本能寺の変1582 【重史160】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史160】 「兼見卿記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史160】 そ第11話⑪
十五日、壬子(みずのえね)、右府信長、大坂表へ御出陣、
「兼見卿記」
天正八年1580、八月十五日。 158000815
信長は、京を発って大坂へ向かった。
あれから、十数日が経過していた。
伽藍炎上、灰燼に帰した石山本願寺。
その、「焼け跡視察」、ということになる。
十五日、壬子(みずのえね)、
右府信長、大坂表へ御出陣、
未明、御発足、
罷り出でず、
(「兼見卿記」)
【引用】 そ第11話⑪
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