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【第4章】うつ病15年の先にあったのは父の死、母の介護、自身の更年期障害、2つのゴミ屋敷ー毒親? 発達障害グレーゾーン?~氷河期世代の私の困った人生

一章で私の生育環境について
二章では2000年の大学卒業まで
三章では派遣転々時代から正社員を経てのうつ病発症。2度の休職・退職のお話をしました。
この章では長いうつ期間のことをお話します。

【Caution】自殺企図、OD(オーバードーズ)等の表現があります。
影響を受ける方、強い忌避心を抱く方など、閲覧にはご注意ください。


□5年間の無職時代

◇生と死の大きな葛藤~包丁を首に押し当て

私のうつ病の症状は
・強い希死念慮
・体が鉛のように重く動かない
この2点が主でした。

死にたい思いは常につきまとい、医師への主訴もそれでした。
「どうして死にたいと思うの?」と問われても
「とにかく死にたい」
そう繰り返すばかりでした。

OD(オーバードーズ)で何度か病院に救急搬送されたのもこの時期です。
この期間は抗うつ薬、向精神薬、睡眠薬、抗不安薬。大量の薬を処方されており、私は時折規定の数倍の量をいっきに飲んでいました。
ほとんどの場合、ただ長く眠るだけで何も起こりません。
一人暮らしの私の行動を見ている人はいないので、私のそういった行動も誰にも気づかれないままです。
ただ何度か母からの電話やメールにも応答しなかったため、母が救急へ連絡、うちに救急車が来るということがありました。
救急車が来たときに応答できないほど昏睡していたことはなく、朦朧としながらも応答できていたためか、病院に運ばれても胃洗浄まではいかず、点滴をしていただき、帰される。
そういうことが何度かありました。

薬の大量服用ではそうそう死なない。

そう分かってはいても、ときに何十錠もの抗不安薬を胃に流し込んだりしていました。

本当に死のうという思いが強まった時は、台所で包丁を首筋にあて、動脈を切ることを試みました。
包丁を首に押し当てる。赤い跡はできる。
けれど引くことは出来ない。
包丁って引かないと切れないのですよね。
何時間も首筋に包丁をあてたまま台所で震えていたことが何度かあります。

結局決行できないまま部屋に戻り布団に潜り込むのですが、目を閉じると台所の様子が、包丁が瞼に浮かびます。
布団の中にいながらも、どうしても意識は台所に向かってしまうのです。

「寝たら夢遊病のように台所に行って、決行してしまうかもしれない」

そう思うと怖くて眠ることも出来ません。

矛盾した話です。

強い「死にたい」思いに突き動かされ、何時間も包丁を首筋に押しあてる。
それほど死にたいと思っているのに、同時に死ぬことが怖く、決行してしまうことを心底恐れている。

私は包丁を捨ててしまいました。

それ以来包丁を買っていません。

昨年から実家で過ごすことが多く、実家には包丁が何本もあり、それもゴミ屋敷の色々なところから発掘されるのですが、そのたびに私はイライラしながらそれを見えないところに隠しこんでいます。

もう10年くらい包丁を使っていません。

さすがに料理の時に不便なので、お店で買おうかと思ったことはあるのですが、実物を見て「これを家に置く」と思うと、どうしても買えないのです。

包丁を見たり、包丁のことを考えると、あの時台所で包丁を手に震えていた自分が見えます。
それもその時の私の視線ではなく、一歩引いてそんな私を見ているもう一人の私の視線で見えます。


現在に至るまで、私の希死念慮は強く存在しています。
けれどまだ死んでいない。
それはこれほど強い「死にたい」を凌駕する「生きたい」が同時に存在するからです。
「死にたい」理由をいくつ並べ立てても、もって生まれた命の炎の強さにはかなわない。
炎が燃えていることに理由はありません。
ただ、そう生まれた。

うつのどん底期、行動としてはただ寝ているだけの時間がとても長かったです。
傍から見れば非常に不活発な状態だったでしょう。
表情もなくどんよりした目をしていたと思います。

けれど内側には大きな葛藤、生と死の闘争が渦巻いていました。

いつしか「死にたい」が荒れ狂うたび、それを凌駕する燃え盛る炎が見えるようになっていました。

それが私の本能であり、生命力なのだと思います。

◇トイレにも行けないほど寝込む日々~漏らしてもそのまま

うつ病発症初期からの症状ですが、この世から「楽しい」が消えました。
それまでの私の主な趣味は読書と観劇でしたが、それが壊滅的に出来なくなりました。
とにかくだるくてだるくて、目を開けていられないのです。
出社していた時代は、朝、人気のない道を歩くときは目を閉じて歩いていたくらいです。
9秒目を閉じ、1秒目を開けて周囲の確認。
大通りに出るまではその繰り返しで歩いていました。
何度も電柱にぶつかりました。
嘘みたいな話ですが、それくらい目を開けていられなかったのです。
そしてそんな状態でありながら出社していた時期があったのです。

無職になってからは一日に18時間くらい寝る日々でした。
「寝ている」と「起きている」に明確な境はなく、ただ布団の中にいる。
本当に体の機能が落ちている時は、トイレさえ1日に1回か2回しか行かないほどでした。それほど代謝が落ち、体が不活発な状態になっていたのだと思います。

実は私、子どもの頃、小学高学年になるまでおねしょ癖がありました。
もしかするとそれもストレスゆえだったのかもしれませんが。

このうつのどん底期も何度かおねしょしました。
それもしてしまったあとも起きることが出来ず、布団をてきとうに重ねるか体をずらすかして、寝続けました。
お風呂にも2週間くらい入らないことが普通でした。

まったく一人で日常生活が送れる状態ではありませんでした。

この時は、何らかの支援に繋がるべき時期であったと思います。

けれど医師にそこまでの惨状は伝えておらず、病院に行く前日はお風呂に入り、薄くメイクもして、小ぎれいにして行っていました。

上辺は取り繕えてしまうのです。
本当に困窮している人は取り繕うことも出来ないという考えもありますが、私は取り繕えてしまうがゆえに、具体的な支援には繋がらず、一人苦しみを抱え続けました。

うつ病を発症し、大量の抗うつ薬を服用していた期間は15年に及びます。

取り繕えない自分であったなら
苦しさを表現出来る自分であったなら

15年もの間、深海に一人沈むような感覚を味あわなくて済んだかもしれない。

後の章で書きますが、人生の中で30才から45才までの15年間を失うということは相当なマイナスです。
取り返せないものがたくさんあります。
薬を飲まなくてよい状態になったからといって、社会の軌道に乗れるわけではありません。
自分の子を持つことも一生ないでしょう。

「タラレバ」は意味がありませんが、この時に救ってくれる人がいたなら。
そう思います。

◇30kg激太り・生理が止まる

うつの症状は常に一定ではなく、一日にバナナ1本しか食べない時期もあれば、過食期もありました。
ほとんど動かない、動けないことには変わりないのですが、一人暮らしなので本当に最低限の買い物には行きます。
過食期には100円ローソンに行き、100円のお菓子を大量に購入しました。
それを布団の中で、時に横になったまま食べては寝る日々です。
この時期、体重は半年で30キロ増加しました。

こうして振り返ると、うつ病とは自己肯定感が下がることの連続です。
朝起きようとしても起きられない。
会社に行こうとしても行けない。
お風呂に入ろうとしても入れない。
無職になってからは、せめて日が出ているうちに外に出ようと思っても出かけられない。
日が沈んでから安いお菓子を買い込み過食。
その結果の激太り。

ちなみにこの30kgのうち20kgは、3年かけて落としました。

うつ期間に負った心身のダメージの回復には、本当に長い時間がかかります。

また抗うつ剤の影響かこんな生活の影響か、生理が止まりました。
半年ほど来なかったので、女医さんのみという新宿の大きな婦人科へ行きました。
新宿の高層ビルに入っている婦人科ですが、なんと私が最初にうつ病を発症した会社の本社が、大久保からそのビルに移ってきていたのです。
そのことを知ったのはビルに着いてからなのか、その前なのか。知っていてあえてその婦人科を選んだのか・・・。今となっては分かりません。
かつて共に働いた人たちが同じビルにいるかもしれない。
婦人科で内診台に乗りながらそんなことを思いました。
世界がとても遠く感じました。

診察の結果、体には問題なく。
ピルをしばらく飲むことで生理は復活しました。

◇「楽しい」感覚の喪失と唯一の光

まったく動けない期間が過ぎると、多少行動出来る日々がやってきました。
けれどこの期間も苦しかった。
うつ病を発症する直前まで楽しく通っていたジム通いを再開させましたが、以前はあれほど楽しかったスタジオレッスンがまったく楽しくないのです。

活字も多少読めるようになったので本も読みましたが、まったく楽しめない。
映画やお芝居は観ている最中に必ず寝てしまう。

寝るだけだった日々に楽しみがないのは仕方のないことですが、以前楽しかったことが出来るようになっても、「楽しい」という感覚が戻ってこない。

これはこれで大きな苦しみでした。

何をしても何を見ても、砂を噛むよう、世界から色彩は抜け落ち、灰色の世界。

動けない期間と、動けても楽しみを感じられない期間、数年に渡り、この二つを行ったり来たりしました。

このうつのどん底期は深海で過ごすような日々でした。
その中で唯一楽しいと思えたのは“推し活”です。
2回目の休職に入る前、コールセンターのスーパーバイザーをしていた時代、私はL'Arc~en~Cielのライブに初めて行きました。

私が大学生だった4年間は1990年代後半、数々のアーティストがミリオンヒットを飛ばした時代です。
私も多くのアーティストの楽曲に触れ、好きなアーティスト、バンドはたくさんありましたが、一番好きだったのがラルクです。
ですがライブに行ったことは一度もありませんでした。
大学卒業と同時に自分の人生を回すことで忙しく、ラルクの活動もまったく感知しないほど離れていました。
それが2010年、10年ぶりにテレビでhydeさんを見て、「この人まだこんなにかっこよかったんだ!?」と衝撃を受け、翌2011年、ちょうどラルク20周年のツアーが開催されるとのことで、ファンクラブに入り、東京公演と大阪公演を観に行きました。
その時は人生で一度くらいラルクのライブを見てみたい。というくらいの気持ちでしたが、一度ライブを見るとすっかりハマり、それ以降ライブが開催されるときはどのライブも1日は観に行っています。

無職期間のことについてここまで色々と書きましたが、実際に覚えていることは本当にわずかです。
5年もの間、日々をどう過ごしていたのか。
具体的に思い出せる日は少ない。というよりも、ほぼ何もしないまま5年もの年月は流れ去りました。
この5年間ではっきりと思い出せるのは、ラルクのライブの日だけです。
この頃のラルクは1年~1年半に1回、単発ライブをするくらいの活動なので、私の記憶が鮮明にあるのもほんの数日間です。

この期間の人生という物差しには、ラルクのライブの日だけ目盛りがついています。
ラルクは深海に届く唯一の光だった。
きっとそれがあったから生き延びたとも言えるでしょう。
けれど自分自身の目盛りを刻むことは一切出来なかった期間でもある。
そのことがとても悔しく悲しいです。

◇両親の反応、生活費のこと~親と初めて人と人として会話をした

日々の生活費についてですが、最初は傷病手当金。次に祖母が亡くなり、ほかの結婚した従姉たちは生前に祖母から結婚祝い金をもらっているとのことで、その祝い金と同額をいただきました。あとは親からの援助金。
この頃の私は30代後半です。
「実家に帰ってくれば」と言われてもそれを拒否し、仕送りをもらっていました。
この頃は親子関係、とくに父との関係に大きな波が立った時期でもあります。
私の幼少期に母を殴っていたこと等を、人生で初めて激しく責めたてました。
どういう感情であれ、自分の感情を言葉にして父に向けたのは、この時が初めてだったかもしれません。

実家に帰ったとき
「お父さんを殴れ」と言われて・・・
男同士の拳を交えて仲直り的な発想でしょうか。
「通じてねえなもう」と呆れたのを覚えています。

ただこの時期、私が実家で暮らした20年が本当に苦しい日々であったことを初めて両親に告げました。
初めて腹を割って本当の想いを語りました。

幼少期から
「この人たちに本当のことを言ってはいけない」
「油断すると喰われる」
そう思っていて、両親は私にとって本当に人間ではない存在でした。

この時、初めて親と人と人として会話したのです。

うつ期間は私の人生にとって、本当になければ良かったと思う期間ですが、親と人と人として話すことが出来たことは、うつ期間があってこそだと思い、それに関しては良かったと思っています。

5年間、働きもせずほぼ寝て過ごしているような娘に、両親は「早く働きなさい」等、急かしてくることはありませんでした。
30代も後半になっている娘に、仕送りを続けてくれました。
このことにはとても感謝しています。

□派遣転々時代へ~4年で8社

◇採用されるも「働き続けられない」~3ヶ月ごとに変わる仕事

祖母からもらったお金と仕送りで細々とやりくりしていましたが、とうとう働かなければ生活が立ちいかなくなりました。
派遣会社に登録し、再び派遣社員として働くことにしました。

2017年から2021年前半まで。
この4年ほどの間に8つの会社を転々としました。
仕事自体はすぐ見つかるのです。が、勤怠が悪く働き続けることが出来ない。

派遣契約の多くは3ヶ月ごとの更新です。
8社のうち最初の5社は、勤怠不良により一度も更新されず契約が終了しています。
つまり最初の2年は3ヶ月ごとに仕事が変わる状態でした。

この時期も私のうつの主症状は変わっていなかったのです。
強い希死念慮と体が動かないこと。

最初は頑張るものの、すぐに欠勤で穴を空けてしまう。

先方にとっても迷惑な話です。
仕事を教えてもすぐ休むようになるのですから。

今から振り返るともっと他の選択肢があったのではないかと思います。
自分の体調からしても、仕事を見つけることまでは出来ても、体調を維持出来ないことは目に見えていました。
ですがこの時期本当にお金がなく、今月仕事を見つけて来月の収入を確保しなければ家賃が払えない。ずっと自転車操業を続けていました。
家賃分のお金さえ口座に入っていないのに、住民税などそれなりの支出が年に何度かはあります。
歯の治療をしていたけれども、お金がなく、仕事が見つかりお金が入って来るまで予約を入れられなかったこともあります。

体調的には働ける状態ではなかったし、お金を得るにしても、派遣でフルタイム勤務をする以外の手段もあったかもしれない。
けれどほかの道を検討することもできない状態でした。
立ち止まりちゃんと考える。そういう余裕が経済面でも精神面でもありませんでした。

ちなみに、これほど仕事を転々としたということは、それだけ面接にも受かっているということです。
ここまでに何度か書いていますが、派遣では本来「面接」はありませんが、「顔合わせ」という実質的には面接があり、「不採用」も普通にあります。
私は面接にはめっぽう強かったです。
ろくな職歴ではないので書類は弱いのですが、面接に繋げられればほぼ確と言えるほど。
その中、この期間に面接で落とされた会社が2社あります。
2社とも不動産業。
実は私、無職期間中に宅建士資格を取りました。
その前のコールセンター時代、クライアント先が通信教育を展開する企業でした。話せば長くなりますが、クライアントさんへのごますり+社販で受講できて自分の学びに繋がるという理由から受講したのです。
結局、資格取得前に退職していしまいましたが、退職した年の試験に一発合格しました。

というわけで、宅建士の資格を持っているにも関わらず、不動産会社のみ2社続けて不採用。
派遣に資格は求められていないというか、言い方はあれですが、下手に知識のある小賢しそうな派遣はいらないんですよね。
派遣の採用を決めるとき大きなポイントになるのは、「自分(採用者)が使えるかどうか」です。
知識を持っていること以上に、素直さと前向きに学ぶ姿勢、教えてもらったことは身に着けられる程度の能力、その辺りをアピールする方が派遣の場合は採用されやすいと感じました。

だからこそそういう「派遣」に自分を適応させてしまうと、それはそれで自分の中に軸の通ったスキルを身に着けることは難しくなってくるかもしれません。

◇上向きに見えていたが一転・・・

派遣転々時代に入ってから3年目あたり。
それでも体調は上向きになってきたのか、欠勤が少し減り、6社目、7社目は2、3回契約更新いただいています。

7社目は10ヶ月ほど勤務し、派遣転々時代の中では最長になります。
給与計算をメインに、勤怠管理など人事部門の業務を請け負う会社でした。
かなり人手不足の会社で、派遣でもクライアントを担当し、給与計算の大半からクライアントの人事担当者とのやり取りまで任されていました。
退職金など、手計算で算出できるようになりました。(今はもう忘れましたが)
それまで私は数字に苦手意識がありましたが、この会社で案外自分が数字を扱えることを知り、またエクセルのスキルも格段に向上したので良かったと思います。

この会社に入った直後からコロナ禍に突入しました。
その直前に社員さんの大量離職があったため、多くの中途採用者が入ってきましたが、その多くは在宅勤務に移行しました。
在宅で研修等を受けているとのことでしたが、研修を頻繁に行えるほど社員さんに余力はありません。
新人教育に携わっていない社員さんは、彼らが在宅で何をしているかよく分からないとおっしゃっていました。
一方派遣には在宅勤務は許可されておらず、相変わらず毎日出社し、せっせと業務を行っていました。

この時期、多くの会社で見られた現象です。
「出社しているのは派遣ばかり」

秋口に入り、私は大きく体調を崩しました。
夏には帯状疱疹にもなりましたし(頭の帯状疱疹で、最初は経験したことのない異常な頭痛で脳の病気かと思い、脳外科を受診しました)、もともとのメンタル疾患に加え、コロナ禍のストレス、今までにない社会情勢の変化に心身が対応できなくなったのかもしれません。

それまでは先方より契約更新がないことを告げられ、最終出社日に挨拶をして去るという流れでしたが、この会社で初めて急にまったく出社できなくなりました。
記憶も曖昧で、契約途中の退職になったのか、契約期間は終わってからのことだったのかも判然としませんが、最終的に派遣会社の営業さんが会社に残してあった私の私物をまとめて段ボールで家に送ってくださり、私も入館証などを送って、お世話になった会社の人への挨拶なども出来ないまま、ここでの業務はおしまいになりました。

そんな状態でありながら、次の派遣先、8社目もすぐに決まりました。
私の場合、探せばすぐ見つかって取り合えず日銭を稼ぐことが出来る。来月の家賃に常に追われていたので、「取り合えず派遣」で食いつないでいましたが、そのことでなかなか「生き方を変える」「環境を変える」ことに繋げられなかった面もあると思います。

そして8社目も7社目と同様の結果に。
1、2ヶ月勤務したかどうか。ほとんど業務を身に着けることもないまま体が動かなくなり、出社できなくなりました。
この時は派遣の営業さんの方から「休んで体調の回復に努めてください」と優しく言っていただきました。
それまでずっと、メンタルクリニックに通ってうつ病の治療中であることはクローズで働いてきました。
勤怠の悪さで叱責されることはあっても、優しい言葉をかけてもらうこと、体調を気遣ってもらうことはほとんどありませんでした。

ともかくまたしても、会社の私物は家に送ってもらい、そのまま退職となりました。

2021年2月のことです。
初めて精神科を受診してから15年が経っていました。

◎各章へのリンク(全7章)

 

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