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本能寺の変1582 【重史105】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史105】 『信長公記』 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 ←
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 ←
(1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史105】 そ第11話㉔

①三好三人衆、・・・公方様、六条に御座侯を取詰め、

②六条に楯籠る御人数、細川典厩・・・、明智十兵衛

                       『信長公記』

 永禄十二年1569、一月五日。
  信長、三十六歳。
  前途の波乱を予感させる年明けだった。

  「本國寺襲撃事件」
  一月五日。
  三好三人衆の軍勢が、本國寺に攻め寄せた。
  義昭の仮御所。

   正月四日(五日の誤り)、
   三好三人衆、幷(ならび)に、斎藤右兵衛大輔龍興・長井隼人等、
   南方の諸牢人を相催し、
   先懸の大将、薬師寺九郎左衛門、
   公方様、六条に御座侯を取詰め、門前を焼き払ひ、
   既に、寺中へ乗り入るべきの行(てだて)なり。
                           (『信長公記』)

  その時、信長は、岐阜にいた。
  「隙」を衝かれた格好である。
  すなわち、「油断」。
  信長は、甘かった。

  光秀は、本國寺にいた。
  これが、『信長公記』における初見である。

   爾処(しかりしところ)、
   六条に楯籠る御人数、
   細川典厩・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・赤座助六・
   津田左馬丞・渡辺勝左衛門・坂井与右衛門・明智十兵衛
   森弥五八・内藤備中・山県源内・宇野弥七。
                           (『信長公記』)

  激戦だった。
  戦いは、昼過ぎに始まった。
  敵味方、ともに、多くの死傷者が出た。

   若狭衆、山県源内・宇野弥七、両人は、隠れなき勇士なり。
   御敵薬師寺九郎左衛門幢本(はたもと)へ切つてかゝり、切り崩し、
   散々に、相戦ひ、余多に手を負はせ、鑓下にて、両人討死候なり。
   襲ひ懸れば、追ひ立て、火花をちらし相戦ひ、
   矢庭に、三十騎計り射倒し、
   手負・死人、算を乱すに異ならず。
   乗り入るべき事、思ひ懸けも寄らず。
                           (『信長公記』)

  近隣の幕臣たちが、後詰に動き出した。
  これを知った三好義継・細川藤孝・池田勝正らが、本國寺へ向かった。
  俄(にわ)か仕立ての、幕府軍が編成されつつあった。
  これすなわち、後詰。

  三好三人衆が、それに気づいた。 
  攻撃が、緩慢になった。

   懸かるところに、
   三好左京大夫・細川兵部大輔・池田筑後、
   各(おのおの)、後巻(うしろまき)これある由承り、

   薬師寺九郎左衛門、小口(攻め口)を甘(くつろ)げ候。
                           (『信長公記』)

 【引用】そ第11話㉔ そ第11話31



 ⇒ 次へつづく

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