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本能寺の変1582 【重史162】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史162】 「成相寺文書」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史162】 そ第11話⑪

①禁制 丹後国江尻村

②一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉の事、

③天正八年八月十七日 日向守(花) 与一郎(花) 兵部大輔(花)                      

                      「成相寺文書」


 天正八年1580、八月十七日。
             158000817

  細川藤孝だけでは、丹後の平定成らず。
  「光秀、おらばこそ」
  光秀は、藤孝のために、大いに尽力した。

  面倒見がいいのである。

  八月十七日
  この日、江尻村に禁制を与えた(京都府宮津市江尻)。
  光秀・忠興・藤孝、三人の連署。
  光秀の、細かい配慮を感じる。

      禁制   丹後国江尻村
   一、当手軍勢甲乙人乱妨狼藉の事、
   一、刈り田の事、
   一、放火の事、
   右条々、堅く停止せしめおわんぬ、
   若し、此の旨に背き、違犯の輩(ともがら)これ在るに於いては、
   速やかに、厳科に処すべき者なり、
   仍って、下知、件の如し、
                    (光秀)
    天正八年八月十七日         日向守(花押)
                    (細川忠興)
                      与一郎(花押)
                    (細川藤孝)
                      兵部大輔(花押)
                    (「成相寺文書」「亀岡市史」)

  細川藤孝は、光秀の与力。
  光秀の家臣では、ない。

  信長の家臣である。
  信長の命により、与力として、光秀に付け置かれた。
  光秀の指揮下に、入ったわけである。
  すなわち、部下。
  したがって、かつて(幕臣時代)の上下関係・立場が、逆転していた。
            →【重史051】 「永禄六年諸役人附」後半部分

  藤孝にとって、光秀は、大恩人。
  なれど、その心中は、複雑だった。




 【引用】 そ第11話⑪



 ⇒ 次へつづく

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