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MVP ARCHIVE PEOPLE|Presidents Political Leaders : Nikita Khrushchev (1894-1971) / ニキータ・フルシチョフ - 冷戦の時代を動かした男

Nikita Khrushchev (1894-1971) / ニキータ・フルシチョフ - 冷戦の時代を動かした男

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ニキータ・フルシチョフ - 冷戦の時代を動かした男

ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ( 1894–1971 )は、ヨシフ・スターリン 死後のソビエト連邦を率い、スターリン 批判、東西関係の「 雪解け 」、宇宙開発競争、そして キューバ危機 に深く関わった政治指導者である。

1953年のスターリン 死後に権力を確立し、ソ連共産党第一書記として国家の中心に立ち、フルシチョフ の時代には、スターリン 体制の一部が否定される一方、ハンガリー動乱への軍事介入やベルリンをめぐる対立が発生、1962年、アメリカとソ連は キューバ危機 によって核戦争に最も接近した時期の一つを迎える。

その政治人生は、冷戦 が単純な対立だけではなく、対立と対話、緊張と緩和を繰り返しながら進んだことを示している。

スターリン後のソビエト連邦

1953年3月、スターリンが死去した。
その後、ソ連指導部では権力をめぐる政治的な動きが続き、フルシチョフ は次第に指導的地位を確立、1953年9月にはソ連共産党中央委員会第一書記となり、1958年には閣僚会議議長も兼任した。

スターリン批判

1956年2月、ソ連共産党第20回大会の秘密報告で、フルシチョフ は スターリン による個人崇拝と大規模な弾圧を批判、これは後に「 スターリン批判 」と呼ばれる。

スターリン を絶対的な指導者として扱ってきたソ連政治にとって、大きな転換であり、その後、政治犯の釈放、文化活動への一定の緩和などが進み、この時期は「 フルシチョフ の雪解け 」と呼ばれた。

平和共存

フルシチョフ は、資本主義陣営と社会主義陣営の対立が存在していても、必ずしも両者の間で世界大戦が不可避ではないという「平和共存」を掲げた。
1959年にはソ連指導者として初めてアメリカを公式訪問し、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領 と会談した。
冷戦 下で米ソが激しく対立する一方、直接対話によって関係を管理しようとする動きも始まっていた。

ハンガリー動乱

しかし、スターリン 批判と「 雪解け 」は、東ヨーロッパ諸国に完全な政治的自由を認めることを意味してはいなかった。

1956年、ハンガリーでソ連の影響からの離脱や政治改革を求める動きが広がったが、ソ連は軍事介入を行い、蜂起を鎮圧した。
この出来事は、フルシチョフ政権 が スターリン体制 の一部を否定しながらも、東側陣営に対するソ連の支配を維持したことを示している。

Sputnik ― 宇宙時代の始まり

1957年10月4日、ソビエト連邦は世界初の人工衛星 Sputnik 1 の打ち上げに成功、1961年4月12日には、ユーリ・ガガーリン が Vostok 1 に搭乗し、人類初の有人宇宙飛行を達成した。

これらの成功はソ連の科学技術力を世界に示し、アメリカとの宇宙開発競争を加速させ、アメリカは Apollo計画 を本格化させ、宇宙開発は冷戦を象徴する競争の一つとなった。

ベルリン危機

第二次世界大戦後、ベルリンは東西対立の最前線となっていた。
フルシチョフ政権 は西ベルリンをめぐって西側諸国へ圧力を強め、米ソ間の緊張が高まった。

1961年8月、東ドイツ政府は東西ベルリンの境界を封鎖し、後に「 ベルリンの壁 」と呼ばれる障壁が建設された。
ベルリンの壁 は、その後約28年間にわたり冷戦によるヨーロッパ分断を象徴する存在となった。

Cuban Missile Crisis

1962年10月、アメリカはソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していることを確認した。
ジョン・F・ケネディ政権 はキューバ周辺に海上封鎖を実施。
フルシチョフ政権 はアメリカと激しい交渉を行った。
米ソ両国の核戦力が対峙し、世界は核戦争の危険に直面した。

最終的にソ連はキューバからミサイルを撤去し、アメリカはキューバへ侵攻しないことを約束した。また、アメリカがトルコに配備していたJupiter核ミサイルも秘密裏に撤去されることとなった。
危機は全面戦争へ発展することなく終結した。

核戦争の直前から対話へ

キューバ危機 は、核兵器を保有する大国同士の対立がどこまで危険な状況へ進む可能性があるのかを米ソ双方に示した。
1963年には、アメリカとソ連の首脳間を直接結ぶ通信回線、いわゆる「 ホットライン 」が設置された。
同年、アメリカ、ソ連、イギリスは 部分的核実験禁止条約( Partial Test Ban Treaty )に署名した。
核危機の直後から、核戦争を回避するための制度的な仕組みが形成され始めた。

失脚

1964年10月、フルシチョフ は、外交政策、経済政策、農業政策、そして指導方法への不満などが党内で蓄積していたため、ソ連共産党指導部によって第一書記と閣僚会議議長の職を解任された。

後任にはレオニード・ブレジネフらによる新しい指導体制が成立した。
フルシチョフ はその後、政治の第一線へ戻ることなく、1971年に死去した。

世界への影響

フルシチョフ の時代は、冷戦 史における大きな転換期だった。
スターリン 批判によってソ連内部の政治構造に変化を起こし、「 平和共存 」を掲げてアメリカとの対話を進めた。

その一方で、ハンガリーへの軍事介入、ベルリン危機、キューバへの核ミサイル配備 によって、東西対立 は極めて危険な水準にも達した。
そして Sputnikガガーリン の成功は、冷戦を地球上の政治対立から宇宙へまで拡大させた。

歴史的意義

ニキータ・フルシチョフ は、スターリン体制 からその後のソビエト連邦へ移行する過程を担った政治指導者である。

スターリン を批判しながら東欧への支配を維持し、アメリカとの平和共存を唱えながら核兵器をめぐって対峙、その政治には、緩和と強硬、改革と統制、競争と対話が同時に存在していた。

それは フルシチョフ 個人の矛盾だけではなく、核兵器によって全面戦争そのものが破滅的な意味を持つようになった 冷戦時代 の構造とも重なる。

MVP Perspective

ニキータ・フルシチョフ は、世界を核戦争の直前まで進ませ、その危険の大きさにも直面した指導者である。

キューバ危機 では、ケネディフルシチョフ のどちらにも、その先で何が起こるのかを完全に知ることはできなかった。
しかし危機は最終的に妥協によって終結し、その後にはホットラインや部分的核実験禁止条約が生まれた。

人類が自ら生み出した力によって破局へ到達し得ることを現実の危機として経験した1962年は、その後の米ソ関係と核軍備管理を考える上で重要な転換点となった。

フルシチョフ の歴史は、冷戦における対立の記録であると同時に、対立する国家が破局を前にして、どこまで進み、どこで引き返すのかという問題を残した記録でもある。

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