本能寺の変1582 【重史150】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史150】 「仁和寺文書」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史150】 そ第11㉕02
①御袖判(義昭) 殿中御掟
②御部屋衆・定詰衆・同朋以下、
③公家衆・御供衆・申次は、
④惣番衆面々、
⑤公事篇の
⑥奉行衆の
⑦弾正忠判(信長)
「仁和寺文書」
永禄十二年1569、一月十四日。 156900114
信長は、機敏だった。
即座に、手を打った。
信長は、幕府の体制を、内側から規律した。
戦国時代の真っ只中。
幕府は、
否、義昭は、
全く、無警戒だった。
危機意識の欠如。
すなわち、「油断」。
「隙」を衝かれた。
実に、危うかった。
一月十四日。
信長は、殿中御掟を定めた。
以下、九ヵ条。
御袖判(義昭) 殿中御掟
一、不断に召し仕わるべき輩(ともがら)御部屋衆・定詰衆・同朋以下、
前々の如くたるべき事、
一、公家衆・御供衆・申次は、御用次第に参勤有るべき事、
一、惣番衆面々、祗候有るべき事、
一、各(おのおの)召仕う者(陪臣)、御縁(御所の縁側)へ罷り上る儀、
当番衆として、罷り下すべきの旨、堅く申し付くべし、
若し、用捨の輩は、越度たるべき事、
一、公事(訴訟)篇の内奏、御停止の事、
一、奉行衆の意見を訪ねらるゝ上は、是非の御沙汰有るべからざる事、
一、公事を聞こし召さるゝ式日は、前々の如くたるべき事、
一、申し次ぎの当番衆を閣(さしお)き、毎事、別人、披露(将軍へ)有る
べからざる事、
一、諸門跡の坊官・山門衆徒・医・陰の輩以下、猥(みだり)に祗候有る
べからず、
付り、御足軽・猿楽は召しに従って参るべきの事、
永禄十二年正月十四日 弾正忠判(信長)
(「仁和寺文書」「織田信長文書の研究」)
信長は、幕政に介入した。
そういうことになる。
「これ程までに」・・・・・。
とは、思ってもいなかっただろう。
緩み切っていた。
この辺りからである。
信長の介入は、徐々に、強まって行く。
そして、それは、やがて、・・・・・。
【引用】 そ第11㉕02
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