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本能寺の変1582 【重史100】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史100】 「朝倉始末記」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史100】 そ第29話②

①敦賀を御出で有り、

②一乗安養寺に着御なり、

                    「朝倉始末記」

 永禄十年1567、冬。
 足利義昭一行が、一乗谷に入った。

 義昭は、流浪した。
 和田 → 矢島 → 若狭 → 敦賀。

 そして、「漸く」、一乗谷に流れ着いた(福井市城戸ノ内町)。
 朝倉氏の本拠地である。
 十一月二十一日のこと、という。 

  斯くして、国中、騒動も漸(ようやく)く静ける程に、
  義昭公、一乗の谷へ入御成さるべきとて、

  永禄十年十月(十一月の誤り)廿一日、敦賀を御出で有り、
  府中龍門寺へ入り給ひ、暫し、御休息ましまして、

  其の日の亥の刻(午後十時ころ)、一乗安養寺に着御なり、
                          (「朝倉始末記」)

 その中に、細川藤孝がいた。
 
藤孝は、御供衆(義輝の代から)。 →【重史051】
 義昭の最重臣の一人である。

 光秀は、越前にいた。
 「長崎称念寺門前に、十ヶ年居住故」 →【重史025】

 光秀は、没落していた。
 
「濃州土岐一家牢人たりしか」 →【重史025】

 光秀には、夢があった。
 
否、悲願。
 「明智の再興」
 
すなわち、光秀の志向。

 光秀は、強運だった。
 
永禄十年1567の、この年。
 光秀は、四十四±四歳ぐらい。 →そ第77話
 「人間五十年」の時代。
 人生最後のチャンスがやって来た。 
 そういうことになる。

 一乗谷は、稲葉山の北西、凡そ二十里80km。
 
義昭は、「幕府の再興」。
 藤孝は、「名誉挽回」。
 光秀は、「明智の再興」。
 信長は、「天下布武」。
 斯くして、四人の思惑が一致した。

 光秀は、目的意識の強い男。
 光秀は、美濃の出身。
 となれば、当然、美濃には、親戚・縁者・友人・知己等も数多くいたもの
 と思う。
 それ故、当地の情勢等については、かなり、精通していたことだろう。
 当然、信長のことも、十分、調べつくしていたはずである。
 おそらく、現地へ出向いたのではないだろうか。
 己の耳目で、確かめて来たのかもしれない。
 「この男こそ」
 光秀は、そのような目で、信長を、見ていたものと思う。

 光秀は、典型的な戦国武将。
 光秀は、出来る男。
 機を見るに敏。
 そして、行動力と実行力があった。
 目的のためには、手段を選ばず。
 執念深い。
 信長と同じタイプの男だった。

 となれば、・・・・・。


 【引用】そ第29話② ◎第29話 第29話



 ⇒ 次へつづく

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