本能寺の変1582 【重史157】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史157】 「亀岡市史」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史157】 そ第11⑩03
①定 宮田市場
②一、喧嘩・口論・押買・狼藉、停止の事、
③違犯の輩においては、速やかに巌科に処すべきもの也、
「亀岡市史」
天正八年1580、七月某日。 1580007**
光秀は、丹波の復興を推し進めていた。
宮田市場の掟書を定めた(兵庫県丹波篠山市宮田)。
定 宮田市場
一、喧嘩・口論・押買・狼藉、停止の事、
一、国質・所質・請け取り沙汰、諸式非分の族、停止の事、
毎月市日 四日 八日 十二日
十七日 廿一日 廿五日
右の条々、違犯の輩においては、速やかに巌科に処すべきもの也、
仍って、件の如し、
天正八年七月 日
光秀(花押写)
(「亀岡市史」)
【引用】 そ第11⑩03
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