本能寺の変1582 【重史82】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史082】 「上杉家文書」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説 目次中
1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩
5志向の相違 +信長の油断
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
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【重史082】 そ第20話②
①公儀御家督、相定まり候間、先ず以って珍重に存じ候、
②其れに就きて、当国の人数も出勢あるべき由に候、
「上杉家文書」
永禄八年1565
大覚寺義俊が、上杉の窓口だった。 →【 人物 】
義俊は、真言宗大覚寺門跡。
関白近衛尚通の子。
稙通の弟。
義昭にとっては、母方の叔父にあたる。
謙信との親交が濃密であった。
松永久秀が、監視役。
朝倉義景が、交渉人。
以下は、義俊の副状である。
これによれば、松永久秀が覚慶(義昭)を幽閉していた。
これに対して、開放すべく交渉したのが朝倉義景であった。
急度、注進申し候、
一乗院殿南都御座所の儀、
御番を居え候て松永堅く申し付け候へども、
朝倉左衛門督直談せしめ、種々調略を廻らし、
去る廿8日、甲賀和田の城に至り引き退かれ候、
大覚寺義俊は、謙信の出勢を期待していた。
公儀御家督、相定まり候間、先ず以って珍重に存じ候、
其れに就きて、当国の人数も出勢あるべき由に候、
丹波の赤井直正。
また、丹波では。
これに連動して、三好方と反三好方の間に戦いがあった。
赤井直正は、反三好。
内藤宗勝(松永久秀の弟)を討ち取った、とある。
将又(はたまた)、丹州の儀も、
去る二日、奥郡荻野惣右衛門尉(直正)手前に於いて、
内藤備前守(宗勝)其の外七百余人討ち捕り候、
一国平均に成り申し候間、此の砌(みぎり)御出張有るべく候条、
直正は、後に、光秀の宿敵となる男。
これについては、後述する。
大覚寺義俊は、上杉に傾斜していく。
「三度目の上洛」
重ねて、謙信の支援を乞うた。
早々御上洛の儀、待ち奉り候、
是非とも御才覚を以て、御当家御再興此の時に候、
偏に仰ぐ所に候、
仍って、扇子十本進献せしめ、賀儀を表す計りに候、
猶、祐阿(水原)申し入るべく候間、再筆能わず候、
穴かしこ々々々々、
八月五日 (花押)
上杉弾正少弼(謙信)殿
(「上杉家文書」)
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