【第6章】うつ病15年の先にあったのは父の死、母の介護、自身の更年期障害、2つのゴミ屋敷ー毒親? 発達障害グレーゾーン?~氷河期世代の私の困った人生
ここまで私の生育環境から、長いうつ病どん底時代。その後の混乱期のお話をしました。
この章からようやくタイトル回収に入ります。
2023年、父が亡くなりました。
□父の死
◇父に余命半年の宣告
2021年3月にうつどん底期から急浮上。
内側には様々な混乱が渦巻き続けていましたが、仕事の方は順調で2021年の4月に就業した派遣先で契約更新を重ねていました。
2023年4月のある夜、母から「お父さんが2階から降りてこない。お母さんは2階に上がれない」と連絡がありました。
ともかく救急車を呼ぶよう促しましたが、母から父に電話をすれば会話は出来るとのこと。
結局翌朝、近所の人に2階に上がってもらい、ケアマネージャーさんを呼んだのち、救急搬送されたと母から連絡がありました。
そして搬送先の病院から、私に電話がかかってきました。
父は2年前に肺がんの手術をしたのですが
脳を含む複数の臓器に転移している
脳の腫瘍を取らなければ余命は1ヶ月
腫瘍を取っても半年もつかどうかだが、腫瘍を取らなければ脳で腫瘍が大きくなる間の1ヶ月、大変苦しむことになる
ーとのことでした。
私は言葉を失いました。
2020年から始まったコロナ禍のため、とくに東京に住む私は実家に帰る回数を極端に減らしていました。
万が一にも高齢の両親に私から移してはいけないと思ったからです。
2021年の肺がんの手術の際は、緊急事態宣言が発令中。
病院に立ち入ることも禁止されており、またステージ2でさほど危険な手術ではないとのことから、帰省もしていませんでした。
その手術のあと、帰省したのは2回だけです。
父の状態がよくなく、寝室のある2階にこもりがちで食事にもなかなか降りてこないという話は母から聞いていましたが、そこまでのことになっているとは思っていませんでした。
余命半年の宣告を聞いたのは在宅勤務中でしたが、翌日の出社勤務の際にも主治医から連絡をいただき。
休憩室の隅で、手術はどうするか、本人に余命を知らせるか等を話し合いました。
結論としては、取りあえず余命は知らせないで手術を受けてもらうことになりました。
余命を知らせてしまうと、手術を受けないと言い出す可能性や、手術後のリハビリに取り組む意欲が持てない可能性があったからです。
(リハビリしても自分で食事が取れるようになるかどうかという状態でしたが)
父はちょっとした風邪でも大げさに騒ぐ、ささいな切り傷でもガタガタ言う、そして病気が見つかるのが怖いから病院へ行かないというタイプでした。
コロナワクチンも接種していません。
それは何かしらの主義信条に則ったものではなく、「そんな訳が分からないものを体に入れるのは怖い」という理由でした。
私が幼い頃に身勝手で暴力的だったのは、弱さの裏返しであることがこの時の私には分かっていました。
父の主治医ではなく、私のメンタルクリニックの主治医に聞いた話ですが、脳で腫瘍が大きくなると、強い鎮痛剤も効かなくなり、比喩表現ではなく痛みで眼球が飛び出ることもあるそうです。
腫瘍の進行を考えると、ああだこうだ考えている時間はありません。
とにかく父には手術を乗り切ってもらうことにし、翌週に手術日を入れてもらいました。
◇手術2日後に急変
この時の私の仕事のことを少しお話しすると、前職に引き続き、給与計算にも関わる業務でした(それがメインではありませんが)
大企業で各業務は非常に細分化されており、事業規模のわりに一つ一つの業務は信じられないほど少人数で回していました。もちろん部署によると思うのですが、私のいた部署はそうでした。
とくに月初、給与計算に向けて発生する業務は派遣の私と社員さん2名の計3名で回していました。
2023年のこの時期、会社では大規模な組織改編が行われていました。
またゴールデンウィークは9連休。
月初業務の開始は大きくずれ込みますが、もちろん給与支給日が変わるわけではありません。
4月から5月にかけては組織改編の影響でイレギュラーな業務も多数発生しており、その上ゴールデンウィークを挟むので大変忙しい日々でした。
父の手術はゴールデンウィークの直前、4月26日に行われました。
まだコロナ禍中であり、病院待機ではなく自宅待機でした。
在宅ワークが認められているのは東京の自宅のみでしたが、実家に会社のパソコンを持ち帰り、手術の数日前から実家で在宅ワークを行っていました(後に実家でも在宅ワークできるよう許可をいただきました)
手術の日とその前後、合わせて3日間はお休みをいただきました。
手術前日は父に会いに行き、手術翌日は、手術後の転院先として候補に挙げていただいた幾つかの病院へ下見に行きました。
手術当日は自宅待機。12時間以上に及ぶ手術でしたが、無事に終了。
翌27日の夕方、経過も順調であり、ICUから個室に移ったこと、会話も出来る状態であることをご連絡いただきました。
28日は家族の面会も許可されていました。
しかし28日はゴールデンウィークに入る前日です。
忙しい最中、少人数で回している仕事に極力穴を開けたくなかった私は、翌日から9連休ものゴールデンウィークに入るのだからと、この日は仕事を優先しました。
残業も含め19時に終業。
父の心臓が止まったと病院から連絡が入ったのは、その4時間後のことです。
◇最後の笑顔
私と母がタクシーで病院に着いたときは日付の変わる少し前。
心臓が止まりすでに1時間近く経過している父は、ぽかーんと口を開けており、素人目にみても呼びかければこちら側に戻ってくると思える状態ではありませんでした。
不謹慎な話ですが、ドリフのコントで死体役をやる人がやるあの表情です。
「死んだら本当にこんな風になるんだ」と思いました。
主治医がまだ病院に到着しておらず、心臓が止まると「ピーーー」っと鳴る機械は主治医の死亡宣告があるまで止められないと、ずっと「ピーーー」っと音を出し続けていました。
日付が変わり4月29日に入ってから主治医が到着。
若い先生で、病室に入ってこられたときにショックを受けたような感じで目を見開かれたことをよく覚えています。
その表情に、私は少し救われました。
父の死が病院でよくある流れの一つではなく、先生の気持ちを動かす出来事の一つだと思えたからです。
死亡宣告の時、先生はご自身のスマホで時間を確認していて、「現代っ子め」と思いました。
夜中に急きょ呼び出されたので、腕時計をしていなかったのかもしれません。
父が亡くなった。
ショックを受けると同時に、私の中では「大変なことになった。これからどうすればよいか」と考える非常時モードの自分が立ち上がり、世界をよく観察していました。
父と最後に会ったのは手術の前日です。
この時すでに父の認知機能はかなり衰えているように思えました。いえ、脳の腫瘍の影響で言葉をうまく発することも出来なかったので、思いはあっても表現することが難しかったのかもしれません。
恐らくそのどちらもだったのでしょう。
何か伝えようとしているのは分かるのですが、なかなか理解することが出来ませんでした。
ようやく分かったのはタンスの引き出しに何かのためのお金が5万円入っているとか。5万円を軽んじるわけではないですが、とくにどうということのない内容でした。
病室を去るとき、私は父の頬を両手で包み込み、「がんばってや」と言いました。
私の手が触れた瞬間に父の顔がほころび、まるで赤ちゃんのように無邪気な笑みを浮かべました。
それが、生きている父が私に見せた最後の表情です。
次に見たのは、ぽかーんとドリフのコントのように口を開けている死に顔。
看護師さんに聞いたところによると、夕食も取り、30分前に会話もしたとのことです。
けれど看護師さんが詰め所に戻った30分後、父の心臓が止まったことを知らせるアラームが鳴ったとのことです。
医師によると元々心臓が弱っていたところに、手術による負担が重なり、突然心停止したと思われるとのことでした。
死亡宣告のすぐあと、母が父の弟、私の叔父に連絡し病院に来てもらいました。
父を見るなり、「情けない」と泣き崩れました。
そうなのです。
重ねて不謹慎を承知で言いますが、父の死に顔はマヌケで、叔父の言葉を聞いて、「やっぱり情けないよな」と思いました。
ぽかーんと口を開け、なんの苦悶もそこからは感じられません。
医師の話と総合しても、父の心停止は本当に突然で、父は苦しむことなく、自分の心臓が止まったことに気づくこともないまま旅立ったのではないでしょうか。
手術後の余命は半年。
父には知らせず手術を行いました。
その半年、手術しても思うように動かない体に、父も死を予感するのではないか。
その半年を、私たち家族はどう過ごせばいいのだろう。
手術後は療養のための病院に転院しなければならず、紹介された病院の口コミなどを見ていましたが、「オムツをつけて寝かせているだけ」等のコメントもありました。
手術後の半年は、手術前から大きな不安の種でした。
けれど手術の3日後、父はあっけなく逝ってしまった。
振り返ると、父にとっても、家族にとっても、誰もが一番苦しまない結果だったのではないか。
そう思うのは、私が自分をそう納得させたいからなのかもしれないけれど。
父が最後に見せてくれた表情が、赤ちゃんのような笑顔であったこと。
それは父の生涯最大の善行だったと思っています。
◇父の葬儀・圧し掛かってくる母
喪主は私が勤めました。
足腰の不自由な母はシルバーカーを押してどうにか歩ける状態。また様々な決断を自分で下せない、普段から言っていることも道理が通らないというか、ともかくしっかりしておらず、喪主が務まるとは思えませんでした。
叔父と二人三脚で通夜と葬儀を執り行いました。
母には葬儀会館で借りた車いすに乗ってもらいました。それを押し、喪主を務めながら母の身体介護もしなければなりません。
進行表をチェックし、トイレに行くなら今と母をお手洗いに連れていく等々。
父の死に非常に大きなショックを受けた母は、呆然とするか泣いているかのどちらかでした。
私は泣く暇もありません。
時間がないだけでなく、泣く心もなかったのかもしれない。
いえ、泣きたい思いは強くあったけれど、涙を見せられる相手がいませんでした。
父が亡くなった。
親を亡くすのは初めてのことです。
けれど私には、素の自分を晒して泣き言を言い、涙を見せられる相手がいませんでした。
久しぶりに会う親戚や、何人かの人が「一人で抱え込まないでね」と声を掛けてくれましたが。
私だって一人で抱え込みたくはない。
この心の重みを一緒に抱えてくれる人が心の底から欲しいと思いました。
けれどそんな人はこの世界に存在しません。
泣いて周りから慰められている母を冷めた思いで見ていました。
私も母を慰める側に回れば良かったのでしょうか。
けれど私はせめて母と支え合いたかった。
実際の母は一方的な重しとなって私に圧し掛かってきました。
決断や物事の進行はすべて私任せなのに、ああしたいこうしたいと要求だけは言ってくる。
そしてあの否定癖です。
「なんで〇〇の方にしなかったん?」
叔父に家と葬儀会館までの送迎をお願いした時など「(叔父を)いいように使ってからに」と。
私一人であれば送迎をお願いする必要はなく、体の不自由な母のためにお願いしたことなのに、です。
母は母宛に届いた封書さえ自分で開けようとしませんでした。
「お母さん宛やで」と言うと
「開けたらあかんと思って」
母の中では、封書の中には香典が入っている。
そういうことは娘の仕事。
という理屈なのです。
「自分は何もしない」
という意思を明確にしてきました。
家のあらゆることは父が仕切ってきました。
父が亡くなった今、母の中ではそれらはすべて娘である私にスライドされたようです。
支え合うとはまるで遠い。
ただただ、母が全体重を私に乗せてくる。
このままでは私が母に押しつぶされる。
葬儀直後からそう感じ始めていました。
◇「ケアマネのせいで父が死んだと娘が怒っている」~母の思考回路が分からない
父を亡くした母のショックは思っていた以上でした。生前、あれだけ悪しざまに言っていたのにと、意外に思いました。
父の1回目の手術のあと2回帰省しましたが、その時の二人の関係非常に悪く「お互いのせいで人生が最悪だった」と罵り合う状態でした。
それも私がいるから会話があり、二人だけだとほぼ会話もないと父が言っていました。
1回目の手術後、父の体力が思うように回復しないこと、また実家がゴミ屋敷であること、この辺りのことを私、母、ケアマネージャーさんの3人で話し合う機会がありました。
その時、母は驚くほど父のことを悪く言っていました。
私が幼い頃から母は父の悪行ぶりを私に愚痴っていましたが、その私が引くほどです。
私が生まれる前の結婚前後から、50年分の積もりに積もった父への恨みをケアマネージャーさんにぶつけており、他人にはこれほど強い言葉で父のことを非難するのかと驚きました。
しかもその最中に、チラチラと私の方を見ながら
「この子、お父さんのこと悪く言うと嫌な顔するねん」
と言うのです。
これには本当に傷つきました。
実家で暮らした20年、たしかに父も母も私は人だとは思っていなかった。
けれど父の悪行ぶりの方が格段にひどく、私は100%母側についていたつもりです。
けれど母にはそれが伝わっていなかった。
またその話し合いの場で、うちの経済状況によって今後の介護体制も変わるからという話の流れで、うちの経済状況が一切ケアマネージャーさんに伝わっていないことが分かりました。
母は当時、私にも預貯金額など家の財産について明かしておらず、言うことを拒否しました。
ケアマネージャーさんは「娘さん、お母さんのお金を盗ろう
なんとなくケアマネージャーさんの言葉から、母がケアマネージャーに悪く言っているのは、父だけではなく、私も含まれているんだろうなと伝わってきました。
ちなみに私にはケアマネージャーさんの悪口を散々語っている母です。
あっちにはこっちの悪口。こっちにはあっちの悪口。
それが母という人です。
あとあと分かることですが、母はケアマネージャーさんのみならず、母の姉や近所の人にも私の悪口を言っていました。
私は母の「周りの人すべてを悪く言う」性格を知っているので、何事も話半分で聞いていますが、母の話を真に受けている人は私のことをどんな悪い人間だと思っているでしょう。
とくにこのケアマネージャーさんとは初めから関係が良くなく、結局最後まで関係は悪いままでした。
親戚や近所の人は私と直接やり取りをしたことがありますが、ケアマネージャーさんは私と言う人間をまったく知らない状態で母の言葉を聞いていることが一番の原因かなと思っています。
父の死後もケアマネージャーさんとの間に亀裂を生む出来事がありました。
あろうことか母が「ケアマネのせいで父が死んだと娘が怒っている」と当のケアマネに伝えたのです。
私はそんなことを言ったことも、思ったことも一切ありません。
コロナ禍前から家族仲はよくなく、私自身実家のことに介入できる余力はまったくありませんでした。そしてコロナ禍。
実家の問題にはほとんどタッチしておらず、ケアマネージャーさん含め、実家の地元自治体の中で、問題ごとは対応してもらってきました。
なので感謝こそすれ、『ケアマネのせいで父が死んだ』という気持ちはまったくなく、母がなぜそういう発想に至ったのか、いまだに分かりません。
母から恐らくろくでもない娘と聞かされているケアマネージャー側は警戒したのでしょう。
上席の地域包括のケアマネージャーさん含め、3人で家にやっていらっしゃいました。
そこで父を救急搬送するまでの経緯等をお話され、私が「ケアマネのせいで」と怒っていると伝わっていることも知りました。
私の方からは、まず感謝こそすれ怒ってはいないこと。
母の言葉は話半分以下、すべては疑いつつ聞いているということなどをお伝えしましたが・・・。
どれくらい相互理解が得られたのか、正直分かりませんでした。
この一件にも大きく疲弊させられました。
「母って本当にとんでもない人なんだな」
またしても私は母を人として見られなくなってきました。
◇「ここにいたら母を殺す」
親が亡くなると様々な手続きが発生します。
これも難航しました。
母がまったく協力的ではなかったからです。
年金や生命保険の請求など、本来は母がする手続きからすべて、私が行いました。
母はまとまりなくあれがこれがと言ってきますが、結局それらは「全部私にやれ」ということなのです。
実際、シルバーカーに携帯酸素をぶら下げてでしか外出できない母には、役所などに直接出向くのは難しいことでした。
そのため手続きによっては委任状、または直接書いてもらう書類等、この時期にたくさん書いてもらわなければいけないものが発生しました。
この母に「書いてもらう」ということが大変困難なことなのです。
コピーなどしてまったく同じ書類を用意し、私が見本を書く。
母にそれを書き写してもらいますが、とにかく「なんでこんなん書かなあかんの」と文句ばかり。
休憩を挟んだり、休憩を挟むごとにペンをなくしたり、1枚の書類を書いてもらうのに大変な時間と労力を要しますが、その間、ずっと母の文句を聞かされ続けます。
「文句言ってないで書いてくれないかな」と思うのですが、口を挟むと母が文句を返してくるので、よけいに時間がかかります。
「ここにこれ書いて」と最低限のことを伝え、あとはひたすら文句に耐えるのみ。
そんな状態の中、役所の対応も正直ハズレの人に当たった感があります。
まず年金事務所では、母本人が来て手続きできない理由を何度も確認されました。その上で手続きに入りましたが、おそらくあまり慣れていない人で、質問をすると同じ書類を数分間黙って読んだあげく、ぶっきらぼうに「ここに書いてます」の一言。
ここ、本当にひどくて・・・。足元に人の収入証明か何か、けっこうな金額の記載された書類が落ちていましたし。
向こうに言われるままたくさんの書類を書きましたが、結局あとからまだ書いてもらう書類があったと電話が入りました。謝罪の一言もなく「また来てください」と当然のように言われて。平日の日中に時間を作るためには、平日フルタイム勤務だと仕事の休みを取らないといけません。最終的には郵送にしてもらいました。
また市役所の人は「三菱UFJ銀行」の「菱」の草冠の下の部分が少しぐしゃっとなっていたため、「これ読めるかな」と言い、手はすでに書き直しをさせるための書類に伸びていました。
役所にそれが「三菱UFJ銀行」であると判断できない人がいますか?
私も気が立っていたので「はぁ?」と言葉には出さず睨んだら、書類に伸びていた手を引っ込め、そのまま受理されました。
いずれも父が亡くなって2週間以内の話で、父が亡くなったことに関連する書類です。
普段であれば「お役所対応w」と笑い飛ばせるようなことでも、父を亡くした直後、そして母との軋轢、様々なことが重なった状態の私には本当に堪えました。
2021年の変化から感じていたことです。
やはり世界は冷たい。
親も、国も、世界は私を押し潰そうとしてくる。
なかでもやはり母の存在が重かった。
嚙み合わない会話。
あれもやらないとこれもやらないとと言うわりに、たとえば「それは何銀行?」と尋ねると、「イズミヤ」(関西をメインに展開するスーパーです)と頓珍漢な答えが返ってくるのです。
イズミヤにATMがあったとか、そういうことだと思うのですが。
ほかにも、昨日言ったことと今日言っていることが違う。
相談を持ち掛けられた翌日「昨日の件だけど」と切り出すと「そんなこと言ってない」
何か尋ねると話の出だしが「覚えてない? この間言ったやん」
それでどう言ったのか尋ねても本人も曖昧。
実際に行動するのは私なのに、母から得られる情報はあまりにも不確かで漠然としています。
それで行動に移せないでいると「なんでやってくれへんの?」「これぐらいやってくれてもいいやん」
・・・自分で出来ないことを「これぐらい」でくくらないで欲しい。
基本的にあらゆることが母の中で「娘がやること」になっている上、「これぐらい」だと思っているので、母のために行動しても感謝も得られません。
そればかりか母の中では、あれもやってくれない、これもやってくれないと、不満が大きくなる一方です。
その上、家のゴミ屋敷問題もありました。
あらゆる書類はゴミ屋敷の「どこか」にある。
とても探せません。
その上届いた書類も、母がどこかに仕舞い込んでしまう。
たとえば病院からの請求書。
父が病院で亡くなった時、大きな病院にあると噂で聞いていた、亡くなった人が通る秘密の通路を通って霊柩車が待つ駐車場に出ました。
もちろんお会計をするタイミングはありません。
父が亡くなって1ヶ月近く経ってからそのことに気づき、母に「お会計どうなった? 何か書類届いた?」と聞いて初めて、なぜそんな棚の中に仕舞い込んだのかと思うような場所から書類を出してきました。
書類を開封すると(当然のように未開封でした)、入金締切は明後日に迫っています。
この時は私が気づいたから良かったですが、私が存在を知らず、気づきようもないこともあるはずです。
せめて書類管理を自分で出来れば、書類をすべて自分で書ければ。
母がいなければ負わずに済んだ苦労があまりに多いと感じました。
「姥捨て山の存在は正しかった」
この時の私は本当にそう思いました。
あの残酷な話。
けれど先の長い者が生き延びるために、負えない重荷は捨てなければ押しつぶされる、共倒れになる。
父が亡くなって1ヶ月もしないうちに、私はネットで「親との縁の切り方」を調べるようになっていました。
そして6月10日、私の誕生日。
午前中に父の車を業者に引き取りにきてもらい、午後に四十九日を執り行いました。
この日は土曜日だったので用事をまとめたのです。
そう、この時も私は仕事に極力穴を開けないようにしていました。
けれどこの日、私の中で何かが限界を超えました。
数日後、ケアマネージャーに「このまま実家にいたら母を殺す」と告げ、私は東京に戻りました。
□3回目の休職~「使い捨ての駒」
◇上司「ゴールデンウィーク中で良かったですね」
仕事の方はゴールデンウィーク明けにひとまず出社しました。
その際、父が手術後に亡くなったことを伝えました。
上司としては今後も働き続けられるのかが気になるようで。
「一人っ子でしたよね? 今後実家に帰る可能性はありますか?」
一通りのお悔やみの言葉のあとに出た言葉はそれでした。
そこまではいいのですが、とくに忙しい最中ということもあってか、今後、実家で在宅ワークをさせていただく許可をいただいたあと、手続きなどでお休みや半休をいただく可能性があることを伝えると
「時間休で対応できませんか?」等、極力休みは取らないで欲しいという方向です。
先にお話した通り、細分化された業務の最小単位はとても少ない人数で回しており、また組織改編も重なって一人抜けると影響が大きいことも分かるのですが、こちらは派遣なので、待遇面では正社員とはかなり違います。
あまつさえ「ゴールデンウィークでまだ良かったですね」とも言われました。
この会社にとって派遣は末端の駒に過ぎないのでしょうが、「心のある人間」とも思われていないのかと、耳を疑いました。
それに・・・正確には父の心臓が止まったのはゴールデンウィークの前日でした。あの日勤務しないでお見舞いに行っていれば、父と会話することが出来たのに。
これは会社側の預かり知らぬことですし、その日に仕事を優先したのは私の判断です。
私の大きな判断ミスであり、大きなしこりが残る出来事でした。
それでも2021年の私自身の混乱期から2年以上お世話になっている会社です。
それまで表面的には業務内容的にも人間関係的にも問題なくやってこれました。混乱のさなか、それまでの職を転々とする状態から抜け出し、1つの会社に年単位で、それも在宅ワークがメインの会社に勤められたことは幸いでした。
◇胸の痛みの原因はストレス~それでも上司の言葉は「良かったです」
その後も表面的な関係はそれまでと同様に続きましたが、私の中では「上司の中では私は完全に駒なんだな」という思いがありました。
諸々の心労が重なったのか、秋頃から胸に痛みを感じるようになりました。
私は小さな頃、とくに喘息時代には肋間神経痛が重く、喘息がほぼ治ってからも肋間神経痛はしばらく残っていましたが、いつしかほとんど症状は出なくなっていました。
今回の痛みはその肋間神経痛とも違うように思います。
痛みの頻度は増し、気がつけば常に胸に手を置いてマッサージするようになっていました。
そこで上司にも胸に痛みがあること、そのため循環器内科を受診することを伝え、お休みをいただきました。
病院での検査の結果、器質的には問題なし。
「最近ストレスを受ける出来事はありましたか?」
と聞かれ、春に父が亡くなったことを伝えると、気持ちを楽に生活してくださいというようなアドバイスを受けました。
上司に器質的に問題はなく、ストレスが原因であることを伝えて返ってきた言葉はー
「良かったです」
器質的な問題でなくて良かったということだと思いますが。
ストレスが原因で病院を受診するほど胸に痛みが出ているにもかかわらず、「良かったです」
この人とはやっていけない。
その後、派遣会社を通して諸々の経緯を辿り、休職することになりました。
人生3度目の休職です。
実は「諸々」の中にはちょっとひどい話もありました。
医師から休職指示の診断書をいただいた話をしたところ、「その日付で退職届を出してください」と言われました。
派遣とはいえメンタル疾患を理由に解雇はできませんし、まして退職届の提出を強制はできません。
完全に労基案件で、こちらも相応の機関に相談するとお話した結果、「行き違いがありました」と休職扱いになりました。
実際、すべて派遣会社を通してのことなので、派遣会社と派遣先の間でどういうやり取りがあったのかは分かりません。
派遣はていよく使える「使い捨ての駒」です。
「人間扱いされていない」と感じることは、私に限らず経験されている方も多いのではないでしょうか。
□2021年の変化とはなんだったのか? 振り返って分かったこと
◇真っ先に変わったのは「睡眠」だった
5章で書いた通り、2021年の3月、私の体に大きな変化が起きました。
15年もの間、目を開けていられないひどいだるさに絶えず襲われている状態だったのが、目を開けていられるようになった。
起きて活動できるようになったのです。
メンタル的にはそれ以降も希死念慮は強く、その時を境に急にポジティブ思考になったりもしていません。
考え方が変わったから行動が変わった、というわけではないのです。
ただ眠れるようになったし、何より睡眠で疲労が取れるようになったのです。
それまで、寝ても寝ても疲労が取れませんでした。
うつ病ではまず休息が大事と言われますが、睡眠で疲労が取れず、休息が取れないのです。
ずっとひどい睡眠不足のような状態で、そのため日中でも目を開けていることができず、ほとんど何も行動することができない。
それが私のうつの時の体の状態でした。
それが2021年3月のある夜を境に、睡眠で疲労が取れるようになったのです。
疲労が取れることでようやく行動できるようになり、行動できるようになったから、メンタルにも変化が生じ、また大量に服用していた薬の大半を断薬し、麻痺していた色々な感覚も蘇ってきたのでしょう。
ここまで感覚が蘇ったことで感じた社会の冷たさをメインに書いてきましたが、感じるようになったのはそれだけではありません。
うつ期に読めなくなっていた活字が読めるようになってきたので、長く趣味だった読書を再開。たくさんの小説を読み、いちいち震えるほど感動しました。
その後、絵を描くことにも繋がりますが、世界の色々な美しさに感動したり、感銘を受けたり。
15年飛んだことでメンタルが若返ったのか、子どもの時に感じていた「世界のキラキラ」がまた見える、感じるようになりました。
世界はなんて興味深く、美しいんだろう。
こういった様々な変化は、睡眠の変化から始まったことです。
◇変化の原因に気づいたとき「一番愛されたい人から愛されない人生だった」と思った
それではなぜ、睡眠が変わったのか。
このことは2021年の変化から1年以上経って気づきました。
この章をここまで読んでくださった方の中には、お気づきの方もいるかもしれません。
2021年、父が肺がんの手術を受けています。
ことの始まりは2020年の年末、父が心筋梗塞を起こして救急搬送されました。
この時は一命をとりとめたのですが、その際に肺がんが見つかりました。
3月は、肺に見つかった腫瘍が検査の結果がんであると判明した時期です。
その後の検査でステージ2と診断され、5月に手術を受けました。
父ががんになった。
その前の心筋梗塞もあり、私は初めて父の死を意識した。
ほかに2021年の変化を引き起こした出来事は思い当たりません。
1年以上経って、当時の記録を振り返ってようやくこの2つが結びついたのです。
2021年の渦中においては、父が死ぬかもしれないということは、私にとって大きすぎてかえって視界に入らないくらいだった。
この2つの関連に気づいたとき
「一番愛されたい人から愛されない人生だった」と思いました。
父なりに愛してくれていたことは十分理解しています。
けれど子どもの時は、とても愛されていると思えなかった。
実家では長く犬を飼っていました。
私が生まれる前から12才の時まで生きたゴン。
私が11才の時から30才まで生きたシロ。
とくにシロを父は可愛がっていて、毎週のように山や公園などに連れて行っていました。
大きめの中型犬で体力のあったシロは、父の良いお供でした。
けれどシロが体調を崩したり年老いてからは遊べなくなり、そんなシロの面倒は母にまかせきりでした。
一緒に遊べて楽しい時は可愛がる。
でも面倒はみない。
それが父の可愛がり方です。
私への態度もそれと同じでした。
少なくとも私が実家で育った20年間は。
横暴だった父は、とくに定年退職してからは性格も若い時に比べると丸くなり、人への優しさも時にはあったと思います。
母へはほぼほぼ最後までその優しさは向けられませんでしたが。
性格的には私は母より父に似ていて、父はときに私に向けて話の合う同士のような笑みを浮かべることもありました。
けれど・・・
「本当は愛されていた」といくら思い出し、並べてみたところで、愛情の飢餓感はどうしようもありません。
子どもの時にしか満たせないコップがあるのでしょう。
父の葬儀の少しあとのことです。
夕暮れ時、実家の近所の中央環状線を歩いていました。
父には子どもの頃、シロと同じようにあちらこちらへ連れて行ってもらいました。
父の運転する車でどれほど中環を走ったでしょう。
子どもの頃、両親を鬼だと思っていた私は、寝るときに聞こえる中環の音を「人の生きている音だ」と感じていました。
ーあそこに行けば人がいる。
色々な意味で思い入れのある中央環状線。
歩きながら、子どもの頃の想い出がたくさん蘇りました。
実家で暮らした20年、本当に地獄だった。
「この家にいたら死ぬ」
そう思って東京に出た。
それなのに・・・
あの20年をもう一度過ごしたい。何一つ変わらなかったとしても。
そう思ってしまった時に、涙が溢れました。
あんなに苦しかった20年。
それでも子どもに戻って父と、母と、過ごせたなら。
一度泣き始めると涙を止めることが出来ず、私は泣きながら中環を歩き続けました。
どれだけ歩いても、あの日々には帰れない。
お父さんにはもう会えない。
◎各章へのリンク(全7章)
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