本能寺の変1582 【重史147】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史147】 「勢州兵乱記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史147】 そ第11話㉑
①織田上総介平信長、伊勢の国を取んとし給ふ、
②滝川左近大夫将監一益を大将として、勢州北方へ向かる、
③信長、始めて、桑名表へ発向し給ふに、
④神戸長(おとな)、山路弾正正忠が城、高岡を取り巻き給ふ時、
⑤信長、勢を打ち入れ、岐阜へ帰り給ふ、
「勢州兵乱記」
永禄十年1567、春。 1567004**
伊勢は、豊かな国である。
十三郡、五十六万石。 【重史104】
【参考までに】
周辺諸国の石高 【重史104】
近江国 七十七万五千石
尾張国 五十七万千石
伊勢国 五十六万七千石
美濃国 五十四万石
大和国 四十四万八千石
三河国 二十九万石
遠江国 二十五万五千石
駿河国 十五万石
紀伊国 十四万三千石
伊賀国 十万石
甲斐国 二十二万七千石
信濃国 四十万八千石
信長は、伊勢侵攻に着手した。
同年(永禄十)、春。
ここから、である。
信長は、滝川一益に北伊勢の「調略」を命じた。
先ずは、北伊勢四郡。
桑名郡・員弁(いなべ)郡・朝明(あさけ)郡・三重郡。
この地域に、有力国人はいない。
中小の国人・土豪の割拠する状態だった。
「容易い」
そう、思ったのであろう。
信長は、滝川一益に命じた。
「調略せよ」
宥め・賺し、威嚇・恫喝。
そして、確信した。
「成る」
・・・・・。
一、永禄十年、春、
美濃の国、織田上総介平信長、伊勢の国を取んとし給ふ、
滝川左近大夫将監一益を大将として、勢州北方へ向かる、
滝川、尾張堺(境)、長島・桑名辺り、美濃堺(境)、多度辺りに、
打ち出で(三重県桑名市多度町)、
北方諸侍、或いは、攻め、或いは、和し、武威を振るふ、
員弁・桑名両郡の諸侍、上保木・持福以下、
自然に、織田家に従ふなり、
(「勢州兵乱記」)
信長は、大軍を率いて伊勢に出陣した。
同年、八月。 そ第28話
美濃の稲葉山城、落城。
斎藤龍興は、伊勢長島へ逃げた。
一、八月十五日、色々降参候て、
飛騨川のつゞきにて候間、舟にて川内長島へ、
龍興、退散。
【重史097】(『信長公記』)
なお、落城の時期については、異説あり(九月説)。
とすれば、その順序は、入れ替わる。
ここでは、『信長公記』の八月説をとった。
信長は、これに便乗・・・・・。
自ら、大軍(美濃・尾張)を率いて、龍興を追った・・・・・。
信長は、北伊勢四郡を手に入れた。
そして、そのまま、北伊勢へ。
瞬く間に、四郡を制圧した。
しかし、これに止まらず。
信長は、さらに、南下した。
伊勢の中央部へ。
鈴鹿郡・河曲郡に侵入。
神戸氏の支城、高岡城を攻めた(三重県鈴鹿市高岡町)。
信長には、策があった。
「威嚇」
だが、これを中断。
一旦、兵を引く。
一、永禄十年、八月、
信長、始めて、桑名表へ発向し給ふに、
北方の諸侍、南部・加用以下、これに従ふ、
其の後、信長、楠城を攻め給ふ、
楠十郎、降参して、魁(ひいて)、案内者と成り、
神戸長(おとな)、山路弾正正忠が城、高岡を取り巻き給ふ時、
美濃西方三人衆、心替わりの由、飛脚来たりしかば、
信長、滝川左近に、北方諸侍、相副え、勢州の押さえとし、
勢を打ち入れ、岐阜へ帰り給ふ、
(「勢州兵乱記」)
【引用】 そ第11話㉑
⇒ 次へつづく
