【第7章】うつ病15年の先にあったのは父の死、母の介護、自身の更年期障害、2つのゴミ屋敷ー毒親? 発達障害グレーゾーン?~氷河期世代の私の困った人生
私の人生の長い独り語りも、最終章です。
ここまで生育環境のことから長いうつ病時代、そこからの急激な変化と混乱、そして父の死までをお話しました。
父の死の翌年、母が骨折しました。入院・手術から施設入所したのは昨年のことです。
その頃から生理周期が大きく乱れはじめました。もしかして更年期障害?
また、新しく始めたことがあります。
□絵を描き始める~スタートラインは父との思い出の場所
父の葬儀は5月1日に執り行いました。
会社のゴールデンウィークは9連休ですが、5月2日は平日。5月3日からまた連休に入ります。
私はこの5月2日に市役所や郵便局へ赴き、また年金事務所への問い合わせなど、平日にしかできないことを出来る限り行いました。
父が亡くなり、通夜・葬儀と喪主を務め・・・布団に入ってもあまり眠れていません。
母との間にはすでに亀裂が入り始めています。
夕方になって役所なども閉まり、もう出来ることはなさそうです。
心身ともに疲れ果てていますが、母のいる家に帰る気になれませんでした。
そこで中環沿いのマクドナルドに立ち寄りました。
たまたまですが、父の葬儀を行った会館の近くです。
窓際の席に座り、父と数えきれないほど通った中環を、そして父の遺体を乗せた霊柩車が通った中環を眺めていました。
手元には問い合わせ内容や、これから必要な書類を書きつけたノートがありました。
ふと、中環を描いてみようと思いました。
・・・まったく描けない。
最初の線はどこから描けばいいの?
今自分が見ている景色を紙に描くことがこれほど難しいとは。
かなり逡巡したのち、1本目の線を引きましたが、その後もまったく手を進めることが出来ません。
結局、たくさんの横線と半円、数本の縦線が紙に描かれました。
実はここ、今でも描くことが出来ない難しい場所なのです。
中環は道幅が100mを超える日本一幅の広い道路です。
この辺りでは側道は地面を直進、本線は交差点をまたぐように上を通り、さらに上には近畿高速。その上モノレール建築中につき、車線規制をして完成前のモノレールの支柱が並んでいます。
その時の私は、「ここは描くのが難しい」と判断することもできないほど、絵を描く知識がありませんでした。
屋外で風景をスケッチするなんて、思えば小学生の時以来かもしれません。
ただ、描けないから夢中になりました。
父が亡くなってから、それ以外のことに気持ちが集中したのはその時が初めてでした。
翌日からまた連休。
父が亡くなって以来、初めて「今日必ずやらないといけないこと」がなくなると、急に心に大きな穴が開いたような感覚に襲われました。
連休中の5月5日、花園ラグビー場のある花園中央公園で、「食フェス」という屋台がたくさん並ぶ催しものが行われていたので、取りあえず行ってみました。
焼きそばを買い、広場を見下ろすように並ぶベンチに座ると、正面に生駒山が見えました。
小学生の時、父と何度も登った生駒山。
父と、シロと。
幾本もの登山道を歩いた。
でも最後に登ったのがいつだったか思い出せない。
私は見えている景色をスケッチしました。
その日はそこまででしたが、後日パソコンに取り込み、買ったもののほぼ使っていなかったお絵描きソフト、CLIP STUDIO PAINT で色をつけてみました。
そしてnoteのアカウントを作り、文章をつけて1本目の記事としてupしました。
文章を書いている間はずっと涙が零れていましたが、upし終わると、少し気持ちが浄化された気がしました。
その時から、出かける時はスケッチブックや絵を描く用のノートを必ず持ち歩くようになります。
ちなみに父は、私が小学生の時に日本庭園をスケッチしたものを見て、「それが絵か?」と言いました。
父と私は感性がまるで違うというか。
写真もよく「何を撮ってるんや?」と言われました。
私は絵も写真も「枠の中に収まっているものがすべて表現」と捉えていますが、父は「りんご」とか「犬」とか、何かしらの明確な対象物がないと「何が描かれて(写されて)いるのか分からない」=「何も描かれて(写されて)いない」と思うたちのようでした。
口が悪いですが、「父の感性は死んでいる」とずっと思っていました。
そんな父にまつわる中環、そして生駒山が私の絵のスタートラインです。
父は今の私の絵を見て何と言うでしょう。
その答えを聞くことは一生できません。
□現在にも繋がる様々な問題~2つのゴミ屋敷
◇実家はゴミ屋敷~またの名をねずみーらんど
父の四十九日のあと、母との関係に限界がきて東京に戻りました。
その後、お盆と年末年始は帰省しましたが、踏み込んだ話はあまりしていません。
本当はやらないといけない手続きが残っているし、父の資産の全容もつかめていません。また頭が痛いのは父が田舎に広大な土地を所有していたことです。全部で24筆あり、うち1つが本当に広大で、サイトでざっくり計算したところディズニーシーの半分くらいあるかもしれません。(サイトの信ぴょう性が分からず・・・広すぎて規模感が掴めないのです)
実家はこれを書いている現在までゴミ屋敷のまま。
もう20年くらい前からだと思いますが、ネズミが本当にたくさん住んでいます。
部屋の鴨井の上は普通に通り道だし、人がいる時でも部屋の隅を横切ったりして、見ない日はありません。
そこら中ネズミの糞だらけです。
畳の上に敷いている私の布団の中にも、しょっちゅう糞がまぎれこんでいます。
父にお花を供えても必ず食べられます。
もちろん食品をその辺にうっかり置いて出かけようものなら、もうダメです。
たとえそれが彼らのお好みに合わないものであったとしても、必ずパッケージを齧って試食するので、人間はもう食べられません。
ちなみにネズミの種類はクマネズミです。
調べたところ、ドブネズミより臆病な性質らしいです。
私がいるにも関わらず部屋に入ってこようとするのは必ず子ネズミです。
子どもは好奇心が旺盛で、大人ネズミほど警戒心が発達していないのかもしれません。
大人になって経験値が増えていくほど臆病になる・・・なんだか分かる気がします。
またイタチも出ます。
今夜はネズミが静かだ・・・と思っていると、イタチの影が廊下を横切る時があります。
イタチのシルエットはほぼほぼフェレットです。可愛いです。
クマネズミも手足は水かきっぽくなっていてあまり見た目がよくありませんが、顔はまあ可愛い部類です。
イタチもネズミも駆逐できないので自分をごまかして生活しています。
あと夏場は黒くて時々飛ぶやつと、塩をかけると溶ける生命体をほぼ毎日見ます。
飛んでこない限りは「いるなー」って感じです。もう麻痺しました。
父が最後、自力で降りられなくなった2階にはほとんど上がっていません。父の布団さえ敷きっぱなしだったかも。
そのことが判然としないほど、2階に上がっていないのです。
◇東京は汚部屋~階下から聞こえる叫び声・エアコン使えない問題
そして私の東京のアパート。
23区内にありながら家賃55,000円のボロアパート。そちらもゴミ屋敷です。1Kなので私は汚部屋と呼んでいます。
こちらも悩みの種です。
物の積み上がりっぷり、圧迫感は実家以上。
しかしそれ以上に問題なのは下の階の住人です。
私は20代半ばで今の部屋に引っ越してきて25年以上住んでいますが、下の階の男性は私以上に長く住んでいます。
言い方はあれですが、私がこのボロアパートから様々な事情があって上に這い上がれなかった人間であるのと同様に、下の階の住人もなんだか訳ありだと思われます。
私より年上(5、60代)で、アパートの近くで会えば普通に愛想良く挨拶をする方ですが、ここ数年、時折「バーカバーカ」と叫ぶ声が聞こえてくるのです。
あと、シャワーを浴びながら女の子の名前らしきものを叫んでいたことも。
ところでうちのエアコンは私が引っ越してくる前から部屋に設置されていたものです。室外機は窓の外側にあり、エアコンを入れると大変大きな音をたてるようになってしまいました。
下の階の男性は極力エアコンを使わないようにしているのか、夏場は窓を開け放っていることが多いのですが、私がエアコンを入れると窓を大きな音で開け閉めするのです。
怖くなってしまい、エアコンが使えなくなってしまいました。
汚部屋がゆえ、業者を部屋に入れてエアコンを買い替えることもできません(不動産屋さんにも連絡できません)
そのため、去年の夏の暑い間は、ほとんど部屋に泊まっていません。
今年、つい先日東京に戻った際はネカフェに泊まりました。それも京都で叔父のお葬式に出た翌日のことです。朝5時に大阪の実家を出て夜はネカフェ。まあそういう生活自体はそこまで嫌ではなく、むしろ楽しめる方なのですが。
◇ADHDグレーゾーン?
とにかく片づけないと先に進めないのですが、それが出来ません。
片づけられないのです。
ADHD的な特性をいくつか持っていて、時間にちょっとルーズ、ちょっと忘れ物が多い、ちょっと多動傾向、話がちょっと長い。これらは社会生活を送る上で、とくに問題になったことはありません。
かなり敏感に空気を読むので、「ここではちゃんとしよう」「この人の前ではちゃんとしよう」と思えばコントロールできる範囲なのです。
小学生の時から学校用の仮面、家庭用の仮面を使い分けてきました。
社会人になってからも、良くも悪くもたくさんの仮面を使い分けています。
ところが片づけられないことに関しては、本当に致命的にどうしようもありません。
医師には「普通の人は普通に出来るんだから友達に頼めば?」と言われますが、「友達がいない」って何度言わせれば気が済むんですかと思っています。
たぶん表面的なコミュニケーションがスムーズなタイプなので、「友達がいない風」に見えないんじゃないかな、と思います。
うつ病になるまでは、広くはありませんがそれなりに友達がいました。
中でも親友と呼べる子が二人いました。
今は二人とも子育て中です。
一方の私は、家族も仕事もなし。
プライドが邪魔している面もあると思いますが、実際会ってどう接して、何の話をすればいいのか分かりません。それは向こうも同じでしょう。
女性の場合、子育てがひと段落したら昔の友人関係が復活することもあるようですね。
その時に私がどういう状態か分からないですが・・・
ともかく今は連絡を取る気持ちにはなれません。
□母の骨折
◇母の手術~いつも一人なのは氷の城を壊せない自分のせい?
父の四十九日で精魂尽き果てた2023年6月。
その年の秋から休職し、途中1ヶ月ほど復職したものの、再休職して2024年4月、契約満了を迎えて退職しました。
父の死により発生した問題、それまで棚上げされていた問題等、色々な問題は山積していましたが、手をつける気持ちになれないまま、私はさまようように旅をしたり散歩をしたりしたりして、行く先々の絵を描き、それをnoteに上げていました。
奇しくも四十九日から1年後、2024年6月のことです。
母が骨折して入院しました。
大腿骨の上部、股関節近くの、球体になっている骨です。
高齢者の骨折としてはよくあるケースのようで、整形外科の先生も慣れた様子で説明してくださり、手術を行うことになりました。
手術中は病院の1階待合室で待機です。
心細かったですが、相変わらずその思いをこぼすリアルの友人も、ラインで繋がっている友人の一人もいません。
入院、手術の前にある延命処置についての説明、希望のやり取りも父の時含め、何度も経験しました。
いつも一人です。
父が亡くなった時にとくに強く思いました。
「家族がいたなら・・・」
上の世代が亡くなるとき、自分の下の世代がいたならダメージはいくらか軽減されたように思うのです。
せめてパートナーがいたなら。
せめて素の自分を見せられる友人がいたなら。
今、自分の周りに人がいないのは、やはり自分のせいなんだろうか?
よく考えることです。
なかなか素の自分を見せられない。
弱い面を見せられない。
とくに異性とは精神的にも身体的にも距離が近づくと避けてしまいます。
比較的誰とでも仲良くできるけれども、人と深く付き合うのは苦手なのです。
それでもうつ期に入る前は親友もいて、自分としては満足できる人間関係が築けていたのですが。
「私は氷の城を築いて閉じこもっている」
そう思うこともあります。
きっと幼い頃に築いたものです。
妊婦の母を殴っていた父。
気が昂ると包丁を向けてくるような母。
私の感じていた「この家にいたら殺される」という思いは、けっして比喩的なものではありませんでした。
「油断すると殺される」
そう思った私はとくに親に対して本当の自分を見せないよう、本当のことを言わないようにしてきました。
本当の自分を守るもう一人の自分を作り、「ライ」という名前まで付けていました。
「私はライ。本当の自分を守る殻の側」
日常生活はそういう設定の下で送っていました。
あの時作った殻が、いつしか氷の城となり、私はそこに閉じこもっているのかもしれない。
それならいつ、氷の城から出れば、氷の城を壊せば良かったのでしょう。
実家を出た時?
成人した時?
たしかに成人したあとの人生は自分で切り拓いていくべきでしょう。
それでもこうして自分の人生を振り返ってみても、そのタイミングが分からない。
氷の城を抱えたままうつ病になり深海に沈み・・・。
あの深海では「何も感じない」ことも私を守っていました。
もし私が孤独を感じやすい人なら、15年もあの深海で生きられなかったかもしれません。
実は一度、「生育環境のせいで私は人を信じることができない」と母を責めたことがあります。
母から返ってきたのは
「成人してからは自己責任やろ」
という言葉。
母からだけは言われたくありませんでした。
◇もし父と離婚しても私を育てるつもりはなかった母
母の骨折の手術は無事に終了しました。
しかしその翌週、母は誤嚥性肺炎を起こしました。
その日、私は東京に戻るつもりで荷物をまとめ、新大阪へ向かう前に母の病室に立ち寄りました。
そこにいたのは、話かけても答えることもできず、息をあえがせている母。
私の声が聞こえているのかどうかも分かりません。
その後、看護師さん、医師と話し、検査の結果肺炎であると告げられました。
医師には別室に連れていかれ、延命処置についての再確認が行われました。
延命処置はしない、人工呼吸器は使用しない。
という選択ですが、外科手術の前よりもリスクは高まっていますが、選択に変わりありませんか、ということです。
息も絶え絶えな母を見た直後。
もともと喘息持ちなこともあり、状況は厳しいとのこと。
「痰に溺れるように亡くなることもある」とのこと。
けれど諸々の条件を総合し、延命処置をする選択はできません。
「選択に変わりありません」と即答しましたが、即答したことも含め、そのシーンはその後何度もスローモーションのように脳裏に蘇ってきて、心が痛みます。
それからしばらく、毎日母の病室に通いました。
面会には時間制限が設けられていましたが、少しお目こぼしいただいていたと思います。
最初は息も絶え絶えでこちらの呼びかけに応じることも出来なかった母ですが、そのうちに「これだけは言っておかなければ」と語りだしました。
死期を悟ったかのように語りだした「これだけは」ですが、「これだけは」が終わらないのです。
毎日病院へ行くと「これだけは」が幾つも語られます。
「これだけはやって欲しい」系のことはスマホのメモにリスト化しましたが、リストは日々追加されます。
あとは私が生まれる前からの悔恨。
「あの時こうしておけば」という話もいくつも続きます。
「あんたを精神病院に入れれば良かった、ごめんね」と言われた時はどう思っていいのか分かりませんでした。
それ以上に唖然としたのは、母が離婚しなかった理由です。
1章で書きましたが、DV、浮気、モラハラ etc. 娘の私から見て「親としても夫としても人としても失格」と思っていた父と別れない理由を、母は
「あんたがおるから別れへんねんで」と私に言い聞かせていました。
その言葉は本当に呪縛で、私のせいで母は不幸になった。母は私の犠牲になったという思いは、何度理性で「そうではない」と打ち消そうとしても、今だに湧き上がってきて私を苦しめています。
私は母が離婚してシングルマザーになると、経済的に苦しい思いをさせてしまうからだと思っていました。
けれど、母の思考はこうでした。
別れると父が私を引き取る
→実質、父の姉(叔母)が私を育てる
→叔母の娘(私の従姉)より私の方が可愛い
「可愛いからいじめられると思って」
死の床にあるかのような荒い呼吸で母は私に訴えかけてきましたが・・・
『この人、何言ってんの?』
私は呆然と母を見つめました。
あれだけ自分は暴力を振るわれ、父からあんな目に合わされていて、それで離婚したら父に私を渡すつもりだったんだ。
自分で苦労して私を育てるつもりはなかったんだ。
母は「自分で判断して行動する」ということが極端に出来ないように思います。
父が私を引き取ると思ったのは、その前に「子どもの半分は俺のものや」という父の発言があったからのようなのですが。
もし本当に離婚となれば、父が私を引き取っていたかどうか分かりません。あんな父に親権が認められるものなのかどうかも分かりません。
結局母はどこまでも父のいいなりだった。
父は子どもを引き取ると言うだろう。だから渡す。
もし父に「お前が育てろ」と言われたら父に私を渡すことはせず・・・どうなっていたのでしょう。
母の様々な「出来ない」は性格の問題もあれば、能力の問題もあるような気もします。
能力的に出来ない方が、私も諦めがつきやすいという願望も入っているのですが・・・。
◇地獄のような家でひたすら絵を描いた
母の告白に唖然とするも、母に生きてほしいことに変わりはありません。
「やっとお父さんがいなくなった」という言葉は、それまでに母の口からも、そして私の口からも何度も出ていました。
私の中の子どもの私は父親を求めていましたが、正直、普通に日常生活を送る上では父はいない方がいい存在でした。
父がいなくなって「家でのんびりできるようになった」というのは、私と母の共通の思いでした。
とくに父が亡くなったあと、初めてのお正月。
2024年のお正月は母と初めて実家で二人で過ごしました。
母との軋轢を抱えている最中でしたが、父がいないというだけでずいぶん気持ちが楽でした。
父はしきたりにうるさい人で、お正月ともなると格段に「こうであらねばならない」が増えるのです。
私たちはそれから外れないように準備しなければならず、そこから外れて父を激高させないよう、いつも気持ちが張り詰めていました。
父がいなくなって、私は人生で初めてのんびりしたお正月を経験しました。
そのお正月から半年後の母の骨折、そして肺炎です。
「母とのんびり過ごすお正月はあの1回だけになってしまうのか」
そう思うと、これを書いている今でも涙が浮かびます。
母にはまだ生きてほしい。
父と結婚して50年。結婚生活から抜け出さなかったことには母にも責任の一端があるとしても、本当に母は父に苦しめられてきました。
父のいない世界を少しでも長く生きてほしい。
母の骨折後、主治医の整形外科医や麻酔医と手術や今後のことについて話したときのことです。
二人とも母の肺の状態の悪さに疑問を抱いていました。
「喘息だけではここまでにならない」と言うのです。
二人とも「お母さんタバコ吸う?」と尋ねてこられ、母は吸わないが父がヘビースモーカーであったこと、昔は1日に200本吸っていたことを話すと「あー、それで」という反応です。
麻酔医からは「お父さんは何ともなかったんですね」と言われ、「いえ、本人も肺がんからの転移で昨年亡くなりました」と答えると、「本人もダメだったんですね」と。
「それだけ吸うとお金もかかりますよね」とも言われました。
そうなのです。
タバコが肺がんの原因になるのかどうか、疑問の声があるのも知っています。けれど1日に200本吸って無害だとは思えません。
私は今でも服にタバコの臭いのついた人が電車で隣の席に座ると、それだけで気管支が狭くなる感覚に襲われ、時に咳が止まらなくなります。なので「ぜんそくマーク」をカバンにつけています。
ストレスも喘息の発作の原因となり、小さい頃から煙にさらされ続けた私には、内臓にどれほど影響があるかどうかは別として、タバコという存在がもうストレスで、そのことが喘息を誘発するのです。
父は莫大なお金を使って自身の健康、そして家族の健康を害したと思っています。
母の肺炎は約1週間で「山を越えた」と言っていただけるほどに回復しました。
その1週間、私は本当に荒れました。
父に対して「死んでまで迷惑」という思いが強くあり、遺影も、まだ納骨していない遺骨も部屋の中に投げつけました。
ゴミ屋敷の中、乱雑に父の遺影や遺骨、仏具が転がり、線香立ての灰もそこら中に散らばりました。
数日間、そのままの部屋の中で、私は絵を描いていました。
この世は地獄だ。
私はおかしい。
そう思うも、どうすることも出来ません。
絵の向こう側だけが逃げ場でした。
自分の手が描く向こう側だけが、安らぎの地でした。
□それでも世界は美しい
私の絵は色がきれいとよく言ってもらえます。
ここまで私の人生を振り返りましたが、小学校から高校までの美術の授業以外で絵を学んだことはありません。
約2年前に絵を描き始めてから、ユーチューブで描き方の動画を見ることはあります。おじいちゃん画家ユーチューバーの柴崎先生とか(好きなんです)
そのため「形」を描くことは今でも苦手です。
「線で描く」のは下手で、色で描いているのが私の絵です。
その色彩感覚はどこで身に着いたのか?
それは「描いたら描けた」という感じです。
CLIP STUDIO PAINTで実際に手を動かしながら色々な機能を試してみて(それでも極一部の機能しか使えていませんが)、毎回試行錯誤しつつ絵を描いています。
私としては頭の中にある理想を手から出力しているのではなく、「手が生んでいる」ような感覚です。
描いた絵を自分の目が見て、「私、こういうのを描くんだ」と。
とくに描き始めた最初の頃はそういう感覚が強くありました。
そういう自分自身の能力を見たときに思ったのは、「私にこんな能力があったんだ」という気づきではありませんでした。
「まだ私の中にこういう力が残っていたんだ」と、そう感じました。
長く深海に潜っている間に、私の中の多くの部分は、枯れ、腐っていきました。
苦しんだから人の痛みが分かる、優しくなれる。
そういう面もあるでしょう。
けれど長い苦しみ、孤独は人の心を蝕み、変質させます。
深海から海面に急浮上した時、最初に感じたのは
「世界は醜い」
「社会は冷たい」
ということでした。
そして自分自身もなんて醜い存在になってしまったんだろうと思いました。
怒り憎しみ妬み嫉み。
負の感情がこれでもかと噴出し続けました。
ずっとずっと「死にたい」と内側に向けられていた刃は、「殺したい」と外側に向けられることもありました。
「殺す前に死なないと」
『死』という言葉はずっと自分のそばに居ると、今も感じ続けています。
そんな自分の手が、美しい色彩の絵を生み出すことは、私にとって大きな救いでした。
「まだこういう自分が残っている」
世界はーそれは外側も内側もー9割醜い。
9割醜く見えていると、「何もかも醜い」に落ちるのは簡単です。
でも決して何もかも醜くはない。
1割は美しい。
私はその1割を見失わないために、そちら側を可視化することにしました。
醜さを見るのはもう十分なのです。
自分自身が闇に飲まれないために、1割側の美しさを見て、描きたい。
それは私がかろうじてこの世界に引っかかる手段でもあります。
「世界の美しさを描く」
そういう目で見れば、世界は美しさで溢れています。
「それでも世界は美しい」
あの深海の中で多くのものを失ったけれど、私は世界が美しく見える目は失わなかった。
この目は、両親がくれたものです。
そのことに感謝しています。
□海中で消えていくあぶくを拾いたかった
さて、肺炎から回復した母ですが、3ヶ月の入院の後、施設に入所しました。
今後、自宅へ1ヶ月帰宅、施設で数ヶ月過ごすという、施設と家を行き来する生活ができれば、ということで準備中です。
今年の春、初めての1ヶ月帰宅へ向けて具体的な日程も決まっていましたが、その直前に再び誤嚥性肺炎を起こして入院。
今は退院して施設で過ごしています。
猛暑が過ぎ去ってから、再び帰宅へ向けて具体的に動く予定です。
常に「そこまでもっていけるだろうか?」という不安、母の体調や認知機能に対する不安はつきまといますが、それは仕方ないものと、今は不安と同居しています。
私は今年49歳。
数年前から生理周期が短くなりました。閉経前にバンバン来る時期が人によってあるようです。
ですが昨年、ちょうど母の入院直後、丸2ヶ月来なくて。
その後は経血の量がとても少なかったり、周期も乱れていて、いよいよ更年期だなと感じています。
コントロール出来ないほど怒りが込み上げてくることに関しては、私のメンタルが長いうつ期間からの急浮上と不安定な状態が続いているので、更年期障害なのかどうか、判断できません。
ともかく元々抱えているメンタル疾患、更年期障害とうまい付き合い方を模索していかなければ。
人生リスタートというか、いまだゼロ地点で、これからどうしようというところです。
若い時のような体力はなく、親の介護と更年期障害を抱え、かつて同じスタートラインにいた友人は家庭を持って人生のステージを進めています。
経済面については、休職時から受給した傷病手当金、また母の入院・施設入所により、実家の家計管理が私に移ったことで今はやりくりしています。
父が亡くなり生命保険金が母に入ったことなどもあり、母に思っていたよりは貯蓄があって。またあの世代は年金も厚いですね。
つまり結局、親のお金に助けられているわけです。
いつまでもこのままではいられないので、私自身のこれからを模索しないといけません。
もう組織に属するのはこりごりだと思っているので、フリーでやっていきたい。今みたいに旅や散歩をして、絵を描いて。もっと物語、フィクションの要素の入った創作もやりたい。
そういう未来の展望はまだ全然固まっておらず、漠然としているし、今山積している問題についても、具体的にどうすれば、というのも固まっていないのですが。
この自伝的な文章はnoteの「創作大賞」に応募しますが、そこから何か発展があればいいなあとも思っています。
最後にー
深海にいるとき、私は自分が一人ぼっちだと思っていたし、実際にそうでした。
幸運にも海面に上がった私が思うのは、今も深海にはたくさんの人がいるということ。
一人暗闇の中、膝を抱えている人がたくさんいる。
その人たちの声の多くは、あぶくのように海面に届く前に消えてしまう。
私自身の声もそうでした。
地上にいる人は上を見上げている。
成功者の声を聞きたがる。
どうやってその階段を上ったのかを知りたがる。
それは人生を前に進めるために必要で、当然の欲求だと思います。
一方、階段を上がれない人、深海に沈んだままの人の声を聞いてもらえることは少ない。
ライフハックも勝つノウハウも含まれていないから?
弱者の声なんて聴いても益にならない? むしろ不快になるだけ?
たしかにそれはそうかもしれない。
けれど「ないもの」とされることは本当に辛い。
「ここにいるよ」の声さえ誰にも届かないことは本当に辛い。
深海の世界を知らない人もいるでしょう。
声が聞こえなければないのと同じ。
インターネットの世界では発信者しか見えないのと似ているかもしれません。
リアルの会議室ならば10人中3人しか発言していないこと、発言していない7人が存在することが分かる。
けれどインターネットの世界では発言していない7人は存在しない。
そんなふうに、声を届けられない深海にいると、存在を「ないもの」とされていると感じることがありました。
あの時の私自身のあぶく、そして今も深海にいる誰かのあぶくを、少しでも海面に掬い上げられたらなと思います。
〜結びに〜
こうして自分の人生を振り返ってみると
「本当にこんなことが現実にあったんだろうか?」
と思うことが度々ありました。
私は中学2年生に戻り、小説を書いているのではないか?
私という人間は、中2の自分が書いた小説の登場人物ではないだろうか?
そういう思いに囚われることは、この自伝を書いている時以外でもよくあります。
実際、とくに幼少期の頃のことはよく分からないのです。
「母ってちょっとおかしいんじゃないだろうか?」
そう思ったのは2021年の変化以降のことです。
被害妄想的なところもあるし、物の見方、認識の仕方が少しずれているというか。
幼少期、父の悪行は自分で見聞きした体験に加え、母から言い聞かせられたものもたくさん含まれています。
今振り返ると、あの母の話がすべて正しいとは思えません。
本当のところはどうだったのか?
正解は過去にしかなく、その道を辿れる人はいません。
だからこの自伝に書かれていることはすべて私の視点、私が感じた、私が「こう思っている」という話なのです。
またテーマ上、ネガティブな側面ばかりお話しましたが、両親にもいいところはたくさんありました。
飢えないように食べさせてくれたし、教育もしっかり受けさせてくれた。
社会にはそれらも与えられず、もっと辛い環境の中で苦しんでいる人もたくさんいます。
そんな環境の中から這い上がった人もたくさんいるでしょう。
這い上がれずいまだ足掻き続けている私は弱く力のない人間なのかもしれない。
また親のことを悪く言うと、「でも育ててくれた恩があるでしょう」という方もいます。
それはその通りで、いい面もたくさんあるし、恩もある。
けれどそのことで受けた苦しみが消えるわけではなく、苦しみが「ないこと」のように人から語られたくはない、というのも本音です。
1割側の美しさを絵に描いたからといって、9割側の闇が消えるわけではありません。
ただ現状は、親のお金があるからこそ今の半ば遊び暮らすような生活が成り立っているわけで、「それなのにぐだぐだ文句を言って」という思いは私の中にもあります。
とくに経済的な面で50才を目前にして自立できておらず、「なんとかしなくちゃ」と思う一方、「疲れたな・・・」と遠くを見るように世界を眺めているところが私にはあります。
「疲れた」というのは本当にそうで、精神的な意味でも物理的な環境の意味でも「落ち着ける場所」が私には存在しません。
東京のアパートも大阪の実家も落ち着ける環境ではないので、この自伝やnoteに上げている絵、文章の多くは、コワーキングスペースで書いています。
チェーン展開しているコワーキングスペースの全店舗会員に入会し(親のお金で)、パソコンとタブレットをリュックに入れ、あちこちのコワーキングスペースを渡り歩いています。
ちゃんと現実に対処しないといけないのに、それも難しい。
この自伝は、生まれた環境・就職氷河期時代という自分ではどうしようもない外部的要因に翻弄された私の物語であると同時に、青春期を夢追い人として過ごし、けれど飛び立つことが出来ず、かといって堅実な社会に着地することにも失敗した私という個人の物語でもあります。
今もまだ「死にたい」と「生きたい」という二つの思いが同居して、闇落ちしないよう片手で崖っぷちにぶら下がっている。
そんな状態です。
「逃げ」なのかもしれないけれど、親子関係のもつれや社会的弱者のこれからの生き方問題を掘り下げたり、自分の内面を見ることより、私は外側に目を向けたい。
今はまだ世界の美しさを追いかけたい。
だって世界はこんなにも美しいから。
長い長い私の人生の独り語りにお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
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