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MVP ARCHIVE HISTORY | Vrague Spring 1968 / プラハの春 - 「人間の顔をした社会主義」、改革を求めたチェコスロヴァキア

Vrague Spring 1968 / プラハの春 - 「人間の顔をした社会主義」、改革を求めたチェコスロヴァキア

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プラハの春 - 「人間の顔をした社会主義」、改革を求めたチェコスロヴァキア

Introduction

1968年、東西冷戦下 のチェコスロヴァキアで、大規模な政治・社会改革が始まった。

改革を主導したのは、チェコスロヴァキア共産党第一書記 Alexander Dubček( アレクサンデル・ドゥプチェク )、彼らが目指したのは、社会主義体制そのものを放棄することではなかった。
検閲を緩和し、言論の自由を広げ、経済や政治制度を改革する。

その方向性は、「人間の顔をした社会主義」Socialism with a Human Face
という言葉で象徴されるようになる。

しかし、この改革が東側諸国へ広がることを警戒したソ連指導部は、1968年8月、ワルシャワ条約機構軍をチェコスロヴァキアへ進入させ、改革は軍事力によって停止へ向かう。

プラハの春 」は、冷戦下 の社会主義圏において、一つの国家が自らの体制をどこまで自ら決めることができたのかを示す重要な出来事となった。

Czechoslovakia under Socialism

第二次世界大戦 後、チェコスロヴァキアでは共産党の影響力が拡大し、1948年には共産党を中心とする政治体制が確立し、ソ連を中心とする東側陣営に入り、1955年には Warsaw Pact( ワルシャワ条約機構 )へ加盟する。

政治では共産党による一党支配が続き、報道や言論には検閲が行われた。
経済では国家による中央計画体制が採用されたが、1960年代になると経済成長の停滞が目立ち始め、経済制度や政治体制の改革を求める動きが共産党内部や知識人の間でも強くなっていった。

Alexander Dubček

1968年1月5日、アレクサンデル・ドゥプチェクがチェコスロヴァキア共産党第一書記に就任、ドゥプチェクは共産党による社会主義体制を維持しながら、その統治方法を改革しようとした。

目指されたのは、西側型の資本主義国家への転換ではなく、社会主義の枠組みの中で市民の自由を拡大し、政治や経済をより柔軟なものへ変えていく試みであったが、改革への期待は、党内部だけでなく社会全体へ急速に広がっていった。

Action Programme

1968年4月、チェコスロヴァキア共産党は Action Programme( 行動綱領 )を発表、改革には、検閲の緩和と廃止、言論・報道の自由の拡大、経済制度の改革、政治参加の拡大、スターリン時代の政治的抑圧の見直し、チェコとスロヴァキアの関係の再編などが含まれていた。

それまで厳しく統制されていた新聞、雑誌、ラジオなどでは政治や社会について活発な議論が行われるようになり、市民や知識人も公然と政府や共産党の政策について意見を表明するようになった。

プラハの街には、それまで抑えられていた議論と表現が急速に戻ってきた。
この改革期が、後に Prague Spring( プラハの春 )と呼ばれる。

Socialism with a Human Face

プラハの春 には重要な特徴があった。
改革派は社会主義そのものを否定していたわけではなく、社会保障や社会主義経済の理念を維持しながら、政治的自由や個人の権利を拡大する。

つまり、「 社会主義か自由か 」という二者択一ではなく、「 社会主義と自由を両立させることはできるのか 」という試みだった。
その方向性を象徴したのが、「 人間の顔をした社会主義 」という言葉だった。

Soviet Concern

チェコスロヴァキアの改革に対し、ソ連を中心とする東側諸国の指導部は警戒を強めた。
チェコスロヴァキアで自由化が進めば、同様の改革要求がポーランド、東ドイツ、ハンガリーなど他の社会主義国へ広がる可能性があった。
ソ連指導部はドゥプチェク政権との会談を重ね、改革の抑制を求めた。

一方、チェコスロヴァキア側は社会主義体制と ワルシャワ条約機構 への参加を維持する姿勢を示しながら、国内改革を続けようとした。

Warsaw Pact Invasion

1968年8月20日夜から21日にかけて、ソ連を中心とする ワルシャワ条約機構軍 がチェコスロヴァキアへ進入した。
ソ連、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアなどの軍が参加し、多数の戦車や兵士が国内主要都市や交通拠点を掌握した。

チェコスロヴァキア政府は組織的な軍事抵抗を行わないよう呼びかけた。
ドゥプチェクら改革派指導者はソ連側によって拘束され、モスクワへ移送された。

End of the Prague Spring

侵攻直後にすべての改革が消滅したわけではなかった。
ドゥプチェクは一時的に職務へ戻ったが、改革は段階的に撤回されていった。

1969年4月、ドゥプチェクは共産党第一書記を退き、 Gustáv Husák( グスターフ・フサーク )が後任となり、その後、政治・社会に対する統制が再び強化された。

この過程は、Normalization( 正常化 )と呼ばれ、改革を支持した多くの党員、知識人、ジャーナリストなどが職や政治的立場を失い、検閲も復活した、プラハの春 は終わった。

Brezhnev Doctrine

チェコスロヴァキアへの軍事介入後、ソ連は東側社会主義国の政治体制について重要な考え方を示した、後に Brezhnev Doctrine( ブレジネフ・ドクトリン / 制限主権論 )と呼ばれる考え方である。

一つの社会主義国で社会主義体制が危険にさらされた場合、それはその国だけの問題ではなく、社会主義陣営全体の問題である。
この論理では、加盟国の国家主権よりも社会主義圏全体の維持が優先される場合があり、プラハの春は、その原則が軍事力によって示された代表的な出来事となった。

From Prague to 1989

プラハの春 から約20年後、ソ連では Mikhail Gorbachev( ミハイル・ゴルバチョフ )ペレストロイカ と グラスノスチ を進める。
ソ連自身が経済改革と情報公開を進め、東欧諸国への軍事介入を続ける従来の政策も放棄されていった。

1989年、東欧各地で政治体制が相次いで変化、チェコスロヴァキアでは大規模な市民運動が広がり、共産党による一党支配が終わる。
Velvet Revolution( ビロード革命 )である。

その年、ベルリンの壁 も崩壊、1968年に軍事力によって停止された改革から21年、東欧社会主義圏そのものが、大きな転換点を迎えた。

What We Know

プラハの春 は、1968年にチェコスロヴァキアで進められた政治・社会・経済改革で、主導したドゥプチェク政権は、社会主義体制を維持しながら、言論・報道の自由や政治参加を拡大しようとした。

1968年8月、ソ連を中心とする ワルシャワ条約機構軍 がチェコスロヴァキアへ進入、その後、改革は段階的に撤回され、政治的統制が再び強化された。

プラハの春 が問いかけたのは、社会主義を続けるか否かだけではなかった。
社会主義を維持するとしても、その社会のあり方を誰が決めるのか。

チェコスロヴァキア国内で始まった改革は、冷戦下の東欧における国家主権、政治的自由、そして社会主義体制そのものの限界を世界へ示す出来事となった。

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