鋼の夜 1

【あらすじ】東横線大倉山駅に住む男の仕事はフリーランスの映像編集。ある朝、刑期を終えた友人、土井と共に一人の若者と接触する。男が受け取った小包の中身について、それは自分が撮ったものだと話す。小包の中は椅子に拘束された人質女性の映像が入っていた。背景に映る火山から、どうやら北欧アイスランドで収録したものらしい。その後、3人で大倉山公園へと向かい、映像について知る男と待ち合わせをする。翌日、土井は射殺体として発見される。
男は編集技師の技で解決しようと、もう一度CDRを再生。やがて映像がフェイクであることに気付く……。

 レイキャビクの街に詳しい。
 こう宣言すると、火山について講義をしてくれとメールが来る。日に一通、多い時は二通来る。日本から遠い島の、遠い街の様子に関心を持つ層は、決まって熱い岩肌に魅せられた人々に違いない。古くから炎と岩と氷で支配する世にも美しい国。洋楽好きにはビョークの生まれ故郷と言った方がいい。ミュージックビデオでロボット同士のキスに目を留めたことがある。決して馴染みのない異国ではなかった。
 火山が観光気分の足を止め、火の粉を撒き散らす。どんな肌の色も真っ青になる。アイスランドからの知らせは、その夏突然やって来た。
 仕事について話そう。撮り終えた映画の映像を受け取り、自宅で編集をしている。報酬は監督と均等。これが引き受ける条件だ。あるプロデューサーは難色を示し、また別のプロデューサーは快く渡してくれる。
 個人のポストプロダクションは撮影部の声より小さいなど、ただの都市伝説に過ぎない。
 監督によっては勝手にいじることを許さない者もいる。ポール・バーホーヴェンのように編集技師に任せる寛容な人もいる。前者は王様、後者は勇者だと思う。 
 俺が映像を切らない限り公開も完成も遠のく。だが制作全般の舵を取ろうとは思わない。ただこの仕事に肌が合うのは事実だ。毎日、見えない鋏で余計な場面を裂く。監督が残したい部分であってもだ。一端のエディターとして、駅から駅へ転々として来た。要は机とPCがあれば何とかなる稼業だった。
 ある朝、見慣れない小包が届いた。
 中身は一枚のCDRだった。差出人の名はない。
 レイキャビクに詳しいと講義依頼が押し寄せる、など冗談に決まっている。
 当時住んでいたマンションは、横浜市で最も人が多い地区にあった。七月の下旬、猛烈な日差しが駅前の通りを照らしていた。
 前の晩から妙な胸騒ぎを覚え、何度も水を飲み干した。 
 始発のアナウンスで目が覚めた。閉め切った遮光カーテンの向こう、坂道を隔てた駅に電車が入る。引っ越した当初は何もかもが耳触りだった。
 駅から徒歩一分圏内。電車の窓から目と鼻の先に位置していた。五階建て、オートロックの単身向け。おそらく急な転勤には最適の家だった。
 廊下は薄暗く、住民の誰もが互いの顔を知らない。ただ右隣のパン屋で朝食を買うわずかな時間、すれ違うこともある。年金生活者、会社勤め、学生、ごく例外のフリーランス。駅にムショ帰りの男を待つ俺のような者もいる。
 歩くだけで汗が出るくらいだった。幸い替えのシャツは数枚ある。革靴を汚したまま町に繰り出すほど無神経ではない。狭い玄関でよく磨き、自動ドアを通過したのは午前十時過ぎ。大倉山駅はラッシュ時が過ぎても人が途絶えることはなかった。次の駅、急行綱島で降りる客足が終電まで続く。尤も片田舎で育った俺の目には関東のどの駅も広く映る。ここ東急東横線の途中も例外ではなかった。
 横浜に移り住んで数年は経過していたが、港の方角で何が起こっているか、案外気付かないまま過ごしている。ランドマークタワー付近で誰が歩こうが、レンガ街で誰が歩こうが、長閑な各停駅には無縁だ。
 引っ越した当初は毎朝の人の数に戸惑った。とても各停とは思えなかったこの街も、一応自分の街だと覚えるようになった。不思議と駅に向かう足音に不快感を覚えなくなったせいだ。 
 マンションから出て、すぐに坂道を降りる。何度か後ろの公園方面から普通車のクラクションを食らったことがある。部屋から出たばかりの人間に一体何を警告してるのか。
 俺が駆け足で詰め寄ると、明らかにまずいと言った目で走り去ったのを覚えている。所詮、鉄に乗った小心者だろう。クラクションが坂道名物なら、とうの昔に人は去っている。
 ちょうど坂の位置と三階の窓は平行線だった。家賃の安さは騒音という名のシード権を連れて来た。事実、隣の部屋の女子は三日ほどで引っ越している。カーテンがなければ、ほぼ地獄に近い。坂道を行きかう視線がまるで部屋の住人を見下したように見える。そろそろ嫌気が差した。大体、人が選ばないような部屋に妥協して住んでいること自体が嫌だった。
 収入面を考えて選んだゆえ、様々な出来事が降り掛かることになった。
 迎えに行く日が来るとは正直思わなかった。高い塀を飛び越え、夏の陽気を嗅ぐ姿などとても想像できなかった。
「ガーリックパン、食うか」
 俺は言った。
 あいつは何も言わず片手だけを上げた。上下とも黒のアディダスジャージに、坊主頭。相も変わらず薄い眉毛と虚ろな目に、誰が親しみを覚えるのか。
「最初に食べたいものってパンだと思ったんだよ。とびきりの贅沢だ。あの店、行列付いてるけど」
 俺たちは特に会話もないまま坂を上がった。左手のケンタッキー・フライド・チキン、ダイソー、学習塾、パン屋。今朝のシャバは変わらず軒を連ねている。
 その店、トツゼンベーカーズキッチンは評判の焼き具合に加え、立地もいい。
 俺たちはガラスの奥の賑わう店内を眺めた。
「マンションの住人、ほぼ全員客じゃないか」
「俺が来た日も行列あったよな、確かに」
「ああ。お前さんが夜中にパトカー呼び寄せた日だろ。被害者の数、五人の凄み」