部屋に差し込む夕日の斜光…ドストエフスキー的救済表現に注目「カラマーゾフを読む」(44)
部屋に差し込む夕日の斜光…ドストエフスキー的救済表現に注目「カラマーゾフを読む」(44)
第六編 ロシアの修道僧 二(A)ゾシマ長老の若い兄
ここからはアリョーシャの聞き書きという形でゾシマの生涯や教えが語られていきます。
ドストエフスキーがなぜこのような一風変わった書き方をしたのかというのも実は重要です。
作家にとって物語の語り手をどうするかというのは最大級の問題であります。物語の主人公の一人称語りにするのか、それとも筆者として三人称視点で全てを見通すスタイルで書くのか、これだけでもとてつもない違いです。
ここでアリョーシャの視点でゾシマの生涯を語らせたのは実に慧眼だったと私も思います。まさにこれしかないという見事さです。もしこれをこれまで通りの筆者視点で記していたならば、アリョーシャの反応やその他の人間の反応などもどうしても入れなければならなかったでしょう。仮にそうしなかったとしてもどこか作為的な不自然な語りになっていたのではないかと思います。
つまり、アリョーシャの聞き書きという形を取ったことで私たち読者も素直にゾシマの話に没入できるようになったのです。
こうした細かい設定からもドストエフスキーの小説技法の巧みさを感じることができます。ドストエフスキー最晩年のいぶし銀の技をたっぷり味わいましょう。
さて、本章では若きゾシマに決定的な影響を与えた兄について語られます。
ゾシマの兄マルケルは病気で若くして亡くなってしまいました。
しかしその兄の最期の生き様があまりに強烈だったのでした。信仰など全くなかったはずの兄が突然深い信仰に目覚めたのです。
彼は言います。
人生は楽園なんです。僕たちはみんな楽園にいるのに、それを知ろうとしないんですよ。
僕の血潮であるやさしいお母さん、本当に人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。
このような突飛とも言える彼の言葉に、周囲の人は困惑してしまいました。
たしかにいきなりこのようなことを言われても驚いてしまいますよね。ただ、彼にとっては本当にそうとしか言えない何かがあったのです。
私もこれを初めて読んだ20歳の冬にはそれほどピンとは来ていませんでした。ですがその数年後、大学院で親鸞思想の研究に本格的に取り組んでからようやくこの言葉の重大さに気づきました。
なんと、親鸞も上のような信仰を持っていた節があるのです。
親鸞は自己の罪悪深重なることを深く自覚していた仏教者でした。これは実際に自分が罪を犯したとか、悪いことをしたとかそういうことではなく、人間という存在そのものが悪を抱えながら生きざるをえないという自覚です。これを浄土真宗用語で「機の深信」といいます。
そしてその罪悪深重の自覚の上に阿弥陀仏の救いが実感されるというのが「法の深信」というものになります。
これら「機の深信」「法の深信」が一体となるところに救済があると主著の『教行信証』で述べられているのです。
これをさらにざっくりというならば、「自己の愚かさ、小ささを深く実感したところに、世界の大きさ、阿弥陀仏の救いの偉大さが感じられる」ということになります。
人間、誰しも人から良く見られたい、大きく見られたいと願うものです。しかし、そうした思いから離れ、自分こそこの世で最も愚かな人間であったと心から深く悔いたとき、世界の見え方ががらっと変わるのです。これが親鸞の言わんとしていたことでした。
いかがでしょう。マルケルの言っていたこととかなり似ていますよね。
もちろん、ロシア正教と浄土真宗は全く違う宗教ではありますが、人間存在の究極的なところでは似通う部分もあるのではないかと私は思うのです。
そしてマルケルとゾシマの二人に決定的なやりとりがあったその瞬間は非常に重要です。
ゾシマを見つめ「僕の代わりに生きておくれ!」と言ったあの瞬間です。
皆さんはこのシーンがどのような時刻に演じられたか覚えておりますでしょうか。
そうです。夕方です。
しかも決定的なその瞬間、太陽が沈みかけ、夕日の斜光が部屋を照らしていました。これがドストエフスキー文学において決定的に重要なパターンなのです。
ドストエフスキーは作中人物に決定的な救済が起こる時、夕日の斜光を舞台に差し込ませることを好みます。
これは彼が愛したクロード・ロランの絵画からもその影響を見て取れます。

こちらは『悪霊』や『未成年』にも巨大な影響を与えた『アキスとガラテイア』という作品なのですが、ルーブル美術館所蔵の次の絵画を見て頂ければさらにその夕日感を感じることができます。

ドストエフスキーは夕日の斜光にこの上ない何かを感じ取っていた作家でした。この夕日への愛ということについても私は法然、親鸞の浄土信仰を重ねてしまいます。
仏教では一般的に悟りを開く瞬間は「明けの明星」に託して語られることが多いです。修行によって長い暗闇の世界から覚めていくというイメージですね。
それに対し、浄土信仰では西に沈む夕日に阿弥陀仏の世界を重ね、礼拝するイメージがあります。死後のお浄土の世界を沈みゆく夕日に仮託するのです。
この「明けの明星」と「沈みゆく夕日」の対比は私にとっても非常に興味深いものがあります。それぞれの仏教観が如実に表れるのがこの両者なのです。
そしてドストエフスキーも夕日を好んだ作家でした。しかも部屋に差し込むオレンジ色の夕日の斜光にとことんこだわったのがドストエフスキーです。そこに宗教的な感覚だけでなく、美的なものも感じていたのでしょう。
いずれにせよ、マルケルが弟ゾシマに託した最後の思いを託したこの場面で夕日の斜光が差し込んでいたことは非常に重要です。ドストエフスキー文学の肝としてぜひ記憶にとどめて頂きたいポイントであると私は信じています。
続く
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