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本能寺の変1582 【重史58】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史058】 『信長公記』 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 目次中 
 1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
 5志向の相違 +信長の油断 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正

【重史058】 そ第158話④

織田三郎信長、御武者始めとして、

                       『信長公記』

 天文十六年1547
 信長、初陣。
 
 信長は、三河の吉良大浜に出陣した(愛知県碧南市音羽町)。
 初陣である。
 平手政秀が後見役をつとめた。
 信長、十四歳の時。

  翌年(天文十六年)、織田三郎信長、御武者始め(=初陣)として、
  平手中務丞、その時の仕立(準備して調えた)、
  くれなゐ筋のづきん、はをり、馬よろひ(鎧)の出立(いでたち)にて、
  駿河より人数入れ置き侯、三州の内、吉良大浜(=今川の属城)へ御手遣
  ひ。
  所々、放火侯て、其の日は、野陣を懸げさせられ、
  次の日、那古野に至つて御帰陣。
                           (『信長公記』)

 【引用】第85話 そ第158話④



 ⇒ 次へつづく


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