本能寺の変1582 【重史158】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史158】 「兼見卿記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史158】 そ第11話⑪
①飯川治部入道(秋共)、書状到来、
②今度、丹後国、長岡兵部(細川藤孝)大輔に仰せ付けらるゝ也、
③鎧(よろい)借用の事、
「兼見卿記」
天正八年1580、八月四日。 158000804
八月初め。
光秀は、丹後へ向かった。
同じく、細川藤孝。
八月四日
藤孝から、吉田兼見に。
鎧借用の依頼、あり。
「最前、下向せしめ」
藤孝本人は、既に、出発していた。
四日、辛(かのと)丑(うし)、
飯川治部入道(秋共)、書状到来、云く
今度、丹後国、長岡兵部(細川藤孝)大輔に仰せ付けらるゝ也、
然る間、最前(=さきほど)、下向せしめ、
鎧(よろい)借用の事、別して、頼み入るの由、申さるゝの間、
先度(=さきごろ) 、一之齋より到来の鎧、持ち遣はしおわんぬ、
(「兼見卿記」)
【引用】 そ第11話⑪
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