◆前歯が2本入れ歯
・ここまでに比べると小さな問題ではありますが・・・
入れ歯を入れているとかえって物を食べづらく、基本外して食べています。そのため外食を避けがち、人と食事することも避けがち
=人との出会いに消極的!←これがけっこう問題かも
□なぜ自伝を書こうと思ったのか
不幸自慢をしたいわけではありません。
不幸話って、周囲に不幸をまき散らしてしまう傾向があって、私はそれをしたいわけじゃないんです。
毎日の絵手紙シリーズのように「ちょっとほっこり」する日常の瞬間を切り取ってお届けしたい。そうすることの方が私は好きだから。
でも幸せの中にあってそういうシーンを描いているわけではないことも知って欲しくて。
苦しみの泥をすすりながらでも、世界は美しく見える。
小さくても、花を咲かせられるかもしれない。
そのことを知ってもらえたらと思ったんです。
今泥をすすっている人にも、そんな泥の世界とは無縁の世界にいる人にも。
ただ、世界が美しく見えても、私自身の未来が見えないこともまた事実です。
長い長いうつ期間は、深海にいるようでした。
私の声は誰にも届かない。
海面にかろうじて上がってきた今思うのは、今も深海にいる人たちはたくさんいて、多くのあぶくは海面に届く前に消えてしまうということ。
深海にいる人たちの声を代弁したいとか、そんな大それたことを考えているわけではないけれど、私自身のあぶくを、それはうつ期間に限らず、幼少期の環境の中で誰にも見つけてもらえなかったあぶくを、今自分で掬いとって海面に上げられたなら、澱のように今も心に積もる苦しみを少しでも昇華できるのではないかと思っています。
!!!【Caution】!!!
というわけで現在に至るまでの私の物語のはじまりです。
金太郎飴のようにどこを切っても不幸がこぼれるような話になっちゃうかも?
というのは冗談交じりですがー
本編には以下の表現が含まれます。
影響を受けてしまいそうな方、過度な抵抗感・忌避感を抱きそうな方は閲覧にご注意ください
・暴力行為、ある種の性的虐待と捉えられる行為
・OD(処方薬の大量服用)、自殺企図
・親への暴言、殺意 等
□両親のバックボーンと私の最初の記憶~父の暴力から逃げシェルターへ
私の最も古い記憶、人生で最初の記憶。
それは父の暴力から逃げ、恐らく今で言うシェルターへ行ったときの記憶です。
今の実家に引っ越してくる前、2回引っ越しをしています。
3歳になるかどうかくらいまで住んでいた1番目の家は、川の前にありました。
夜、橋のたもとに二人くらい誰かがきていて、私を連れた母はタイミングを見て逃げるようにその人たちと合流。その後、おそらく車に乗せられどこかの家に行きました。
そして階段の下に作られたような狭い部屋に通されました。
それが私の人生最初の記憶です。
同じ場所かどうかは分からないのですが、「〇〇の家」というところには、その後も何度か行っています。
最初の記憶の状況からして、その時初めて行ったのではないと思われます。
父は私が生まれる前から日常的に母に暴力をふるっており、私が生まれてからもそれは変わりませんでした。
なぜ暴力をふるっていたのかー
父は兵庫県但馬地方の地主の長男として生まれました。
但馬地方というのは、一言でいうと田舎です。
地方の旧家で広大な土地を所有し、山中には三十基ほどの墓が並んでいました。墓石の多くに、江戸時代の元号が彫られていました。
そんな田舎の地主の長男として育った父ですが、父の父(私の祖父)が早くに亡くなり、一族は没落したようです。
その辺りのことは詳しくは分かりませんが、父含め父の兄弟たちは皆、大学進学などで大阪や京都に出てきました。
一方母は、鹿児島の離島出身です。
今でも本土から船で6時間ほどかかる島の出身で、船は週に3便ほど。
それでもかつてよりずいぶんと行き来はしやすくなり、私が子どもの頃、40年くらい前は船で10時間くらいかかりました。
まして母の時代は鹿児島本土から大阪への移動は汽車でした。
私が子どもの頃のときでさえ、電話はすべての家庭にはなかったように思います。郵便局に電話し、伝言をお願いしていた記憶があります。
実家で何かがあっても、何かあったことがそう簡単には伝わってこない。
そんな時代に母は鹿児島から大阪に出てきました。
そして父と出会ったのです。
結婚前の父は、いえ、結婚後もですが、母以外にも複数の女性と関係がありました。
父の若かりし頃の日記を、私もまだ若かりし頃に見つけて読んだことがあります。そこには「昨日は〇〇の家に泊まった」「今日は△△の家に泊まった」と、複数の女性の家を転々とする様子が書かれていました。
女性に不自由しないご身分だったようですが、なぜかー
ー見た目が良かったんです。
「和製アラン・ドロンと言われていた」と何人かの人から聞いたことがあります。
アラン・ドロンはご存知ですか?
フランスの映画俳優で、1960年~70年にかけて二枚目の代名詞のように語られていました。
アラン・ドロンさんの写真を見ても父に似ているとは思わないのですが、父の若かりし頃の写真を見ると、「石原軍団に普通にいそう」とは思います。
石原軍団はご存知でしょうか。
石原裕次郎さんを筆頭に、渡哲也さん、舘ひろしさん等、二枚目役者がそろっていました。
顔もスタイルもよく、本人も美意識がとても高かったです。
私が実家に住んでいた頃、中高生の私よりも身支度に余念がありませんでした。
毎朝出社前に、肌を整え、整髪剤とドライヤーで髪をセットし・・・メイク用具入れと鏡台を持っていたのは、家族三人の中で父だけです。母でも私でもなく。
生涯太ることもなく、「ビールっ腹のおやじ」姿とは無縁でした。
お葬式で数十年ぶりにあった親戚が、父の姿を見て「ハンサムは死に顔にもハンサムが残る」と言っていましたが、たしかに見た目だけは生涯「カッコいいお父さん」のままでした。
旧家の長男として育てられ元々プライドが高く、世の中は自分の思い通りになるべきと思っていた節のある父。
見た目の良さで若いころ、とくに女性関係で甘い汁を吸い過ぎたことがさらなるトンデモ男へ父を進化(退化?)させてしまったのではないかと私は思っています。
結婚前、複数の女性と同時進行で付き合っていた父ですが、9歳年上の母と結婚。
私がなぜ母を選んだのか母に聞いたところ(父ではなく、です)、「胃袋を掴んだ」的なことを母は言っていました。
たしかに母は昔は料理がうまかったですが、それが真実か否かは分かりません。
父とはそういう話ができる関係性ではなかったので直接聞いたことはないからです。
50年前で女性の方が9歳年上というのは、なかなかな姉さん女房ですよね。
ですが母には、そういう姉さん女房的なしっかりしたところはありません。
付き合い始めた当初から、「俺が家に来たら三つ指ついて迎えろ」と言われ、その通りにしていました。
基本、父に逆らうことはなく言いなり。
私が生まれてからは私に父の愚痴を聞かせる日々でした。
そんな母のことは追々お話するとして、まずは父のトンデモエピソードを聞いてください。
□父のトンデモエピソード
◇妊婦の母が倒れても寝タバコ~無視された「助けて」
母は結婚前に肺結核を患い、肺の一部を切除しています。そのことも影響してか、私が生まれる前に5回以上流産しているそうです。
私は7回目でようやく生まれた子だと、母はよく言っていました。
ただ後述しますが、母は物事を大げさに語る傾向があるので、この数字が本当かどうかは分かりません。
少なくとも数回の流産を経て、私が生まれたことは間違いないようです。
私が幼稚園生の時にも妊娠しました。
父の暴力が母の妊娠によって治まったのかどうか・・・断言は出来ませんが、治まっていなかったように思います。
父が声を荒げ、母を蹴ったり物を投げつけたりする間に入り、「やめてやめて」と叫ぶことは日常的にありました。
父の怒りがそれで治まることはありませんでしたが、拳が私に飛んでくることはありませんでした。
だからこそ私も、間に入ってどうにか仲裁しようとし続けたのだと思います。
ある朝、台所で母が倒れていました。妊婦の母がです。
父は2階で寝ており、私は父の元へ行き、「お母さんが倒れているから助けて」と言いました。
しかし父は寝転がったままタバコを吸い続け、私の言葉を聞いてくれません。
いえ、聞こえてはいたのでしょうが、反応を返してはくれません。
父の性格的に、面倒ごとが大嫌いなのです。
私が病気になることも嫌がりました。
「人の面倒を見る」ことが出来ないのです。
寝タバコをしている父に「助けて助けて」と何度も言いました。
その時のことを思い出すと今でも胸が苦しくなります。
その後の記憶は曖昧ですが、母は流産し、しばらく入院しました。
私を産む前にも何度も流産している母。
妊婦の母にも暴力をふるっていたと思われる父。
倒れている妊婦の母を助けなかった父。
私はたまたま運良く生まれてきたけれども、母のお腹にいる時に私も父に殺されていたかもしれない。
人生の早い段階で、私はそう考えるようになりました。
◇学習机の上には数百冊のエロ本
今の実家に引っ越してきたとき、前の住人が設えた二段ベッドがありました。
置き型のベッドではなく、大工の家主が壁にベッドをはめ込む形で設置したものです。
小学生になり、私の居場所はその二段ベッドの下の段を外した場所に与えられました。
私は今、身長150センチですが、立ち上がるとちょうど頭が上のベッドにつくくらいの高さです。
その下に子供用の学習机が置かれました。
ある程度成長してからは、座ったまま背伸びをしてもベッドに手が届く。そういう場所です。
そのベッドの上の段には父のお宝本、エロ本が山のように置かれていました。
少なくとも畳一畳分はエロ本で埋め尽くされていました。
父はそれでも隠しているつもりではあったと思います。
ですが小学低学年の時には、私はその存在を知っていました。
小学生の時は、女の子の友達を呼んでこっそり見たりしていました。
中学生ともなると、頭のすぐ上に大量のエロ本がある。
そんな環境にいることを友達に言わなくなりました。
嫌だったけれども、いつしかそこにあるエロ本、そして嫌だという自分の気持ち。それをないものとして蓋をするようになりました。
時代がVHSビデオの時代に入ると、父のコレクションは紙からVHSに移行しました。
エロ本はそのままあったように思いますが、ほかの場所にある父のタンスの一段はエロビデオで埋まっていました。
私は父が20代後半の時に生まれていますので、当時の父は30代~40代です。
◇オ〇ニーティッシュの後片付けは私の役目
おかずが豊富にある。
それだけおかずを利用する機会も多かったのでしょう。
父は自慰行為後のティッシュを布団の下に入れ込んでいました。
小学生の時から19歳で実家を出るまで、父の布団を整えるのは私の役目でした。(うちでは布団を押し入れにはいれず、敷きっぱなしでした)
時折布団の下にティッシュが押し込まれていることを知っていましたので、毎日布団の下もチェックし、あればゴミ箱に捨てる。
今から考えるとかなりおぞましい話ですが、私は普通に素手で淡々と処理していました。
生々しい話ですけど、もう乾いてガビガビになっていましたので。だからいいというわけでは、まったくないですが。
子どもって自分の家庭しか知らないので、そのことの異常性に気づかないのですよね。
とくに私が10代の時はネットもないので、なおのこと他の家庭環境の情報が入ってくる機会は少なかったです。
また中学・高校と女子校だったので、小学生で父のエロ本を盗み見ていたわりには、リアルでは同世代の異性と交流する機会があまりありませんでした。
そういうこともあってか、父の自慰行為後のティッシュを片付けることに対して、「汚い」という思いは強くありましたが、性的な嫌悪感は強くなかったような、もしくはそれに対しても自分の感情に蓋をしていたのかもしれません。
実家を出て大学生になってから、話の流れで男友達にその話をしたところ、「それはお父さんが悪いね」と真顔で言われ、そうかお父さんが悪かったんだ。と思ったことを印象的に覚えています。
◇「自分のためにすべてがお膳立てされているべき」思考
上の自慰行為後のティッシュを娘に片付けさせるエピソードについてですが、父には私にそれをさせている意識は恐らくなかったと思います。
父は自分のためにすべて整えられていることが当たり前、当然のこととして受け止めている節がありました。
「布団が整えられている」→当たり前のことなので『それを行った人間がいる』ということに考えが及ばないのです。
「布団が整えらえていない」→そこで初めて、「やってないのは誰や」となるわけです。
とても自己中心的な考えですが、それを超えて自分が見ていない世界に対する想像力が非常に乏しい人であったと思います。
この父の性格の一番の被害者は母です。
結婚した当初から、夕食の品数が少ないと激怒したそうで
「一日外で働いてきたワシにこんなもん食わすんか」
とよく言っていたそうです。
(父の一人称は「ワシ」でした)
そこでまだ若く収入も高くはない父の給料の多くが食材に消費されます。
家計自体は母が管理していたのですが、父は自分が夕食の品数を増やすよう指示しておきながら、母に「ワシの稼いだ金を何に使ってるんや」という始末。
私が生まれてからも、時々家族でスーパーに買い物に行きましたが、父の口ぐせは「何をそんなによーさん(たくさん)買ってるねん」
父の中で
夕食を豪華にする=食材がたくさん必要=出費がかさむ
この図式が想像できないのです。
こういう想像力のなさが、父の性格の根底にありました。
母は母で、そういう因果関係を説明できない人です。
理由は2つあって
父の支配力が強く、逆らうことが出来なかったこと。
もう1つは、父に理解できるよう筋道を立てて話す、論理的に説明する能力が低いからです。
母は父の逆鱗に触れないよう、父が「こうあるべき」と思う生活に近づけるよう努力し続けました。
けれど「こうあるべき」に整えた手間暇や努力に父は気づくことなく、「こうあるべき」でなかった時に声を荒げ、暴力を振るう。
母にとって本当に報われない生活だったと思います。
◇タバコは一日200本。喘息の発作を起こす私に「救急車呼べや」
母は私を産む前に肺結核を患い、肺の一部を切除しています。私が生まれたあと、喘息の公害病認定を受けました。
そんな母とともに暮らす父は、1日にタバコを200本も吸う超ヘビースモーカーでした。
200本・・・2カートンです。
食事の時間以外、ずっとタバコを口に咥えている状態です。灰皿にタバコを捨てたその手で次のタバコに火をつける。依存症だったと思います。
周囲の人曰く、父は「ふかしているだけ」だったらしいです。
父自身がそうであろうとも、私と母はその副流煙の被害を受け続けました。
私が初めて喘息の発作を起こしたのは12歳の時です。
もう小児喘息ではありません。
そこから実家を出るまでの間、度々発作を起こしました。
月に1度くらいは大きな発作が出て病院に点滴を受けに行きましたが、普段なら徒歩5分の場所にある病院が遠くて。
喘息はざっくり言うと呼吸がしづらくなる疾患です。感覚的には、息を吸っても気管支が体に酸素を取り入れてくれない。地上を歩いていながら、溺れているような感覚です。
病院までの道のりに電柱が何本も立っていますが
「あの電柱まで頑張ろう」
と足を進め、電柱のところで休憩を取る。
その繰り返しでどうにか病院に行っていました。
私はそれこそ生まれた時から父の副流煙を吸わされ続けたせいで自分の体がこうなったと思っていますが、父はそれを否定していました。
それどころか私が体調を崩すととても不機嫌になり
「なんでお前はすぐしんどくなるねん」
と言う始末。
夜、かなり大きな喘息の発作を起こしたことがあります。
言葉を発することも出来ないほど苦しむ私と、おろおろする母の隣で、父はいつも通りタバコをすぱーっとふかし
「救急車呼べや」
と苛立たしげに言い放ちました。
その時、本当にこの人はダメだ。
と思いました。
父親として以前に、人としてダメ。
というか人間じゃない。
鬼だ。油断すると殺される。
私は中学からミッション系の中高一貫校に進学しましたが、その学校は音楽教育に力を入れており、宝塚や音大を目指す子がそれなりにいました。
私はそんな状態でありながらも歌がけっこううまく、高校の時は歌の試験で学年2位になったこともあります。
音大を目指して音楽教室で指導を受ける子と肩を並べるほどだったので、そちらの道に誘われたり、私自身、その方向に進みたいと思ったこともあります。声楽を習った時期もありますが、度々喘息の発作を起こすので、練習できる時間も限られてしまい、週1のレッスンに毎回通うことも難しく。
ほかに経済的な理由も大きいですが、歌の道へ進むことは諦めました。
当時は「父のタバコのせいで」という気持ちが強く、本当に父のことを恨みました。
家の居間にはタバコ置き場があり、20カートン買い置きして、10カートンを切ると買い出しに行く。その買い出しもよく私が言いつかりました。
父にもタバコにも本当に恨みの大きな時期で、正直このエピソードを思い出すと、今でもちょっと腹が煮えくり返りそうです。
私も私で、基本父にはむかうということはしてきませんでした。
父は鬼だから。
今をやり過ごしてこの家を出る。
殺される前にこの家を出る。
そう思って過ごしたのが私の10代です。
◇キレると手が付けられない~父の異常行動・母の固執
まず、父は下戸です。
アルコールに弱く家でお酒を飲んだことはほとんどありません。母の作る果実酒を年に数回舐める程度でした。
ここまでの行動も、これから書く行動もすべて素面の状態で行われています。
私から見ると父も十分片付けられない人でしたが、母はそれに輪をかけて片付けられない人でした。
「部屋が散らかっていること」は父の大きな怒りのトリガーの1つでした。
父はキレるとタンスの引き出しを引き抜いて投げ飛ばすのが常でした。
いくつもの引き出しを投げ飛ばすのです。
当然、部屋はとんでもなく荒れます。
タンスの中にしまっていた衣類等も散らばり、家の中はめちゃめちゃ。
「散らかっている」なんていう次元ではありません。
散らかっていることに怒って、部屋をそれ以上に荒らす。
それは本当によくあることだったので、私にとっては「いつものこと」でした。
何度かあって印象に残っているのは、裸足で外に飛び出し、泥だらけの足で帰ってきて、家中のものを蹴り飛ばしたことです。
当時家の前は舗装されておらず、砂利道でした。
大雨の時もおかまいなしに外へ飛び出し、しばらくして帰って来たかと思うと、泥だらけの足で家の中を踏み荒らし、そこら中のものを蹴り飛ばしました。
それで炊飯器が泥だけになってしまったことがあります。
私が中学生か高校生になった頃くらいです。
母は怒って炊飯器を使わなくなりました。
泥だらけになった炊飯器を使わない。
そこまでは分かるのですが、母はそれ以降、新しい炊飯器を買うことも拒否しました。
ガスコンロにお鍋をかけてお米を炊き、残ったご飯はおひつに入れて保存。
炊飯器で炊くよりも美味しいご飯になっていた可能性はありますが、家事に一切携わっていない父にはなんのダメージもありません。
母、そしてそれを手伝う私の手間が増えただけです。
お米を洗うことと水の調整は私の役目でした。
お鍋には炊飯器の釜ような目盛りがないので、水の調整が難しいんです。
私は数年間に渡って、自分の誕生日やクリスマスプレゼントに炊飯器を買って欲しいとお願いしましたが、聞き入れられませんでした。
そういう、私から見ると意味がないと思われる行動に固執してしまう。
それが母です。
次の章からそんな母のお話しをしたいと思います。
□母もなんだかおかしかった
◇とらえどころのない母
ここまでに書いた父の暴力行為等は、ある意味分かりやすいと思います。
多くの人が「それはひどい人間だ」と感じると思います。
けれど母に関しては一つ一つのエピソードに父ほどのインパクトがなく、ものによっては私の方が細かいことを言っているのでは? というケースもあります。
近所付き合いも親戚付き合いも普通に出来ていて、母の一面だけを見るとおかしいと感じる人は少ないと思います。
けれど母の身近で、外向けに取り繕っていない母と接する時間の最も多い私から見ると、色々なシーンにおいて話が嚙み合いません。
どうしてそういう思考回路になるのか。
それが分からないのです。
年表に書いた通り、父はすでに亡くなっていますが、母は存命しており、私が介護をする立場です。
今まで母との間にあった様々な軋轢、今も度々話が噛み合わないこと。
それは現在進行形で大きな問題として、圧し掛かっています。
まずは私が19歳で実家を出るまでの間のいくつかのエピソードをお話したいと思います。
◇日記にあった「この子を殺して私も」
私が赤ちゃんだった頃、父がまともに家に帰ってきていたのかどうかは分かりません。ただ母のワンオペ育児であったことは間違いありません。
育児と父の暴力で母は相当追い詰められていたようです。
ある冬の日。
私が3歳になったかならないかくらいの時です。
雪が降り始めました。
記憶にある中で、人生で初めて見た雪です。
家の外で空を見上げる私に、母が
「まだ雪降ってるー?」と家の中から声を掛けてきました。
「まだ降ってる!」と私は答えました。
すると母は私を連れ、電車に乗ってある山の麓にある神社に行きました。
すでに地面にうっすら雪が積もり始めていて、私ははしゃいで雪と遊びました。
私にとってはとても楽しく興奮した想い出です。
それから時が経ち、中学生くらいの時に、母の日記を見つけました。
その雪の日のことも書かれていましたが
そこにあったのは「この子を殺して私も死のうか」の文字。
けれど無邪気に遊ぶ私を見て、それは出来ないと綴られていました。
中学生の私は、母がそういう思うに至る十分な理由があることを理解しており、「そうか、あの時お母さんはそんなことを考えていたんだな」と静かに受け止めました。
その神社には20代になってから母と行ったこともあります。
母には言わず、時々一人で訪れることもあります。
その時の母の追い詰められた気持ち。
結果的には私は殺されなかったこと。
私は長期間に及ぶうつ期間があり、後述しますが幼稚園の時から今に至るまで希死念慮(死にたい気持ち)があります。
なので単純に「あの時死ななくて良かった」とは思っていません。
ただ、母が私を殺すことにならなくて良かった、とは思っています。
私のためというよりは、母の気持ちを考えると、そう思います。
神様が私を助けてくれたとはあまり思えないけれど、母のことは少しは助けてくれたのかもしれません。
◇包丁を突きつけ「あんたを殺してお母さんも死ぬ」
発端は些細なことでした。
中学から隣接する大阪市内の女子校へ進学した私は、電車通学をしていました。
途中駅に貸本屋があり、毎日寄り道して漫画を借りるのが習慣でした。
平日は2冊、土曜は8冊。
それがお決まりのパターンです。
ある土曜日、学生鞄の中に8冊の漫画を詰め込んで帰りました。
本来鞄に入れるべき教科書等はサブ鞄にすべて入れ、学生鞄の中には漫画しか入っていません。
母が荷物の多さを不審に思い「何入ってるん?」と聞いてきました。
「教科書や」とぶっきらぼうに答えましたが、結局鞄を開けられ、漫画を隠し持っていたことがばれてしまいました。
母はそのことで怒り狂い、2階に逃げた私を包丁を持って追いかけてきて、畳に包丁を突き刺し
「あんたを殺してお母さんも死ぬ」と叫びました。
母の感情の不安定さはいつものことでしたが、包丁を向けられたのはこの1度きりだったと思います。
私はある程度早い段階で、両親のことを人間の姿はしているけれど言葉の通じない鬼だと思っていました。
友人などに両親のことを話す時も「彼ら」と表現しており、「親のことを他人みたいに話す」と言われていました。
それくらい、心の距離は離れていました。
なので母から包丁を向けられた時もショックというより
「この人本当にヤバいな。もっと完璧に嘘を付けるようにならないと」
というのが率直な感想でした。
◇母の教え「目から笑いなさい」
うちでは私が生まれる前から犬を飼っていましたが、私が11歳のとき、迷い犬が家族に加わりました。
母が家に一人でいる時に家の前を白い犬が通りかかり
「シロちゃんか? おいで」
と母が声を掛けたらやってきて、そのまま家に居ついてしまったのです。
名前もそのまま「シロ」になりました。
大きめの中型犬・・・もしくは小さめの大型犬くらいの雑種です。
うちに来たシロはまだ子どもで、1歳になっているかどうかだと思われましたが、恐らくどこかで飼われていたようです。
けれど捨てられ、人懐っこくくっついて来る反面、人の顔色をうかがうように下から上目遣いで見上げてくる癖がありました。
母はその目が嫌いで
「その目はやめなさい」と何度も言ってきかせ、シロもわりと早い段階でその探るような眼差しを向けて来なくなりました。
思えば私も幼い頃
「目から笑いなさい」と何度も注意されました。
シロが来たのが11歳の時で、それよりも幼い頃です。
度々、ひょっとすると何年にも渡って母からそう教育されたので、私は目から笑う笑顔を習得しました。
「いい笑顔」とたくさんの人に言ってもらえました。
この怖さが分かりますか?
私は目から嘘をつけるように教育されたのです。
私がなぜ目から笑っていないのか、母は考えなかった。
ただ「笑っていない目」が気に入らなかったから、それを強制させたのです。
30代でうつ病を発症したとき。
初めて精神科を受診した時は予約なしの飛び込みでした。
「ここで診てもらえなかったら死のう」
そういう思いで病院へ駆け込むその時まで、私は当時勤めていた会社でも笑顔を崩しませんでした。
崩せなかったのです。
目から笑う偽りの仮面をずっと外せず、周囲の誰にも気づかれないまま私は深く病み、社会から落ちて深海に沈みました。
◇二枚舌? ダブルスタンダード? 否定癖と言った言わない論争
母の性格で困ったところはたくさんあるのですが、一緒に暮らしている間で一番困ったのは、AもBも気に入らない、何もかも気に入らない、というところです。
私がAを選択する→母「なんでBを選ばなかったん?」
私がBを選択する→母「なんでAを選ばなかったん?」
母の言う通りに選択したのち、私がそのせいでうまくいかなかったと文句を言う→「お母さんの言う通りにしなや(お母さんの言う通りにするんじゃない)」
とくに最後は意味が分からないですよね。
言うことをきかないと当然癇癪を起こします。
けれど言うことを聞いた結果が悪かったとしたら、それは母の言う通りにした私のせいなのです。
否定癖とでも言うのでしょうか。
あらゆることを、まず否定しないと気がすまない。
そういうところがあります。
周囲の人のこともたいてい悪く言っています。
真に受けていると、急に「あの人いい人。よくしてもらってるねん」などと言い出すので混乱します。
今は母の話はすべて話半分、悲しい言い方ですが「すべて真に受けない」ということで、ある意味私も壁を築いて自分をガードしていますが、ともに暮らした19歳まではそういう術を知らず、混乱させられました。
昨日と言っていることが違うのはいつものこと。
私「お母さんこの間はこう言ったよね?」→母「言ってない」
という言った言わない論争もしょっちゅうでした。
◇期待癖? 口癖は「やってくれると思ったのに」
私が一番嫌いな母の口癖です。
「やってくれると思ったのに」
本当にこの言葉はシャワーのように四六時中浴びせられました。
要望を口にしないのです。
けれど先回りして要望を叶えることを期待される。
その期待が叶わなかったとき「やってくれると思ったのに」と、期待外れだったという通告をしてくるのです。
たいていはささいなことで、お手伝いに関すること、またどこかに出掛ける時の持ち物の準備などが多かったです。
たとえば外出して夕方肌寒くなってきた時。
「お母さんの上着は? 持ってきてくれてないの? 持ってきてくれると思ったのに」
など。
ただ今にして思うのは、たとえば上の例だと、外出する時には母も夕方寒くなることを予測しておらず、上着を持ってきて欲しいとは思っていないのです。
けれど実際に夕方寒くなった時に口から出てくるのは「持ってきてくれると思ったのに」ではないかと思うのです。
先の章でのAを選んでもBを選んでも「なぜ逆を選ばなかったのか?」という言葉が真っ先に出てくることにも通じると思うのですが、その場その場の感情で場当たり的に言葉を選んでいる気もします。
母の中にはAが好きもBが好きもない。
「〇〇をやって欲しい」という思いもない。
ただ相手を否定したいから、「なぜ逆を選ばなかったのか?」「なぜやってくれなかったのか?」そういう言葉が即座に出てくるのかもしれません。
ただそのこととは別に、要求は本当に多いと思います。
それも私がたちが悪いと感じているのは、1番目の要求を叶える→2番目の要求が出てくるので叶える→3番目の要求が出てくるので叶える
5番目くらいで、こちらも要求を叶えられなくなります。
けれど母の中には10個くらいの要求がひしめいているのか、「あれもやってくれない」「これもやってくれない」が始まります。
あげく「これぐらいやってくれてもいいのに」からの、「やってくれると思ったのに」
この場合の「やってくれると思ったのに」は場当たり的な否定感情ではなく、れっきとした不満です。
こういう話を親戚などに「あの子は何もやってくれない」とこぼしていて、困ったものでした。
◇「あんたがおるから、お父さんと別れへんねんで」という呪縛
ここまで書いてきて、母もたいがい人間性おかしくないか? とは思います。もしも親でなければ、絶対に関わりたくない人間です。
けれども日常的に暴力を振るうなど数々の悪行のある父に比べ、はるかにマシな人間であり、私は100%、母側についていました。
母を攻撃する父の前に立ち、「やめて! やめて!」と叫んでいた時代もあります。
母に「父となぜ別れないのか?」「もう別れよう」と言ったことも一度や二度ではありません。
けれど母の返事は
「あんたがおるから、別れへんねんで」
私がいるから、お母さんはこんなひどいお父さんと別れないんだ。
そのことはずっとずっと私の心の奥深く、核に近いところで苦しみの種でした。
私がいるからお母さんは不幸。私が生まれなければ良かった。
その思いは私の根底にずっとあり続けています。
ただこれも、あとで大きなどんでん返しが来るのですが・・・
母は時々内職などはすれど、ほぼ専業主婦だったので、父と別れてシングルマザーになると私に、とくに経済的な面で苦労をかけてしまう。
そう考えたのだろうと私はずっと思っていました。
私のこの思いが間違っていたことが、つい昨年、母が入院した際に発覚したのです。
結論から言うと、母は父と別れても私を引き取ってシングルマザーになる気はなかった。
この詳細は後の章で述べたいと思います。
□祖母「あんたさえおらへんかったら、別れさすのに」
ここで両親以外の身の回りにいた大人について書きたいと思います。
母の母は私が生まれる前に亡くなり、母の父は物心ついた時には鹿児島の病院にいました。2、3回会ったことがあります。優しい人であったと記憶していますが、なにせ大阪と鹿児島。交流はほとんどないままに、私が中学生の時に亡くなりました。
一方、父の父は私が生まれるずっと前に亡くなっています。
祖父母の中で最も交流のあった人、それが父の母です。
祖母は田舎の地主に嫁ぎ、おそらく祖母自身その環境で苦労した人です。
家は没落し、私が生まれた時には兵庫県の田舎から大阪にほど近い京都の長岡京市に移り住んでいました。
祖母は母との折り合いがとても悪かったです。
鹿児島の離島出身の母を「どこの馬の骨とも知れない」呼ばわりしていました。
没落しても旧家を背負うプライドのとても高い人でしたから、母が長男の嫁として相応しくないと思っていたのだと思います。
また両親の仲が険悪であることも知っていて、矛先は私にも向けられました。
「あんたさえおらへんかったら、別れさすのに」
そうハッキリ言われたのは幼稚園の時だったか、小学生の時だったか、その両方だったか。
「おばあちゃん」と呼び掛けても無視されたり、時には「うるさい」と言われたり(「おばあちゃん」と呼び掛けただけで)。
祖母にとっては「いらない子」であると当時から自覚していました。
両親に対しては母はもちろん、これほどの悪行を重ねた父に対してでさえ、愛情があります。
両親への気持ちは愛憎入り混じるものです。
けれど祖母に対して抱いていた感情はひたすら「苦手」
長い間、京都に行く=祖母に会うこと
だったので、「京都に行く」と思うだけで本当に腹痛を起こしたりしていました。
そんな祖母は13、4年前に亡くなりました。
「ようやく会わなくてすむ」というのが率直な思いでした。
時の経過とともに「愛」も「憎」もなく、本人がいないので苦手意識もなくなり、感情は「無」に近いです。
両親への感情は、存命中の母はもちろん、亡くなった父への思いも簡単に割り切れるものではありません。
「愛」も「憎」も、どちらの感情も濃くあります。
親に対する感情は、それ以外の人に対する感情とはこうも違う。
親への思いは、心に一生在る楔かもしれません。
◎各章へのリンク(全7章)
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