本能寺の変1582 【重史148】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史148】 「勢州兵乱記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
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そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史148】 そ第11話㉒
①永禄十一年二月、信長、又、勢州へ発向、
②神戸へ、使者を以って、神戸蔵人大夫と無事に成る、
③信長の三男、三七殿、拾三歳の時、養子に遣わさる、
「勢州兵乱記」
永禄十一年1568、二月。 1568002**
信長が、足利義昭を擁して上洛する年(九月)。
第34話 ◎第35話 第35話
信長は、再び、伊勢を攻めた。
同年、二月。
信長、出陣。
再び、伊勢へ。
美濃・尾張・北伊勢四郡の将兵。
大軍勢である。
一路、南下。
狙いは、伊勢の中央部分。
すなわち、鈴鹿・河曲、安濃・奄芸。
これら、四郡。
先ずは、河曲郡の神戸氏。 【 人物 】
同氏は、桓武平氏の流れを汲む、名家である。
平清盛の後裔、関氏の一族という。
また、北畠氏との縁も深い。
当主は、神戸具盛(友盛)。 【 人物 】
生年不詳。
神戸城を居城とした(三重県鈴鹿市神戸5) 。
妻は、蒲生氏。
当時は、近江の六角氏に従っていた。
信長は、再び、北辺の高岡城を攻撃した。
だが、その一方で、具盛に、和睦を持ちかけた。
条件は、三男三七郎(信孝)を養子にすること。
具盛には、男子がいなかったらしい。
信長は、神戸氏の名跡が欲しかった。
信長は、三男信孝を神戸氏の養子に入れた。
承諾せねば、消滅する。
具盛は、渋々、これを受け容れた。
すなわち、臣従。
永禄十一年二月、
信長、又、勢州へ発向、
北方諸侍、千草・宇野・楠十郎・赤堀肥前守以下、
悉(ことごと)く、これに従う、
信長、又、高岡を取り巻き給ひ、
是れより、神戸へ、使者を以って、神戸蔵人大夫と無事に成る、
神戸、女子一人これ有り、男子これ無し、
信長の三男、三七殿、拾三歳の時、養子に遣わさる、
(「勢州兵乱記」)
信長は、神戸氏を乗っ取った。
信孝は、具盛の後継者。
これ以後、「神戸三七郎」を称す。
体のいい、「乗っ取り」に他ならない。
信孝は、永禄元年1558の生れ。 【 人物 】
この年、十一歳。
母は、坂(さか)氏。
信長の嫡男信忠(弘治三年1557生)と二男信雄(永禄元年1558生)
の母は、同じ生駒氏。
したがって、彼らとは、異母兄弟となる。
なお、この時、織田家から、信孝付として、幸田彦右衛門(傳役)・岡本
良勝の他、三宅・坂口・山下ら多くの家臣たちが送り込まれた。
すなわち、「乗っ取り」の実行部隊。
幸田彦右衛門を御守りとして、
其の他、岡本太郎左衛門・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門
などと云う侍ども付け参らせ候なり、
但し、坂口は、後、信長、召し返され、先手衆に召し加えられしが、
その後、江州に於いて、討死すとぞ聞こえし、
神戸家、信長へ一味によって、峰・国府・鹿伏兎・稲生以下、
味方仕り候、
但し、亀山、関一人、六角家と一味し、暫し、味方に参ぜずと云ふ、
(「勢州兵乱記」)
【引用】 そ第11話㉒
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