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本能寺の変1582 【重史123】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史123】 『信長公記』 

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 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史123】 第35話

①十四日に、濃州西庄、立正寺へさしつかはされ、

②廿六(誤)日、御渡海なされ、三井寺極楽院に御陣を懸けられ、

③廿八(誤)日、信長東福寺(東寺の誤り)へ御陣を移され、

④公方様、同日に清水へ御動座。

                       『信長公記』

 永禄十一年1568、九月十四~二十六日。

 信長は、迎えの使者を派した。
 使者は、不破光治。
 岐阜、立政寺へ。

  公方様(義昭)へ、御堅約の御迎へとして、
  不破河内、
  十四日に、濃州西庄、立正寺へさしつかはされ、

 義昭は、立政寺を出発した。
 東山道を西へ(中山道)。
 京をめざす。

 この日、近江に入った。
 柏原成菩提院、泊。
 行程、凡そ30km。

  廿一日、既に御馬を進められ、柏原上菩提院御着座。

 翌日、桑実寺(くわのみでら)に到着。
 同寺は、観音寺山の中腹にある
 この日の移動距離、凡そ十里40km。

  廿二日、桑実寺へ御成り。

 信長は、守山へ進出した。

  廿四(二十二の誤り)日、信長、守山まで御働き、

 翌日、さらに、南下。
 上洛するには、琵琶湖か瀬田川かどちらかを渡らなければならない。
 なにしろ、大軍勢である。
 数多くの船が必要だった。
 信長は、その手配・準備等に手間取った。
 そのため、この日は彼の地に留まらざるをえなかった。

  翌日、志那・瀬田の船、さし相ひ(=かち合い)、御逗留。

 信長は、三井寺に入った。
 信長は、琵琶湖を渡った。
 三井寺極楽院に本陣を置く。

  廿六(二十四の誤り)日、
  御渡海なされ、三井寺極楽院に御陣を懸けられ、
  諸勢、大津の馬場・松本に陣取る。 

 信長は、ここで義昭と合流した。
 義昭は、一日遅れて、三井寺に到着した。

  廿七(二十五の誤り)日、
  公方様御渡海にて、三井寺光浄院に御陣宿。

 信長、上洛。
 信長は、京に入った。
 東寺に、本陣を構えた。

  廿八(二十六の誤り)日、信長、東福寺(東寺の誤り)へ御陣を移され、

 信長は、三好三人衆を攻撃した。
 三人衆の一人、石成友通が勝竜寺城に立て籠もっていた。
 柴田勝家ら四将が、これを攻めた。

  柴田日向守・蜂屋兵庫頭(頼隆)・森三左衛門(可成)・坂井右近(政尚)、
  此の四人に先陣を仰せ付けられ、

  則ち、かつら川打ち越し、
  御敵城、岩成主税頭楯籠る正立寺表に手遣ひ、
  御敵も、足軽を出だし候。

  右四人の衆、見合せ、馬を乗り込み、頸五十余討捕り、
  東福寺にて、信長へ御目に懸けられ、

 義昭、上洛。
 義昭は、清水寺に御座を移した。

  公方様、同日に清水へ御動座。
                          (『信長公記』)


 【引用】 第35話



 ⇒ 次へつづく

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