本能寺の変1582 【重史103】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史103】 「上杉家文書」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
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1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 ←
3(1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
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*加筆修正
【重史103】 ◎第30話
①入洛の儀につきて、
②信長、厳重に言上、
③先ず、濃州に至り御座を移さるべきの由申すの間、
「上杉家文書」
永禄十一年1568、春。
雪解けとともに、交渉が再開された。
越前、一乗谷の義昭。
美濃、岐阜の信長。
国境は、山岳地帯。
冬は、雪に閉ざされる。
幾度も、細川藤孝の使者が往来した。
一乗谷と岐阜の間を。
「入洛の儀につきて」
書状が行き交った。
「信長、厳重に言上」
義昭 ⇄ 細川藤孝 ⇄ 使者 ⇄ 信長
この使者こそ、明智光秀だった。
あくまでも、推論であるが・・・。
おそらく、この時の使者が光秀だったのではないか?
残念ながら、これを裏づける史料はまだ見つかっていない。
同年(永禄十一年)、七月。
「交渉成立」
上洛が、決まった。
その次第が、話し合われた。
義昭は、上杉謙信へ上洛を伝えた。
先ずは、移座。
「近日発足候」
美濃へ。
入洛の儀につきて、信長、厳重に言上、
先ず、濃州に至り御座を移さるべきの由申すの間、、
朝倉義景も忠節を尽くす覚悟でいるから、
その方(謙信)も協力せよ。
義景、弥(いよいよ)別儀なく、無二の覚悟に候、
各(おのおの)、申し談じ、馳走、偏(ひとえ)に頼む思し召しに候、
具(つぶさ)に、智光院申すべく候也、
七月十二日 (花押)
上杉弾正少弼とのへ
(包紙ウハ書)
「上杉弾正少弼とのへ」
(「上杉家文書」)
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