本能寺の変1582 【重史49】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史049】 『信長公記』
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信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史049】
①三月二日、払暁に、御人数寄せられ、中将信忠卿は、尾続を搦め手の口へ取りよせられ、
②中将信忠御自身、御道具を持たせられ、先を争つて塀際へつけられ、
『信長公記』
天正十年三月二日
信忠は、高遠城を攻撃した。
戦いは、夜明けとともに始まった。
三月二日、払暁に、御人数寄せられ、
中将信忠卿は、尾続を搦め手(裏門)の口へ取りよせられ、
大手の口、森勝蔵・団平八・毛利河内・河尻与兵衛・松尾掃部大輔、
此の口へ切つて出で、
数刻相戦ひ、数多討取り侯間、残党逃げ入るなり。
信忠は、勇猛だった。
自らも、塀際へ突撃して、一斉攻撃を命じた。
敵味方、入り乱れての激戦となった。
か様侯処、
中将信忠御自身、御道具を持たせられ、先を争つて塀際へつけられ、
柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、
一旦に乗り入るべきの旨、御下知の間、
我劣らじと、御小姓衆・御馬廻城内へ乗り入り、
大手・搦手より、込み入れ込み立てられ、火花を散らし相戦ひ、
各(おのおの)、疵を被り、討死、算を乱すに異らず。
(『信長公記』)
【引用】◎第5話
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