本能寺の変1582 信長、死す 「是非に及ばず」 1~7 №6-124 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長、死す 「是非に及ばず」 1~7 №6-124
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←5 信長の油断 1 勝利の余韻
「事態急変」
2 四国出陣
3 足蹴事件
4 中国出陣
「時は今」
←さる程に、不慮の題目出来候て、
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信長、死す 「是非に及ばず」 1~7 №6-124
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今から444年前のこと*。
『信長公記』の中でも、最も有名な部分。
著者太田牛一の息づかいが聞こえるようである。
手に汗握る場面。
緊迫感が伝わって来る。
*2026年-1582年=444年
天正十年六月二日、未明。
世間の誰もが予期せぬことであった。
さる程に、不慮の題目出来(しゅったい)候て、
光秀は、己の心底を打ち明けた。
彼らこそ、腹心の者ども。
「一蓮托生」
強い絆で結ばれていた。
六月朔日、夜に入り、丹波国亀山にて、
惟任日向守光秀、逆心を企て、
明智左馬助(秀満)・明智次右衛門(光忠)・藤田伝五(行政)・斎藤内蔵
(利三)、是れ等として談合を相究め、
「信長を討つ」
戦国の世である。
「生」と「死」が隣り合っていた。
一手違えれば、そこは地獄。
光秀には、先が見えた。
「ならば」
取るべき道は、ただ一つ。
結果、それは天下簒奪(さんだつ)を意味する。
信長を討ち果たし、天下の主となるべき調儀を究め、
(『信長公記』)
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
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光秀は、中国攻めを取り止めた。
軍勢の一部は、すでに西へ向けて進発していた。
光秀は、これらに引き返すよう命じた。
亀山より中国へは、三草越えを仕り候。
爰(ここ)を引き返し、
老ノ坂を経て、山崎へ。
明智軍は、東へ向きを変えた。
将兵らは、真の行先を知らず。
東向きに馬の首を並べ、
老の山へ上り、
山崎より摂津国地を出勢すべきの旨、
諸卒に申し触れ、
光秀は、亀山を発った。
先手の将は、斎藤利三ら談合の衆。
談合の者どもに先手を申しつけ、
(『信長公記』)
暗闇の中。
軍勢は、粛々と進む。
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光秀は、沓掛に到着した。
分岐点である。
ここで、道が二つに分れた。
右、中国毛利へ。
左、京。
六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、
右へ行く道は、山崎・天神馬場、摂津国皆道(街道)なり。
左へ下れば、京へ出る道なり。
そして、桂川へ。
光秀は、躊躇せず。
「左」の道をとった。
明智軍は、前進する。
爰(ここ)を左へ下り、
「漸く、夜も明け方に罷りなり候」
光秀は、川を越えた。
目指すは、「本能寺」。
「信長の首」。
桂川打ち越し、
漸(ようや)く、夜も明け方に罷りなり候。
(『信長公記』)
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明智の軍勢が本能寺を取り囲んだ。
光秀は、少し離れたところに本陣を構えた。
既に、信長公御座所本能寺取り巻き、
大喊声が沸き起こった。
攻撃が始まった。
勢衆、四方より乱れ入るなり。
信長は、これに気づいた。
何やら、外が騒々しい。
小姓たちが走った。
慌ただしい空気が流れる。
「もしや」
・・・・・。
不吉な予感。
信長も御小姓衆も、
当座の喧嘩を下々の者ども仕出(しだ)し候と、
おぼしめされ候のところ、
「謀叛」
明智勢が鉄砲を打ち込んだ。
信長は、これで、わかった。
「ならば」
頭脳が激しく回転する。
「何者ぞ」
・・・・・。
一向さはなく、
ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。
是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、
御諚のところに、
「是非に及ばず」
「惟任光秀」
一瞬、その顔が脳裏を過(よぎ)った。
信長は、覚悟を決めた。
森乱申す様に、明智が者と見え申し候と言上候へば、
是非に及ばずと、上意候。
(『信長公記』)
時は、容赦なく流れていく。
5/7
明智勢が御殿へ殺到した。
信長方は、表御堂の番衆と一手になった。
これを迎え討つ。
透(すき)をあらせず、御殿へ乗り入れ、
面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。
本能寺は、修羅場と化した。
奮戦すれども。
虚し。
衆寡敵せず。
家臣らは、次々に討死していく。
御厩、無惨。
以下、討死の衆。
忠義の者たちである。
御厩(うまや)より、矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五、
切つて出で、討死。
此の外、御中間衆、藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・
小駒若・虎若・息小虎若を初めとして廿四人、
御厩にて討死。
御殿では、死闘が繰り広げられた。
なれど、及ばず。
同じく、討死の衆。
信長の近習たちである。
主君のために、身命を捧げた。
御殿の内にて討死の衆。
森乱・森力・森坊兄弟三人、小河愛平・高橋虎松・金森義入・
菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・
薄田与五郎・今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・
種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原鍋兄弟・
針阿弥・平尾久助・大塚孫三・湯浅甚介・小倉松寿。
御小姓衆、懸かり合ひ懸かり合ひ、討死候なり。
斯く戦えり。
湯浅甚助・小倉松寿、此の両人は、町の宿にて此の由を承り、
敵の中に交(まじ)り入り、本能寺へ懸け込み、討死。
御台所の口にては、高橋虎松、暫らく支へ合ひ、比類なき働きなり。
(『信長公記』)
戦国の世である。
下剋上が罷り通る時代だった。
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信長は、弓を取った。
程なくして、弦が切れた。
押し寄せる敵。
明智の兵、兵、兵・・・・・。
さながら、雲霞の如し。
信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、
何れも、時刻到来候て、御弓の絃(つる)切れ、
次、槍。
だが、負傷した。
奥へと退く。
「その時」が迫っていた。
其の後、御鎗にて御戦ひなされ、
御肘に鎗疵を被(こうむ)られ、引き退き、
「女は、くるしからず」
信長は、女たちを脱出させた。
是れまで御そばに、女どもつきそひて居り申し候を、
女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、
追ひ出させられ、
(『信長公記』)
家臣らは、懸命に堪(こら)えた。
「上様の御ために」
時間を稼ぐ。
次第に、煙が立ち込めて。
・・・・・。
ついに、「その時」がやって来た。
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本能寺、炎上。
御殿に火の手が上がった。
既に、御殿に火を懸け、焼け来たり候。
信長は、納戸に入った。
ここが最期の場所となる。
己の死に様を見せたくなかった。
御姿を御見せ有る間敷(まじ)きと、思し食(め)され候歟(か)、
殿中奥深く入り給ひ、
内よりも御南戸(納戸)の口を引き立て、
夢幻の如く也。
燃え盛る炎の中で。
自らの命を絶った。
無情(なさけなく)、御腹めされ、
(『信長公記』)
程なく、本能寺は焼け落ちた。
全てが灰燼に帰す。
享年、49。
斯くして、信長の「天下布武」は終わった。
実に、あっけない最期であった。
「諸行無常」
「万物流転」
時は、流れるを止めず。
その終焉は、次代の始まりにすぎない。
戦国の世は、つづく。
⇒ 次回へつづく 信長、死す
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信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
