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本能寺の変1582 重要 ◎第55~56①②話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第55~56①②話 

9光秀という男 3土岐氏 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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【 重要史料 】 【 人物 】 
*加筆修正 

◎第55話 ◎小55    第55話

 光秀は、誇り高い男。
 明智氏は、土岐氏の一族である。
 
 光秀は、土岐氏の一族であることを誇りに思っていた。

  ①土岐氏の家紋 桔梗紋

   光秀の家紋 桔梗紋
   光秀の旗印 水色地に白抜き桔梗紋

  ②愛宕百韻 「時」= 土岐

   光秀の発句 時 (土岐) は今、あめか下なる五月かな
   光慶の結句 国々は、猶、長閑なる時 (土岐)
                    
【 重史 005 】(「続群書類従」)

  ならば、土岐氏とは、一体、如何なる家なのだろうか。

 土岐氏は、清和源氏の一流である。
 
 すなわち、清和源氏 ― 摂津源氏 ― 美濃源氏という流れになる。
  以下、その血脈を示す (①~⑦) 。

  ①清和天皇―貞純親王―経基

   この経基が源姓を賜った。
   初代である。

  ②源経基―満仲―頼光

 源頼光が摂津源氏の祖とされる。
 
  頼光は、摂津国多田荘(川辺郡)を本拠とした。
  このことから、摂津源氏と呼ばれる。

 土岐氏は、美濃源氏の嫡流家であった。
  
頼光は、二度、美濃守に任じられた。
  したがって、美濃に強い基盤を有していた。
  それが、後裔に受け継がれ、さらに強固なものになった。
  これが美濃源氏である。

  ③源頼光―頼国―国房―光国―光信―光基―光衡

 土岐氏は、鎌倉期に美濃に土着した。
  光衡の代に、土岐郡に住み着いたらしい。
  一日市場(ひといちば)に居館を構えたという(瑞浪市土岐町)。

 光衡が土岐氏の初代とされる。
  以後、この住地を氏名とした。

  ④土岐光衡―光行―光定―頼貞

 土岐頼貞の時、初めて美濃の守護になった。
  頼貞は、鎌倉末期~室町初期の人物である。
  元弘三年1333。
  倒幕に参加。
  足利尊氏(1305~58)に加勢、軍功をあげた。
  これにより、美濃の守護に任ぜられた。

  ⑤土岐頼貞―頼遠―頼康―康行

 以来二百余年、土岐氏は美濃の守護を歴任した。

◎第56話① ◎小56①   第56話

 土岐頼遠は、足利尊氏の時代の人物である。
 
 足利尊氏は、室町幕府の初代将軍。
  鎌倉時代末期~室町時代初期(南北朝時代)の人。
  1305年(嘉元三年)生れ~1358年(延文三年)没。 

 室町時代は、この尊氏から始まった。
 
 以下、尊氏の略歴を示す。

  1333年 元弘三年/正慶二年
  後醍醐天皇の倒幕に呼応。
  鎌倉幕府を滅ぼした。
  執権北条高時、自害。
  建武の新政が始まった。

  1335年 建武二年
  中先代の乱。
  北条時行(高時の子)が挙兵した。
  後醍醐天皇と対立。

  1336年 延元元年/建武三年
  尊氏、入京。
  後醍醐天皇は、比叡山へ逃がれた。
  北畠顕家により、九州へ駆逐された。
  湊川の戦いで、勝利。
  再び、上洛。
  後醍醐天皇は、比叡山へ逃がれた。
  光明天皇が即位、北朝が成立した。
  建武式目を定める。  
  後醍醐天皇は、吉野へ逃れた。
  南北朝時代が始まった。
  → 1392年(元中九年/明徳三年)までつづく。 

  1338年 延元三年/建武五年
  南朝軍、和泉国石津(大阪府堺市)で大敗。
  尊氏、征夷大将軍に就任。

  1350年 正平五年/観応元年
  観応の擾乱が起きた。
  弟直義と高師直の間の政治闘争である。
  → 1352年、正平七年/観応三年までつづく。

 頼遠は、婆娑羅大名。
 
 土岐頼貞の第七子。
  生年不詳~康永元年(1342年)没。
  足利尊氏・直義兄弟に従い、数々の合戦で活躍した。
  歴戦の勇者である。
  暦応二年(1339年)、父頼貞、死去。
  兄が早世していたため、頼遠が家督を継ぎ、美濃守護となった。
  典型的な婆娑羅大名の一人。
  康永元年(1342年)、光厳上皇の行列に行き会った際、その牛車に
  矢を射かけるという狼藉を働いた。
  その時、つぎの様に言ったという。
  「何々、院(INN)と云うか、犬(INU)と云うか、犬ならば射ておけ」
  有名な言葉である。
  しかし、このことが露見し、同年暮れ、六条河原で刎首(ふんしゅ)され
  た。

◎第56話② ◎小56②   第56話

 室町幕府は、十五代、240年つづいた (①~③) 。
 
 1338年(延元三年/建武五年)~1573年(元亀四年)まで。
  この約240年間が室町時代である。
  以下、歴代の将軍を示す。

 ①初代~第十代将軍
 
 代     名        在職          生没年 
  1    足利尊氏 1338~1358年  1305~1358年 
  2    〃 義詮 1359~1367年  1330~1367年
  3    〃 義満 1369~1395年  1358~1408年
  4    〃 義持 1395~1423年  1386~1428年
  5    〃 義量 1423~1425年  1407~1425年

 ②第六代~第十一代将軍
 
 6    〃 義教 1429~1441年  1394~1441年
  7    〃 義勝 1442~1443年  1434~1443年
  8    〃 義政 1449~1473年  1436~1490年
  9    〃 義尚 1473~1489年  1465~1489年  
  10   〃 義材 1490~1493年  1466~1523年
  11   〃 義澄 1494~1508年  1480~1511年
  10再  〃 義稙 1508~1521年

 ③第十二代~第十五代将軍
 
 12   〃 義晴 1521~1546年  1511~1550年   
  13   〃 義輝 1546~1565年  1536~1565年
  14   〃 義栄 1568年       1538~1568年
  15   〃 義昭 1568~1573年  1537~1597年

 光秀は、大永四年1524±四年~天正十年1582を生きた。
  
【参照】その一因 一、光秀の年齢 第77話  ◎第77話

 光秀は、③の時代を生きた。
 
 12義晴は、父。
  13義輝は、その嫡男。
  15義昭は、その弟。 

 光秀は、室町時代の末期を生きた。
  室町幕府は、第十五代将軍義昭で幕を引いた。
  光秀は、その張本人である。

 光秀は、戦国時代の後半を生きた。
 
 典型的な戦国武将である。



 ⇒ 次へつづく


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