本能寺の変1582 【重史129】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史129】 『信長公記』
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史129】 そ第11話㊸
①俄かに、走入り侯の者、既に、端々、餓死に及ぶに付いて、
②信長公の御二男、お茶箋へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて、
③国司父子は、笠木・坂ないと申す所へ退城候ひしなり。
『信長公記』
永禄十二年1569、十月四日。 156901004
信長は、夜攻めを試みた。
同九月八日 (永禄十二1569) 。
だが、これは失敗。
手痛い反撃を受けた。
九月八日、
稲葉伊予・池田勝三郎・丹羽五郎左衛門、両三人、
西搦手の口より、夜攻めに仕るべきの旨、仰せ出だされ、
御請け申す。
其の日、夜に入り、三手に分けて攻められ候。
人数を出だされ侯へば、雨降り候て、
御身方の鉄炮、御用に罷り立たず候なり。
池田勝三郎、攻め口にて、
御馬廻の、朝日孫八郎・波多野弥三、討死仕り候なり。
丹羽五郎左衛門、攻め口にて、討死の衆、
近松豊前・神戸伯耆・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富介・
斎藤五八・古川久介・河野三吉・金松久左衛門・鈴村主馬、
初めとして、究竟の侍廿余人、夜合戦に討死。
信長は、兵糧攻めを徹底した。
同九月九日。
信長は、干殺(ひころし)にするつもりだった。
九月九日、
滝川左近に仰せ付けられ、
多芸谷(たぎや)国司の御殿を初めとして、悉く焼き払ひ、
作毛を薙ぎ捨て、忘国にさせられ、
城中は干殺になさるべき御存分にて、御在陣候のところ、
大河内城中には、餓死者が出ていた。
俄かに、走入り侯の者、既に、端々(はしばし)、餓死に及ぶに付いて、
国司父子は、堪えきれず、降伏を申し出た。
和睦、成立。
条件は、家督の譲渡。
すなわち、乗っ取り。
種々、御侘言(わびごと)して、
信長公の御二男、お茶箋(信雄)へ家督を譲り申さるゝ御堅約にて、
信長は、北畠氏を降し、伊勢一国を手に入れた。
十月四日、国司退城。
十月四日、
大河内の城、滝川左近・津田掃部両人に相渡し、
国司父子は、笠木*1・坂ない*2と申す所へ退城候ひしなり。
(『信長公記』)
*1 三重県多気郡多気町笠木
*2 三重県松阪市阪内町
【引用】 そ第11話㊸
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