【第2章】うつ病15年の先にあったのは父の死、母の介護、自身の更年期障害、2つのゴミ屋敷ー毒親? 発達障害グレーゾーン?~氷河期世代の私の困った人生
1章では私の生育環境における両親や祖母など、周りの大人たちの話をしました。
次は私自身のことをお話したいと思います。
□幼稚園から大学卒業まで~学校生活はわりと平和に楽しく過ごすも卒業時は超氷河期
◇幼稚園~自分のお葬式を想像する毎日
私は今でも空想壁、妄想癖がありますが、子どもの頃からそれはありました。
とくに幼稚園から10代にかけてよく妄想していたのは「自分のお葬式」
その世界では土葬です。
掘った穴の中に横たえられ、上からのぞく人々の顔。
親戚や近所の人、たくさんの人がいます。
「かわいそうに」と言いながら、私に花を投げ入れてくれる。
繰り返しその空想に浸りました。
小学生の時には「この子は大人の顔色をうかがう」と言われていた私です。
「かわいそうに」
私はきっとそう言って欲しかった。
大人から「かわいそうに」と言ってもらえる世界は甘美な誘惑でした。
ほか、爪をかじる癖、鉛筆をかじる癖もありました。
私は日々の生活の中で大きなストレスを抱えていたと思います。
それを大人に気付いてほしかった。
けれど可愛らしく笑う私の後ろに、その苦しみの世界があることに気づいた大人はいませんでした。
「この子は大人の顔色をうかがう」
そう言ったのは母の主治医でした。
先生には何か感じるものがあったのかもしれない。
先生は母に公害病の認定を取るよう勧め、書類も書いてくれた人です。
私が30代半ばくらいの時、母が「お母さんを一番救ってくれたのはあの先生」と言っていました。
母には救いの手を差し伸べてくれた先生。
ちなみに30代半ばで母のその言葉を聞いたときは、「私じゃないんだ」とあとで号泣しました。
小さい時からあれほど母のために神経をすり減らしてきたのに、と。
◇小学生~「学校での自分」と「家庭での自分」の使い分けを覚える
幼稚園は私立のミッション系で、バス通園でした。
幼稚園にあがる直前に今の実家に引っ越してきた私は、家の近所の子どもたちとあまり接する機会がないまま、地元の小学校に入学しました。
幼稚園では坊ちゃんお嬢ちゃん扱いで、わりとおっとり育てられたと思います。
そこから近所の公立小学校に入学した私は、ここで初めて地元のやんちゃな子たちと接することになりました。
50年近く前の大阪です。
小学校時代に「スクールウォーズ」の放送がありました。
そういう時代でした。
小6の時、クラスメイトがペーパーナイフを持って隣の小学校にカチコミに行く。
卒業式の時期が近づくと、地元の中学生が小学校の正門前に並び、生意気そうな小6を捕まえ〆ていく。。(うちの学校は名札の色で学年が分かりました)
地元中学の窓ガラスはほとんど割れていて、校内で生徒がタバコを吸っている。
・・・大きな声で言えないことが続きますが、そういう時代だったんです。
小学校でいきなりそういう環境に入った私は、そういう地元の環境に適応するのに3、4年かかりました。
この経験が活きてか、その後の私は様々な環境にすぐ適応する能力を身につけたので、環境に適応するのに最も時間がかかったのがこの小学生の時です。
それまでおっとりしたお嬢様っぽい子だったかと思いますが、この環境ではそういう子はうまく生き残れません。
「アホ!」などの言葉を覚えたのもこの頃ですが、そういう環境に適応する私を、母は嘆きました。
「どんどん口が悪くなる」と、頻繁に言われたのです。
そこで私は、「学校での自分」と「家庭での自分」を使い分けるようになりました。
小学生の時は成績が良く、ほぼずっとクラストップレベルでしたが、ざっくり言うと頭が良かったんですね。
人に合わせて態度・顔を使い分けるということをこの頃から行っていました。
小学5年生から進学塾に通いましたが、「学校は遊ぶ場所」として授業もそこそこにクラスの子たちと仲良く遊び、「勉強は塾でするもの」と、そこでも使い分けていました。
(頭のいい子のちょっとイヤなあるあるですよね)
ところでこの進学塾には、私から親に通わせて欲しいとお願いしました。
小学4年生の終わり頃、友達がテストを受けて入る塾に通い始めたのです。
当時の私は(ひょっとすると親も)「進学塾とは何か」がよく分かっていませんでした。
ただ「そのテスト、私も受けてみたい!」と、入塾テストを受けさせてもらい、合格したので入塾させてもらったのです。
それが中学受験を目的とした進学塾でした。
1駅でしたが電車に乗り、小学5、6年の2年間、塾に通いました。
高校時代は予備校に通うといっても週1コマだけ受講して、勉強のためというよりも、情報を得るために予備校と繋がっていたようなものなので、小学5、6年の2年間が、塾や予備校という場で最も勉強した期間です。
この2年間のおかげで、大学まで進学できたようなものです。
あの時、入塾テストを受けた友達とは小学生の時に関係が切れていますが、彼女には感謝です。
◇中高一貫校へ~地元から逃げるため中学受験。大学進学へのレールに乗る
中学は大阪市内の女子校に進学しました。
小学5年生の時に期せずして進学塾に進学。小学6年生になると毎月実力テストが行われ、そのうち親・私・先生の三者面談が設定され
「学力と通学を考えるとこの辺りが圏内です」
と、いくつかの学校を提示していただきました。
当時はインターネットもなく、親も私もそういう情報には疎く。
提示された中から3校ほど、私から母に頼んで学校見学に連れていってもらいました。
その中で賛美歌が聞こえてきて「なんだかいい雰囲気」と感じた学校に決め、「ここに行きたい」と母にお願いしました。
第一志望校としてその学校を書いて塾に提出。あとは塾に言われるまま勉強し、晴れてその女子校に進学した次第です。
学校ではとても普通に過ごしました。
普通に友達もいて、成績も中くらい。
「オタクっぽい」とは言われていて、たしかにそうだったと思いますが、それも個性として受け入れられていました。
大阪という土壌もあってか、「皆と同じ」をあまり求められなかったし、変わっていても面白ければOK。そういう環境でした。
家庭環境は前述した通りですので、中学の卒業式の時、3年後の高校卒業の時に実家を出ると決めました。
また中学2年生の時から小説を書き始めていて、小説家になるという夢を抱いたのもこの時期です。
中高一貫校で、高校の入学試験は受けなければならず、合否判定もありましたが、不合格でも進学できるという噂はありました。
周りで不合格になった子はおらず、実際のところは分かりませんが。
中学受験の際、大学進学まで見越して入学したわけではありません。
ただ地元中学の治安があまりに悪く、地元小学校に適応するのに苦労した私は、あの中学に適応するのはムリだと思いました。
そこで地元を出られればいいという思いで大阪市内の学校に進学しました。
こちらのそういう思いとは関係なく、学校側には「いい大学への進学率を上げたい」という思惑があったんですね。
思えば中学の時から大学進学へのレールが敷かれていました。
それなりにお嬢様校と言われており、外の人から「温室育ち」と言われたりして抵抗を感じましたが、今思えば学校の中は温室であったと思います。
敷かれたレールの上を順調に走り、大学まで進学しました。
とはいえ、一浪してしまったのですが。
大学進学についても、両親は情報収集をまったくしていません。
繰り返しになりますが、インターネットのない時代。今より積極的に動かなければ情報が手に入りません。
学校が提供してくれる情報や本屋で手に入る情報を元に、現役の時は東京の大学の夜間を1校、大阪の大学を2校受験しました。
東京の大学を夜間にしたのは、親の経済的な援助があまり望めず、昼間働きながら大学に通おうと思ったからです。
それが大阪の大学には合格、東京の大学はまんまと不合格でした。
合格した大学を蹴って一浪させてもらい、翌年東京の大学を受験したい。
ということでひと悶着ありましたが、父が
「浪人でも芸人でもなれ」
と、浪人することを許可してくれました。
ちなみに父は
・私が高校三年生の秋を迎えるまで、私のことを高二だと思っていた。(受験生だと思っていなかった)
・センター試験のニュースを見ながら「大学はどこ受けるんや?」と聞いてきた
というエピソードがあります。
それぐらい私の進学に関心がなく、また私もそういった相談を一切していません。
地方在住で、一人娘が東京の大学を受験する。
というのは、家族の中のわりと大きなトピックだと思いますが、私はそれを父に伝えていませんでした。
受験したのは私大で、当時は私大の入学試験の1ヶ月ほど前にセンター試験がありました。
その時まで、家族三人がそろっている場で私の進学先の話が出たことがなかったのです。
一方母とは、大学進学と同時に東京へ出るということについて、何度も話し合いの場が持たれました。
母は強靭に反対し、何度も泣かれました。
理由は「あんたが大学に入ったら、あちこち一緒に遊びに行きたいと思っていたのに」というものでした。
この母の心境に関しては後述します。
私の方も意思を変えるつもりはなく、別に許可してもらわなくても家は出る。大学に進学しなくてもいいし、とにかく家は出て、その場合はもう自分の居場所を伝えるつもりはない。と伝えました。
それで最終的に母が折れた次第です。
・・・それなのに肝心の入試で落ちるという。
ただ怪我の功名と言いますか、母が次は夜間ではなく昼間の方を受けなさいと言ってくれました。
正直、「キャンパスライフ」という言葉からイメージされるキラキラした女子大生活には憧れがあり、夜間は経済的に「仕方なく」という思いがあったので、昼間の方を受けなさいと言ってもらえて嬉しかったです。
浪人時代は、経済的な負担は最小限に抑えたい。けれど情報を得るために予備校との繋がりは持っておきたい。というので、1週間に1コマだけ、1年間受講させてもらいました。
ところで先述した父方の祖母は、私の大学進学に反対しました。
30年以上前という時代もあってか、「女子に教育はいらない」というのが祖母の考えでした。
そのうえ、「本来親である私にかけるべきお金を、子どもの教育に使うのか?」と。
この言葉、家に電話を架けてきた祖母が、電話口に出たのが母だと勘違いして、私に直接言ったのです。
言ってから私だと気づき、さすがに気まずそうでしたが。
父にはかなりマザコンの気があったと思います。
祖母と母の仲は悪く、父は母に「お前が悪い」というのが常でした。
ですが、私が祖母から聞いた内容が父にどう伝わったのか分かりませんが、そのことに関しては、祖母の意見に従わなかったようです。
◇母の孤独~子供に親友になってもらいたがる一方、進路には無関心
私が40代も半ばになってから、この家族三人で暮らしていた時代の母の気持ちでいくつか知ったことがあります。
まず私は小学生の時に同じ塾に通い、そして同じ中学に進学した子と仲が良く、いわゆる親友関係でした。
40代に入るくらいまで交流があったほどで、とくに中高の6年間はかなりの時間を彼女と過ごしました。
今から3年ほど前、母と電話で話していた時です。
母が当時の私に親友が出来たことが「悔しくて」と言って泣き始めたのです。
これには唖然としました。
子どもに親友が出来たことが泣くほど悔しかった?
思えば母は私が子どもの頃、度々「お母さんのこと友達やと思って。あんたの親友になりたいねん」と言っていました。
当時は言葉としてそう言っているだけ、くらいの受け止めでしたが、それはまぎれもなく母の本音だったのです。
母と父との関係性が非常に悪く、母は孤独だった。
娘である私を味方につけたかったのは分かります。
母とは性格的にまったくそりが合わないし、言っていることもよく分からない。とはいえ父の悪行ぶりは目をつむれるようなものではなく、気持ちの上では私は完全に母側についていたつもりです。
でも母が望んでいたのは、それこそ親友のように傍で支えてくれる存在だったのだと思います。
私はそこまでの期待には応えていなかった。
だってそうですよね。
子どもの私には成長過程に合わせた人間関係が必要で、私に同い年の親友が出来たこと、それ以外にも学校で一緒に遊びに行く友人が何人も出来たこと、それは私にとって大きなプラスのはずです。
ですが母はそれを
「お母さん悔しくて、寂しくて」と言って泣いたのです。
母が私の一人暮らしに反対した理由ー
「あんたが大学に入ったら、あちこち一緒に遊びに行きたいと思っていたのに」
これも「お母さんを一人にしないで」という思いから出た言葉だったのだと思います。
たしかにあの父親と残されることを考えると、母がそう思うのも分かります。
が、それは母側の話であって、私の人生にとってプラスかどうかは度外視しています。
また数年前の電話の時ー
母「あんたが大学辞めた時」
私「辞めてない。卒業したよ」
母「ああ、そうやったね。行く大学も自分で決めてきて。お母さん、あんたが勉強してると思ったことも、してないと思ったこともないわ」
ーそれって無関心だったのでは?
そうなのです。
母は私の学力や進学に関心がありませんでした。
成績が下がると三者面談で担任の先生から母がそれを指摘される。だから母は私を怒る。その時だけは勉強しないでだらだらしていると「勉強しなさい」と怒られました。
この時の母の言葉は「先生からあんなこと言われて、お母さん恥ずかしい」でした。
私に「勉強しなさい」と怒ったのも、母が恥をかかされたことが理由で、それも喉元過ぎればで、一過性のことでした。
学力や進学については放任だと思っていましたが、そもそもあまり関心がなかったのです。
私は今40代。
この世代は親になっていれば子供の進学等に思い悩むことの多い世代です。
けれど私の両親は、少なくとも私の進学について悩んだことはないように思います。
私は自分で進路を決め、「お金を出してください」とお願いしてきました。
結果的に幼稚園から大学まで、小学6年間を除いて私立に入らせてもらっています。
それだけの学費を払ってくれたことは親の大きな功績で、とても感謝しています。
私は就職氷河期世代ですが、親はバブルを知っている人です。
小学生の時はエレクトーン、習字、水泳、そろばん。そして塾。
高校生の時、1年間だけですが声楽、それから予備校。
習い事や教育費をずいぶんとかけてもらいました。
それに関してはバブルの恩恵を受けたとも言えると思っています。
◇大学進学・一人暮らし~バイトと遊びに明け暮れた学生生活
一浪の末、晴れて東京の大学に合格した私は、念願の一人暮らしを始めました。
JR中央線国立駅から徒歩15分。
家賃4900円。
築年数は分かりませんが、六畳の和室一部屋の1Kでした。
30年前とはいえ都内ではかなり安めの家賃。
昭和の文豪があぐらをかいて小説を書いているーそんなイメージの部屋です。
携帯電話もなく、引っ越し当初は家に固定電話すら引いていませんでした。
アパートは坂の上にあり(忌野清志郎さんと縁の深いたまらん坂の近くでした)、坂を下りなければ公衆電話もありません。
部屋にいると世界のあらゆることから隔絶されたような気持ちでした。
そして、静かだった。
思えば実家の近くには中央環状線という幅が日本一を誇る巨大な幹線道路が走っており、24時間車の走行音が途絶えることはありませんでした。
このアパートには、中環の音もない。
「水槽の中にいるみたい」
その静けさが、心地よかった。
1996年のことです。
今振り返ると、この1996年に出会ったもののことを、それ以降もずっと長く好きなことに驚かされます。
作家だと森博嗣、音楽だとL'Arc~en~Ciel。
1996年。
私は初めて実家を出て、小さな羽で家の外の世界へ飛び出した。
親には学費と家賃を出してもらい、日本育英会の奨学金を借り、生活費を稼ぐためバイトに明け暮れました。
昼間は大学の授業、18時から24時は週5でバイト。
・・・実は大学の授業には、出席日数が足りるギリギリしか出ていませんが。
サークルには入っておらず、バイトと遊びに明け暮れた4年間です。
小説は相変わらず書いていましたが、それまでより書く量は格段に減りました。
バイト、遊び、そして一応大学の授業。
家にいる時間が激減したことが一番の理由です。
当時はパソコンを持ち歩いて外で執筆できる環境でもなかったですし。
二番目の理由としては、書きたいものに迷いが生じてきたからです。
中学・高校生の頃はライトノベルをたくさん読んでいて、自分で書くのも大半がそういう方面のものでした。
けれど大学に入るとあまりライトノベルを読まなくなりました。
1996年デビューの森博嗣にハマったことから、ミステリ小説をたくさん読むようになりましたが、自分ではトリックめいたものが思い浮かばず。
高校生の時に純文学めいたものを数本書き、そういった方面を書きたい気持ちはあれど、なかなか一本の小説としてまとめることが出来ませんでした。
小説の投稿はライトノベル中心に行っていて、一次選考は時々通過する、二次選考にも何度か通過したことはある。けれどその先に進めたことはない。
ー結局30代の初めまで投稿した結果が上記の通りです。
ちなみに12歳の時に発症した喘息ですが、東京生活を始めてからぐんぐん快方に向かいました。
大学1年生の時のアルバイトは喘息のことを考えて座って出来るテレフォンアポインターなど。
まだ時折発作が出ることがあり、近くの病院に何度かかかっています。
公衆電話は坂を降りなければありませんでしたが、病院は坂の上にありました。それは部屋を選ぶ時にチェック済みです。
大学2年生になると、「立ち仕事もできるのでは?」と思えるほど、喘息の調子はよくなり、発作もほとんど出なくなりました。
そこで料理屋のホールスタッフのバイトを始めました。最初は不安で、吸入器を必ず持って行っていましたが、職場で使うことはほとんどなく、いつしか吸入器を持ち歩くこともなくなりました。
まったくの余談ですがー
アルバイトで一番長く勤めたのは歌舞伎町の日本料理屋さん。着物を着てお料理を運んでいました。
お店は当時あった映画館のミラノ座の地下1F。
地下2Fにはトップレスバーが入っていて、あるお座敷では畳の上に座るお客さんから「下からズンズン来るけど何?」なんて聞かれたり、地上ではお店の従業員入り口とトップレスバーの入り口が隣接していたため、トップレスバーの呼び込みの人とは挨拶をする仲でした。
今はその地に歌舞伎町タワーが建っています。
ずいぶん猥雑な場所で働いていましたが、当時の歌舞伎町は今とはまた違う雰囲気でした。
お店はちょっと高級志向だったため、学生さんなどはほとんど来ず、着物を着たホステスさんが同伴で使っていたり、たまにはテレビで見るような芸能人が来たり。
週5で働いていたのでそれなりに歌舞伎町は馴染みのある街でしたが、今では雰囲気も変わり、すっかり行かなくなりましたね。隔世の感があります。
◇大学卒業~2000年、内定率は最低を記録
出席日数的に4年で卒業できるかは際どいラインでした。
当時、卒業が確定した学生は合格発表のように校庭に紙で張り出される形式でした。
友達とドキドキしながら張り紙を見に行き、二人とも番号が掲載されているのを見つけたときは飛び上がって喜んだものです。
さて、そんな私が卒業したのは2000年。
2000年とはー
就職氷河期で最も厳しかった年は、一般的に2000年と2003年と言われています。特に2000年は、大卒の内定率が最低だった年として知られています。また、2003年は就職率が過去最低を記録しました。
就職氷河期は、1990年代後半から2000年代前半にかけて、バブル崩壊後の不況の影響で、若年層の雇用状況が悪化した時期を指します。この時期に就職活動を行った世代は、就職難や不安定な雇用状況を経験し、その後のキャリア形成に大きな影響を受けました。
具体的に、2000年と2003年を比較すると、以下のようになります。
2000年:大卒の内定率が最低を記録し、就職率も55.8%と低迷しました。また、卒業時点で就職先が決まっていない「学卒無業者」の割合も22.5%と高水準でした。
2003年:就職率が55.1%と、記録開始以来の最低を記録しました。
就職率55%というのはすべての学科・男女合わせての数字です。
書き漏れていましたが、私が進んだのはドイツ文学科です。
理由は二つあって
・ドイツ文学科のある大学が大阪に少なく、上京の口実にしたこと
・カフカの小説、リルケの詩、クリムトの絵画と、ドイツ語圏の芸術に惹かれるものがあった
ーからです。
2000年、文系女子は10人に一人しか就職できないと言われていました。
実際、同じ大学の周りの女子で就職できたのは、親のコネでどこかの会社の受付になった子だけでした。
(ちなみに大学のレベルは日東駒専レベル・・・日大です)
この時期、何十社にもエントリーシートを出し、面接に進むことも出来ず跳ね返されたというのはあるあるですが、私はほとんど就職活動をしませんでした。
「小説家として生きたい」
「組織に所属したくない」
という思いが強かったからです。
なので就職活動を頑張ったのに就職出来なかった人たちとは違い、これに関しては自分でそういう道を選びました。
◇派遣生活の中、270万以上の奨学金返済に追われる日々
卒業間際に、日本育英会の奨学金の返済に関する説明会がありました。
借りた総額は274万円
年利3%
毎月2万円弱を十数年かけて返済する必要があります。
つまり最終的な返済額は300万円を超えます。
現在の育英会の年利はずいぶん下がっているようです。
私の時期は恐らく2000年卒がこれほどの就職難に見舞われ、就職出来ても薄給で昇給もほとんど見込めないーこれらのことは想定されていない年利かと思われます。
正直、2000年卒はここでも割を食ったなと思ってしまいますね。
「自由業で生きていきたいんだ!」
そうは言っても、生活のためにお金は稼がなければいけません。
もちろん奨学金の返済のためにも。
そこで大学卒業後、アルバイトよりも時給が高いという理由で派遣会社に登録、すぐに派遣先を紹介されて就業しました。
アルバイトでも学生にしてはけっこうな額を稼いでいましたが、卒業後初めてもらった派遣社員の給料が私の「初任給」にあたるかと思います。
世間では初任給で親にごちそうして・・・なんていう話も聞きますが、私はそんな晴れやかな気持ちにはなれませんでした。
「自分の時間を切り売りして得たお金」という気持ちが強く、ただお金を稼ぐために自分の時間を使うのではなく、自分のやりたいことで早く稼げるようになりたいーそう強く思いました。
その頃からまた小説を書くペースを上げ、投稿生活を送りました。
ですが相変わらず「書くもの」の方向性に悩んでいました。
読者としてはライトノベルから卒業しているのに、書くものはライトノベルしか書けない。
いえ、書いてもやはり二次選考止まりなので、その方向に適正があったわけでもないのです。
「何を書きたいのか?」
「何が書けるのか?」
「そもそも自分にプロになる能力があるのか?」
答えも結果も出ないまま年月が過ぎていきました。
経済的には収入は月20万円ほど。
雇用保険に入っていたのかどうか、定かではありません。
なんとなく額面=手取りで、社保が引かれていなかったように思いますが。
ほか、国民年金は未加入、健康保険は親の扶養に入ったままでした。
20万円のうち、奨学金の返済は2万円弱。
時折滞っており、そうすると翌月に5万円近く払わなければなりません。
派遣は不安定で、自身の引っ越し、人間関係の問題で自ら退職、事業閉鎖、初めから短期案件、等々、様々な理由で派遣先を転々としました。
当時は大不況ではありましたが、ITバブルの時期であり、ヘルプデスクの職はすぐ見つかる状況でした。
幸いというか、卒業の翌年に入った大手通信会社で、ITスキル、電話対応スキルなどを磨いていただきました。
20代で6社経験しましたが、ほとんどユーザーサポートやヘルプデスクなど「IT+電話」の仕事でした。
◇片づけられない女。けれど・・・
仕事を転々とした私ですが、どこにいっても適応力はありました。
人に馴染むのが早く、仕事を覚えるのも早く。
仕事面でとくに困ったことはありません。
人付き合いに関しても、どこでも適応するというより、この人たちとは仲良くなろうと思えば輪に入れるし、この人たちの輪には入らなくていいやと思えば入らず、一匹狼的な一人行動もとくに周りの目などは気にならないタイプでした。
性格的な面で私が一番困ったのは、片づけられないことです。
病的に片づけられません。
卒業の翌年、どうにか引っ越しをしましたが、その時も準備の最後の方は便利屋さんにきてもらい、段ボールに詰め込めなかったものを一切合切引き取ってもらいました。
新しい部屋は杉並区。
上京当時から憧れのあった23区内。
大阪にいた頃から高円寺に憧れがあり、高円寺の不動産屋さんに行って(その頃はネットで物件検索をするのは一般的ではありませんでした。なにせまだダイアルアップでネットに接続していた時代です)、紹介されたなかから家賃の折り合いがついたのが、今も住み続けている23区内の端っこ、駅から徒歩15分、築何年か分からないボロアパートです。
国立の部屋より狭くなりました。
が、国立の部屋にはついていないエアコンがついています。
そう、国立のアパートにはエアコンがついていませんでした。夏は窓全開、扇風機のみでしのいでいました。
30年前の今より猛暑日も少なかった時代なので乗り越えられたのかもしれません。あと大学の4年間は家で過ごす時間が本当に少なかったのです。
念願の23区内の家に引っ越してきた私ですが、引っ越してきたとき、雨戸が閉まっていました。
部屋は20個近い段ボールで埋まっています。とにかく物が多くて。
窓に容易に近づくことが出来ず、私は引っ越してきてから恐らく3年以上、雨戸を開けませんでした。
部屋は角部屋で本来はとても明るい部屋なのですが、雨戸を締め切っているので光は一切入ってきません。
けれど物を片付け、窓に近づけるようにし、雨戸を開ける。
それが何年も出来ないままだったのです。
段ボールで埋め尽くされた部屋にさらに物が堆積し、一時は天井に迫るほど物が積みあがっていました。
床が見えないどころか、地層を成しています。
それは現在も変わっていません。
さすがに天井に届くほどではないのですが、畳に到達することは容易ではないほど物でいっぱいです。
しかも電灯が切れるとなかなか替えることが出来ません。
私はその杉並区の部屋に25年ほど住んでいるわけですが、5年以上前からすべての電灯は切れたままです。
メインの和室、トイレと風呂(半ユニットみたいな感じ)、台所。
数年間はテーブルライトのみでしのいでいましたが、3年ほど前に組み立て式のルームライトを入れました。
それでも部屋全体を明るく照らすほどではありません。
そんな感じで、ともかく片づけられません。
私の母も本当に片づけられない人です。
実家は完全にごみ屋敷、ネズミを毎日何匹も見ます。
先述しましたが、父はそんな母に度々怒りを爆発させていましたが、父自身も片づける能力はあまりなかったように思います。
なにせ家のことを自分でやらない人でしたから、能力値は分かりませんでした。けれど父の私物の多さを見ても、とにかく物を溜め込む人であったことには間違いありません。
ここまで読んで、両親とも発達障害傾向があるのでは?
と思われた方もいるかもしれません。
私もそう思います。
そして私もその血を引いており、発達障害傾向があると思われます。
後述しますが、その後私は20年近くメンタルクリニックに通うことになりますが、主治医も「発達傾向あり。ご両親もそうかもね」とは言っています。
発達障害だとするとADHDの傾向があるのですが、私自身は「片づけられない」こと以外、ADHDの特性と言われることで困っていることはないように思います。
発達障害の特性としてよく言われるのは「マルチタスクが苦手」ということですが、これにはとくに当てはまっていません。
電話の仕事は、話ながらパソコンを操作したり、スーパーバイザーに指示を仰いだり、なかなかなマルチタスクが要求されます。
その上私は30代の時にコールセンターのスーパーバイザーを経験しており、右耳と左耳で二人のオペレーターさんの対応を同時にモニタリングしつつ、目の前にいる係長との会話にも対応し、パソコンに飛んでくるチャットでの質問に答える等、まわりから「聖徳太子」と言われるほどのマルチタスク能力を発揮していました。
ただ時間管理は甘いところがあります。
10分前行動ができるタイプではなく、環境にもよりますが、会社には毎日数分遅刻、みたいな。
ただ仕事のスケジュールが守れない、ということはなかったです。
極端に片づけられないだけで、あとはあくまで発達障害の傾向がある「グレーゾーン」なのかもしれません。
◎各章へのリンク(全7章)
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