見出し画像

本能寺の変1582 【重史66】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史066】 「言継卿記」 

はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←  
重要 ◎目次 
重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史066】 そ第158話⑩

きう介与力一人、鉄━(鉄炮)に当たり死すと云々、

                       「言継卿記」

 天文十九年1550
 
信長、十七歳。
 光秀、二十七±四歳ぐらいの年。

 【参照】光秀の年齢 結論 そ第77話 ◎第77話 第77話

 この頃、鉄砲が普及し始めていた。
 量産体制が、整いつつあった時期。
 まだまだ、高価だったものと思う。

 同、七月。
 京である。
 細川晴元軍と三好軍の間に、市街戦があった。
 この戦いで、鉄炮による戦死者が初めて記録された。 

  十四日、丙午(ひのえうま)、天晴、天一天上、
  三好人数、東へ打ち出で、見物、
  禁裏築地の上、
  九つ過ぎ時分迄、各(おのおの)、見物、

  筑前守(三好長慶)は、山崎に残ると云々、
  同名日向守・きう(弓)介・十河民部太夫(一存)以下
  都合一万八千と云々、
  一条より五条に至り取り出で、
  細川右京兆人数、足軽百人計(ばか)り出合わせ、野伏これ有り、
  きう介与力一人、鉄━(鉄炮)に当たり死すと云々、
                          (「言継卿記」)

                      →【重史055】鉄炮記


 【引用】第90話 そ第158話⑩



 ⇒ 次へつづく

いいなと思ったら応援しよう!