本能寺の変1582 【 重史 008 】 250510 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【 重史 008 】
「イエズス会日本年報」『日本史』 250510
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正 250510
【 重史 008 】 ◎第8話 250510
①一大艦隊を編成してシナを征服し、 「イエズス会日本年報」
②一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、 『日本史』
世界は、大航海時代であった。
当時、イエズス会は、中国、すなわち明(1368~1644)へ、
積極的に、布教活動を拡大しようとしていた。
背景には、ポルトガルの野望があった。
信長の目は、海外を見ていた。
信長は、フロイスら、イエズス会の宣教師たちから大きな刺激を受けた。
激動する世界の情勢等々。
様々な知識を得た。
そして、覚醒。
「明」
信長の思いは、東シナ海の向こう側にあった。
信長には、「さらなる夢」があった。
フロイスは、このことを確りと書き留めている (①~②) 。
①「イエズス会日本年報」
天正十年十月二十日。
フロイスは、信長の死について、イエズス会総会長へ報告した。
次は、その中の一文である。
信長は自ら行くことに決し、都に来り、
同所より堺に赴くこととし、
毛利を征服して、
日本六十六ヵ国の領主となった後、
一大艦隊を編成してシナを征服し、
諸国をその子達に分ち与へんと計画した。
②『日本史』
こちらは、その後年に書かれたものである。
信長は、事実行なわれたように、都に赴くことを決め、
同所から堺に前進し、
毛利を平定し、
日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、
一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、
諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。
これが信長の志向である。
信長は、中国を征服し、日本国内は、子供たちに分け与えるつもりだっ
た。
①「シナを征服し」「諸国をその子達に分ち与へんと計画」
②「シナを武力で征服し」「諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」
と、ある。
だが、結局、本能寺の変により、それは潰えた。
信長の拡大政策は、止まず。
信長とフロイスが居た場所に、光秀も居合わせたかどうか定かではない。
しかし、耳には入っていただろう。
光秀は、信長の「さらなる夢」を知っていた。
光秀は、織田家の出世頭。
万事につき、抜かりのない人物だった。
信長との意思疎通を絶やさず、信長に関するあらゆる情報を、貪欲に収集
していたものと思う。
そのための、ネットワークのようなものがあったのではなかろうか。
信長にとって、光秀は重宝な存在。
これまで、坂本から、離すことはなかった。
安土には、屋敷もあった。
光秀の坂本城は、安土城の対岸にある。
琵琶湖を挟んで、直線でおよそ26㎞。
間に、遮るものは何もない。
当時は、視認できたのかもしれない。
きわめて近い位置にあった。
舟を利用して、「早く」、「楽に」、往来することができた。
出仕するのも、容易だっただろう。
安土には、光秀の妹 妻木氏がいた。
有力な情報源だった。
【参照】【重史006】 ◎第8話
(四月)十八日、妻木惟向州妹、参宮、 天正07 157900418
(九月)廿五日、惟任姉(妹)妻木、在京の間、罷り 天正07 157900925
「兼見卿記」
【参照】【重史007】 ◎第8話 天正09 158100821
①惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
②向州、比類なく、力を落とすなり、
「多聞院日記」
【引用】4 光秀の苦悩 2志向の相違 ◎第8話 ◎小8 第8話
⇒ 次へつづく
