【第3章】うつ病15年の先にあったのは父の死、母の介護、自身の更年期障害、2つのゴミ屋敷ー毒親? 発達障害グレーゾーン?~氷河期世代の私の困った人生
ここまで
第一章では生育環境、主に両親のことについて
第二章では20代後半までの私の人生についてお話してきました。
第三章では初めての正社員、そしてうつ病発症以降の私の人生についてお話します。
□なんだかんだで充実していた20代後半
27才頃、浜松町にある会社に派遣社員として入りました。
そこには3年間勤め、派遣社員としては最長です。
会社自体は自社ビルで各フロアにそれなりの人数が勤務していましたが、私の配属された部署はフロアの奥まったところにある小部屋で、部員も私を含め3人だけでした。
部長さんは他と兼務のためあまり部屋にはおらず、もう一人は営業さんで、やはり不在の時が長く。
私は唯一の事務員として部屋で一人仕事をすることが多かったです。
社が提供しているサービスのユーザーサポートを兼ねており、事務+電話応対に慣れているということで採用していただきました(派遣社員には本来『採用』という概念はありませんが、実際には派遣先での『面接』→『採用』という流れがありますので、こう表現します)
ここでは電話の件数もあまり多くなく、一人でのんびり仕事をさせてもらいました。
今振り返ると、この3年間が私の社会人生活の中では最も穏やかな日々でした。
20代の私は観劇が趣味で、それも下北沢にあるような小劇場を、多い時は毎週のように訪れていました。
当時は今ほどチケットも高くなく、派遣の給料でもやりくり出来る範囲だったのです。
色々なことを吸収したかった私は、将来のためにお金を貯めるより、将来のために色々なものを見てインプットすることにお金を使うタイプでした。
体もよく動かしていて、1日2万歩あるくことを目標にしたり、29才頃にはジムに入会して週5で通ったり。
お芝居は友達と行くこともよくありましたが、一人行動も活発でした。
当時の私には小説家になりたいけれどもなれない鬱屈があり、また「派遣35才定年説」も生きていた時代です。
氷河期の上の世代はバブル世代になるので、上の世代で派遣で長く勤めている人はいません。
ずっと派遣で働くことは難しく思える。
小説家としての芽は出ない。
当時のインターネット回線はうちの家の場合でADSL。
ケータイ小説は「魔法の i らんど」など発表の場がありましたが、創作を収入に繋げるのは個人では非常に難しい時代でした。
何かしらの賞を取って出版社と繋がる。
それが定石でした。
が、その賞が獲れない。
それに度々書いていますが、書くものの方向性も定まらず。
そんな中、インプットに勤しんでいる時代です。
当時はそんな自分の生活が充実しているなんてまったく思っていませんでした。
けれどこの後のうつ病発症、長い闘病生活を経た今から振り返ると、それでも人生で一番自由で、まだ自分に明るい未来があり、努力次第では夢を掴める、そう思えていた時代です。
□30才を機に正社員へ
◇正社員という選択~摩耗と消耗から抜け出し生活基盤を整えたい
振り返れば充実していた反面、鬱屈と閉塞感を抱えていた20代後半。
2006年6月10日、当時私がブログに書いた言葉をそのままここに引用します。
この間、同世代の友達と
「うちらの世代ってハズレくじ引いたよねー」って話で盛り上がった。
高校生の時女子大生ブームで
大学生の時、女子高生ブームがきて、まったくちやほやされず
大学卒業時は超氷河期。
文系女子なんて絶望的に就職先がなかった。
そんなこんなで、大量のニートを排出し始めたたぶん最初の世代。
ニートにならず、かろうじて自分の食い扶持を稼いでここまできても
今度は「女が子ども産まない」って非難される。
産むよゆうなんてマジないんだって。
ほんと、生活基盤がない。
私の20代後半って、磨耗と消耗だった。
「磨り減っていく感」がずーっとつきまとってた。
指の間から砂がこぼれていく感覚をずっと味わってきた。
別にそういうことは、時代のせいだとか、まして国政のせいだとかではなく
全部自分のせいなんだよね。
自分自身に獲得するだけの力がないことは分かってたし
だから無力感も同じだけ感じてた。
で、今日30歳になったわけなんだけど
思うのは、もうこれ以上磨耗している場合ではないということ。
これ以上減っちゃうと、自分がなくなってしまう。
遠い果実はまだ全然あきらめられなくって
ただ、もう少しちゃんと基盤を築かなくっちゃって思った。
ーで、水面下で動いてるところ。
6月10日は私の誕生日。
30才になった日のブログです。
この「水面下で動いている」のは、就職活動を指しています。
30才を目前に控え、私は正社員を目指すことにしました。
理由は引用したこの日記の通り。
小説家は正社員になってからでも目指せる。
摩耗、消耗していく日々。
この頃も奨学金の返済は続けています。
「生活基盤が欲しい」
一度も正社員になったことのない私は、ちゃんとした会社で正社員を目指すなら、30才になる今がラストチャンスなのでは? という思いもありました。
「ちゃんとした会社」というのもふわっとした概念ですが。
この就職活動は思いのほか上手く進み、筆記試験と3回の面接の結果、私は東証一部上場企業に採用されました。
実はこの時並行して、3年間派遣社員として勤めた会社から、「うちで正社員に」というお話もいただいていました。
けれど3年間、あまりにそこでのんびり働いた私は、その会社では手応えがなくつまらなく感じてしまっていました。
一部上場企業にチャンレンジしたことからも分かるように、私には上を目指したい気持ちがあったのです。
小説家になる夢は諦めていなかったので、仕事はぬるい環境のままで執筆に力を注ぐ方を選べば良かったのに。
あの時、浜松町の会社に残る道を選んでいれば、どんな道を歩んでいただろう。
今でもそう思う時はありますが、それは選ばなかった道です。
◇シスター制度~周囲からも「この人にシスターを?」と驚かれた人選と「死にたい」日々の始まり
入社した会社は都内だけでもいくつもの事業所を持っていて、当時の本社は新宿区大久保にありました。
同期入社が5人ほどいて、本社で1ヶ月ほどの研修ののち配属先が決定。
私はそのまま本社にあるヘルプデスクに配属されました。
会社では「シスター制度」が採用されており、私にもシスターさんが付きました。
このシスターさんがかなりのクセ者だったのです。
まず社内の人間とほとんどコミュニケーションを取らない。
ヘルプデスクなので、仕事は常に人とコミュニケーションを取る必要があるのですが、それ以外は挨拶しても挨拶も返さない人です。
シスターは部署の中で持ち回りでしたが、彼女(女性でした)にとっても初めてのシスター経験でした。
あとで部署内の人から聞いたところによると、「あの人にシスターをやらせるの?」と疑問の声は上がったものの、入社してある程度年次を重ねると、先輩としてシスターを経験させることも人材育成の一環であり、いつまでもシスターを経験させないままではいられないから、というような理由でシスターになったようです。
結果としては彼女の育成のために私が犠牲になったようなものなのですが・・・。
配属されて数週間は研修、座学がメインです。
着台(実際に問い合わせの電話を取る)すると、最初はシスターさんが常にモニタリングし、適宜アドバイス、指導するのが流れです。
このアドバイスがなかなかもらえない。
疑問点を聞いても答えがもらえない。という以前に、返事もないので私の話を聞いているのかどうかが分からない。
私の困惑はチームリーダーも把握しており、幸い・・・かどうかは分かりませんが、私のスキル向上も早かったため、モニタリングは早い段階で終了しました。
けれどシスター関係は解消されず、そこからが大変だったのです。
モニタリング中は少なくとも彼女も聞いているので、問い合わせ内容は把握していましたが(しているはずですが)、モニタリング解消後に分からないことがあると、まず問い合わせ内容をまとめ、それに対する自分の疑問点をまとめ・・・と、彼女に分かるよう伝えることが求められます。
が、相槌さえないので、聞いているのかどうか、私の説明が分かってもらえているのかどうかも分からない。こちらは保留にして通話先を待たせているので、仕方なくほかの人に質問をしに行く。
そのことが「失礼だ」と激しく怒られました。
それも私に直接言うのではなく、チームリーダーに言うのでもなく、毎週部長に提出する週報に長文で私の態度に対する非難を書かれました。
結局、部長からチームリーダーに話が降りてきて、チームリーダーが私に話をする、という流れです。
チームリーダーは彼女の性格は分かっているものの、全面的に私の肩だけを持つこともなく、喧嘩両成敗的な判定が下されることが多くありました。
この頃から私は「死にたい」と思うことが格段に増えました。
しかし私にとって「死にたい」という気持ちはそれまでもわりとよくある、お馴染みのものでもありました。
幼稚園の頃から自分のお葬式を想像していた私です。
日常生活の多くのシーンにおいては明るく振舞い、それは振舞っているだけではなく、根っからの明るさなのですが、時折ひどく気持ちが落ち込むことがありました。
そうすると数日間人との関わりを断ち、「死にたい」を抱えつつ、内にこもる。
実家暮らしの時は家が安全地帯ではなかったので家にこもることはありませんでしたが、一人暮らしになってから、つまり大学生の頃からそういう「うつ期」のようなものは経験していました。
けれどそれまで3ヶ月に数日やってくる程度だった「死にたい」は、どんどん頻度を増し、仕事中でも1時間に1度、そのうち電話が鳴るたびに、まず「死にたい」と思ってから電話を取る。
そういう日々に突入しました。
当時、シスター以外の人との関係性は悪くありませんでした。
私は取り立ててシスターさんを周りに悪く言うことはなく、ただ返事もないし、質問も聞いてもらっているのかも分からなくて困る、という話は時折していました。
ですが人前で明るく前向きな姿勢は取り続けていて
「シスターさんって目が悪いみたいだから、人の気持ちを読み取るのが苦手なのかも」等、一方的な悪口にならないように発言していました。
「どんな人にもいいところはある」
「人の悪い面ではなく良い面をみよう」
当時、私はそういう考えを持っていたのです。
でも正直、この考えも自分を追い詰めた一因だと今は思っています。
この時、私はもっと怒りを向けても良かったはず。
周りにも自分の困窮を強く訴えるべきでした。
新卒入社の年下の子からは「強いですね」なんて尊敬されましたが、私は強いのではない。
まず、笑顔の仮面を外すことが出来なかった。
母から仕込まれた「目から笑う良い笑顔」の仮面が染みついていたのです。
そして「助けて」を言うことが出来ない。
人を信用して弱い面を見せることが出来ない。
それが私の弱さでした。
◇初めての精神科受診~過活動・休職・退職
初めて精神科の門を叩いたのは入社の翌年、2007年のことです。
精神科のネットの口コミは今よりも格段に情報が少なく、また精神科・メンタルクリニック自体の軒数も今より少ない時代でした。
私は区内の予約不要の精神科へ行きました。
閉院時間の間際で、「今日ここで診てもらえなかったら死のう」
そういう思いで受付で初診であることを告げ、幸いそのまま診てもらえました。
その日のうちに抗うつ薬を処方してもらい、私の服薬の日々が始まりました。
抗うつ薬は最初のうちは効きました。
ヘルプデスクは「電話応対で話す→記録を残す」がセットの仕事です。
その頃、話すことには大きな支障は出ていませんでしたが、「記録を残す」=文章を書くことに大きな支障が出ていました。
応対を終えたあと、真っ白な履歴画面を前に文章がまったく浮かんでこないのです。
「どうしてこんなに文章が出てこないんだろう」
その頃の私は、そういった現象とうつ病とを関連付けられていませんでした。
メンタルヘルスの知識は、私自身、そして会社・社会にも今ほど広がっていない時代です。
ただ抗うつ薬を飲み始めたことで、ずいぶん自分の頭の回転が下がっていたことをようやく自覚出来ました。
薬を飲むと以前のようにまたスラスラと文章が打てるようになったのです。
一方死にたい気持ち=希死念慮にはさほど効果を発揮していませんでした。
この頃の私は気持ちのもやもやを吹き飛ばそうと、過活動傾向にありました。
入社以前から通っていたジムへは週6くらい通い、それも他店舗へ遠征し、遠征先で激しいスタジオレッスンを受け、お風呂に入り、さらに1時間以上ウォーキングして帰る。
精神的な苦痛を肉体を酷使することで紛らわせようとするかのようでした。
本来なら心身ともに休息が必要なはずでしたが、逆の行動を取っていたのです。
肉体的な疲労・心の痛み、そういうものへの感覚が麻痺していたのかもしれません。
そんな日々が長く続くわけがありません。
次第に欠勤することが多くなりました。
会社に行こうと思い、準備を整え玄関まで来る。
けれどそこで体がフリーズしてしまうのです。
靴を履くところまではいけても、ドアを開けることがどうしても出来ない。
玄関に座り込んだまま会社に電話を架け、午前休の連絡を入れる。この時点では午後は頑張って出社しようと思っているのです。
けれどたいてい、午後も出社することは出来ず、今日は一日お休みをくださいと連絡を入れる。
そういう日が増えていきました。
この頃から記憶が曖昧ですが、精神科を受診してから半年ほどはごまかしごまかし出社していたと思います。
結局入社してから約1年後、私は休職に至りました。
診断書に書かれた病名は「大うつ病」でした。
私の在籍年数だと取得出来る休職期間は6ヶ月。
最初は6ヶ月も休職するとは思っていませんでした。
医師からの診断書も1ヶ月の休養指示のものです。
けれど休養期間は延長に延長を重ね、満了になる直前、私の希望で復帰へのトレーニング期間を設けていただきました。
けれどトレーニング期間中にもお休みが発生してしまい、アウト。
休職期間満了による退職となりました。
最後はあっけないもので、事務的な書類に署名して手続きはほぼおしまい。
紙切れ一枚で社会からふるい落とされた。
ーそう感じました。
◇1度目の無職期間~しょこたんブログをリロードするだけの一日。そんな毎日で1年が過ぎた
退職してから傷病手当の切れる1年間が1度目の無職期間です。
実家の両親へは、休職して数ヶ月経ってから「実は休職している」と報告しました。
両親とは表面上は悪い関係ではありませんでしたが、私から両親への信頼感はなく、また心配をかけたくない、東京で社会に負けたと思われたくない、様々な思いが交錯した結果、言い出せなかったのです。
けれどたしか年末年始の帰省時期になり、その頃は毎年お正月には帰省して家族と過ごしていたので、それを機に休職を打ち明け、帰省ラッシュを外して年末年始を長めに実家で過ごしました。
そして返済途中だった奨学金。
実はそれまでも何回か滞納した際に代わりに払ってもらったことがあります。
そしてたしかこの1度目の休職の時に、残額を繰り上げ返金してもらいました。
トータルで70万円ほどは、親に代わりに返済してもらった形です。
先にお話しすると、無職期間は1度目が1年間、2度目が5年間あります。
いずれの無職期間も、記憶があまりありません。
茫漠と時間が溶けていった。
そんな感じです。
1度目の無職期間の時は、しょこたんこと中川翔子さんがブログを鬼のように日に何度も更新していた時期です。
ほとんど家から出ない私には、パソコンに映るしょこたんブログだけが世界へ通じる窓だった。
ただ一日、しょこたんブログをリロードして過ごす。
そういう1年間でした。
◇社会復帰~正社員2社目はコールセンターのスーパーバイザー
傷病手当というのは受給開始から1年6ヶ月支給されます。
(現在と当時は多少制度が変わっていますが、ざっくり言うとそんな感じです)
1度目の会社でまず有給の休職が1ヶ月、そこから無休の休職6ヶ月、無職期間1年。
そこで傷病手当も満額受給となり、そのままでは完全に無収入になります。
まだ精神科には通院しており、休職当初よりも良くなったという実感はありませんでしたが、無収入では生活出来ません。
傷病手当の切れる前月から就職活動を始め、この時もあっさり仕事が決まりました。
就業先には精神科に通院していることを告げないままのクローズ就業です。
それまでの電話応対スキルを活かし、コールセンターを運営する会社でスーパーバイザーの職に就きました。
それまではヘルプデスク、ユーザーサポートといった「サポート系」の仕事でしたが、この会社で主に扱うのは「カスタマ」と言われる部類。
資料や商品の受注受付、またお客様サービスセンターといった部類の仕事を色々な会社から請け負い、コールセンターを運営する会社です。
私は入社後すぐ、クライアント常駐になり、そこでお客様サービスセンターのスーパーバイザーに任命されました。
お客様サービスセンターとは購入者やサービス利用者からのご意見が入ってくる部門。「クレーム処理係」と言われることもあります。
実際に入って来る問い合わせはクレームばかりではありませんが、まず最初に電話を取るのはアルバイトさん、そこで話がまとまらず、「上を出せ」となった時に出るのがスーパーバイザーです(ものすごく雑に説明すると)
つまりスーパーバイザーが対応するのはこじれた案件ばかりです。
一次受けのアルバイトさんよりは応対件数は多くありませんが、繁忙期は一日中こじれた案件の対応をすることになります。
仕事時間の多くはそういったいわゆるクレーム対応に充てられますが、実は仕事のメインはアルバイトさんの管理、育成にあります。
私一人が「できる人」ではなく、数十人のアルバイトさんに「できるオペレーターさん」になってもらうのが仕事です。
そのためには私が手本を見せる必要があり、アルバイトさんで収められなかった案件を(できれば華麗に)収めて、「さすが」と思ってもらわないと、その先の管理、育成に繋がりません。
ここまで読んで、うつ病の治療中にそんな仕事が出来るのかと思われた方もいるかもしれません。
ギリギリでした。
最初の休職前と同様、話す能力は保たれていたのです。
けれどこの頃、活字がまったく頭に入らなくなっていました。
このクライアントさんの扱うサービスでは、改定・変更がよくあり、とくに月曜日はそういったお知らせを含む様々な回覧が机の上に10センチ以上積まれている状態です。
それらに目を通すわけですが、まったく頭に入りません。
活字というより、黒い模様の上を目がなぞっているだけのような感覚です。
もともとメンタル疾患をクローズで入社しており、それなのに数十人のオペレーターさんをまとめる立場になり、かつクライアント常駐。
様々な方面に私がうつ病であることがばれないよう、とても気を張っていました。
「今は仕事が出来ているが、いつメッキがはがれるか」
常に戦々恐々としていました。
この頃気づいたのは、自動運転モードに入れればもう一人の自分が仕事を勝手にやってくれる、ということです。
お客様からの問い合わせも、オペレーターさんからの質問も、自動運転モードであれば反射神経で答えられる。
山と積まれた回覧も、理解して読もうと思っても読めない、理解できないけれど、とりあえず目を通しておけば、自動運転モードの自分が回答してくれる。
こんな感じで仕事をしていました。
けれど自動運転モードがうまく立ち上がらない日もあります。
そんな日は、まず朝から体が動かない。
脳のスイッチが入らず、体に「動け」という信号が送られない感じです。
この会社でもじょじょに欠勤が増えていきました。
◇メンタルクリニックを変える~自分の弱さを話すのは本当に大きなエネルギーが必要
メンタルクリニックに通い始めてから4年目、2011年のことです。
3.11の大震災には勤め先であいました。
社会情勢的にも不安が大きく、また仕事にも大きな影響が出ました。
しかしこの時は「乗り切らなければ」というスイッチが入ったのか、比較的頑張れた時期だと思います。
けれどその上昇の波は長くは続かず、また不安定になり始めた頃、私は通院先を変えました。
通院していた精神科は高齢の医師が一人で診療を行っていました。
その医師の認知度合いがかなりあやしくなっていたのです。
はっきり言って認知症だったと思います。
通院を始めた頃はいつも待合室にたくさんの患者さんがいましたが、じょじょに人数は減り、いつの間にかいつ行っても私一人。それなのにずいぶん待たされる。
発言も
「かわいいね」
「僕が若かったら結婚したいよ」
等、今思うとかなりヤバい発言が増えてきました。
その上、短期記憶の能力が著しく落ちているのか、1回の診療中に血圧を何度も計ろうとしてきます。
(そこでは毎回血圧測定がありました)
それでも病院を変えなかったのは、その頃には病院を変えるだけの気力が残っていなかったからです。
「このままこの医者に診てもらっていても、良くなることは望めない」
そう思っても、医者を変えると今までの経緯・今どう不調なのか等をいちから話さなければならない。
そのことが非常に重荷でした。
人に自分の不調を話すことが非常に苦手なのです。
医師が相手でも、なかなか腹を割って自分の弱みを見せることができない。
けれどある日、血圧を7回も計ろうとしてきて・・・
とうとう「さっきも計りました」とイラついた調子で言ったところ
「医者を敬えないなら出ていけ」と怒鳴られ、この医師との関係は終わりました。
医師も相当あれですが、こんな医師の元に向こうから「出ていけ」と言われるまで通い続けた私も相当あれです。
自分から環境を変えるために行動する力が本当にありませんでした。
この後、家の近くにある比較的新しめのメンタルクリニックに通院先を変えました。
そのクリニックに今も通っています。
「出ていけ事件」が2011年のことなので、それから14年、同じ主治医に診ていただいています。
正直、このクリニックも変えた方がいいのかもと思ったことはありますが、私にとって病院を変えるのは非常に大きなエネルギーが必要で、その原動力になるほど「この医者じゃダメだ」というエピソードがないまま今に至る感じです。
◇二度目の休職・退職
新しい医師になり、薬の調整も入りました。
それまで三環系と呼ばれる古い薬がメインでしたが、新薬も試していくことになりました。
薬は相当変遷しています。
最初の3ヶ月ほどは効果を感じられても、だんだん効かなくなることが多かったからです。
また薬によっては副作用の大変きつかったものもあります。
担当していたクライアントさんは、年初の1月が最繁忙期。
私はクライアント常駐で普段はクライアントに直行直帰でしたが、繁忙期は9時前から17時半までクライアント勤務。20分ほど歩いて自社に出社し、22時から23時頃まで残業。
1月はそういう日々が続きます。
そんな折に薬を変えてしまい、副作用の吐き気で水も飲めない状態になりました。
コールセンター、かつ繁忙期。一日中しゃべりっぱなし。
なのに水さえ飲めない。
唇を水で湿らして一日中話し続けました。
今思うとこの時期には休養が必要というシグナルが点滅していたと思います。
けれどまたもごまかしごまかし働き続け、その年の後半に入ってから休職に至りました。
この時の診断名は「うつ病」です。
そしてこの会社でも与えられた休職期間は6ヶ月。
その満了をもって退職となりました。
結局1社目と同じ結果になったのは、入社した時からうつ病の治療中であり、ガス欠状態だった。その状態のまま走ろうとしてしまった。
それに尽きると思います。
仕事内容もきつかったですが、能力的には回せない範疇ではなかった。
人間関係ではいい人も悪い人もいました。
ただアルバイトも社員も、面白い人が多かったです。
まずアルバイトさん。コールセンターで働いている人には、ダンサーさんや舞台役者さん等、私から見て魅力的な「表の顔」を持つ人が多くいました。
よくお笑い芸人が深夜のコールセンターでアルバイトをしていた話をされるのを聞きますが、実際にそうで、個人自業主として働いている方が多くいました。
そういったアルバイトさんたちをまとめる社員にも様々な職歴を持つ人が多く(基本、新卒入社はおらず中途採用者ばかりの会社でした)、良くも悪くもアクがあった。
直属の上司は悪い意味でアクが強く、よく分からない理由で激高すると「ボーナス出ないからね!」と何度も言われましたが・・・。
人事ではないのでそんな権限はないんですけどね。
今思うとパワハラにあたる言動もありました。
また社員側は、アルバイトさんからパワハラで訴えられるリスクを常に背負っていました。
気が強く口が達者な人たちの集まりなので、アルバイトさんのグループ間同士、社員VSバイト、もめ事はしょっちゅうでした。
育成・管理を担う社員の中には実際にパワハラで訴えられた人もいます。それも何度も。
何度も訴えられるのは当人の言動に問題がある可能性が高いですが、アルバイトさんの中には自分の思い通りにならないと「訴える」と言う子もいました。
けれど電話の業界って、気が強く頭の回転の速い子は仕事もできる傾向があります。
そういう職場の環境はキツくもあり、常にワチャワチャとしたある種祭りのような賑やかさもあり、きっとそういう環境も嫌いではなかったでしょう。
けれど私の体は動かなくなってしまいました。
休職満了で退職になったのは2013年1月のこと。
私もまだ30代半ばでした。
その年齢だからあの環境に刺激や楽しさも見出せていたと思います。
今となっては再びあの環境に戻りたいとは思わないし、きっと頭がついていかないでしょうね。
さて、初めて精神科を受診してから5年以上が経ちました。
二度目の休職からの退職。
ここから完全な無職期間が5年間続くことになります。
◎各章へのリンク(全7章)
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