人間にとって、親の家ですごした幼年時代の思い出ほど尊いものはない「カラマーゾフを読む」(45)
人間にとって、親の家ですごした幼年時代の思い出ほど尊いものはない「カラマーゾフを読む」(45)
第六編 ロシアの修道僧 二(B)ゾシマ長老の人生における聖書
この章ではゾシマ長老の信仰の核心が説かれます。ゾシマが聖書をどのように理解しているのか、またどのような書物として私達が受け取るべきかが語られます。
つまり、この章はゾシマとは何者かを考える上で非常に重要な箇所となります。
キリスト教の知識がない方には少し厳しい箇所かもしれませんが、ドストエフスキーもそこは配慮してくれています。この章ではそこまで専門的な教義などは書かれていません。あくまで一般読者でも理解できる範囲の聖書の話をしています。これはゾシマが難解な神学ではなく、人々と共に生きる信仰を選んだからでもありましょう。
さて、本章でまず目に留まるのが次の言葉です。
わたしが親の家から持って出たものは、尊い思い出だけだった。なぜなら人間にとって、親の家ですごした幼年時代の思い出ほど尊いものはないからだ。家庭内にたとえほんの少しでも愛と結びつきがありさえすれば、ほとんど常にそうだと言ってよい。どんなにひどい家庭でも、こちらの心が尊いものを求める力さえあるなら、尊い思い出がそっくり残ることはありうるのだ。
「人間にとって、親の家ですごした幼年時代の思い出ほど尊いものはない」
この言葉はぜひ覚えておきましょう。後の展開に非常に大きな展開を与える言葉です。
そしてこの直後の次の言葉も重要です。
この家庭の思い出に加えてわたしは、親の家にいたころ、まだ子供ではあったが、ひどく知識欲をそそられた聖書物語の思い出もあげておきたい。当時わたしは、美しい挿絵のたくさん入った『旧・新約聖書の百四の物語』(訳注 ドストエフスキーはこの本で読み方を学んだ)という表題の本を持っており、読み方の勉強をしたのもこの本によってだった。その本は今もここの書棚にあるし、大切な思い出として大事にしまっている。
ここはある種ドストエフスキーの自伝的な内容とも言えましょう。ドストエフスキーもまさにゾシマと同じように聖書と親しんでいたのです。
そしてゾシマはさらに教会での感動体験についても語りますが、ドストエフスキーもこうした幼い頃の美しい思い出を胸に抱いて生きていたのではないでしょうか。
また、この直後から『ヨブ記』について語られていくのですが、この『ヨブ記』の重要性については以前も紹介した通りです。ドストエフスキーはこの物語に非常に強い関心を示していました。
『ヨブ記』がどのような物語なのかをここで解説するのは私の手に余りますのでぜひこの章を熟読して頂きたいのですが、ゾシマの次の言葉はぜひ注目したいです。
神はヨブをふたたび立ち直らせ、あらためて富を授けるのだ。ふたたび多くの歳月が流れ、彼にはすでに新しい、別の子供たちがいて、彼はその子供たちを愛している。だが、「前の子供たちがいないというのに、前の子供たちを奪われたというのに、どうして新しい子供たちを愛したりできるだろう?どんなに新しい子供たちがかわいいにせよ、その子たちといっしょにいて、はたして以前のように完全に幸福になれるものだろうか?」という気がしたものだ。だが、それができるのだ、できるのである。古い悲しみは人の世の偉大な神秘によって、しだいに静かな感動の喜びに変ってゆく。沸きたつ若い血潮に代って、柔和な澄みきった老年が訪れる。私は今も毎日日の出を祝福しているし、私の心は前と同じように朝日に歌いかけてはいるが、それでも今ではもう、むしろ夕日を、夕日の長い斜光を愛し、その斜光とともに、長い祝福された人生の中の、静かな和やかな感動的な思い出を、なつかしい人々の面影を愛している。それらすべての上に、感動させ、若いさせ、すべてを赦す、神の真実があるのだ!
これは上巻の「第二編 場違いな会合 三 信者の農夫たち」の子を失った母親に対してのゾシマの説法と対応する箇所になっています。こうした背景があってのゾシマの説法だったのですね。
そしてここでもやはり出てきました。夕日の斜光への愛です。やはりこれはキーワードになりそうです。
ゾシマの信仰を考える上でもこの章で語られたことは非常に重要なものとなりますのでぜひじっくり読んで頂けたらと思います。
また、ゾシマはこの直後にロシアの田舎の司祭たちが収入の少なさ故に苦しんでいることを指摘していますが、たしかにこの当時の田舎の司祭は本当に悲惨な境遇だったのです。
実際、私も『十九世紀ロシア農村司祭の生活』という本を読み度肝を抜かれました。著者のI・S・ベーリュスチン(1820年頃~1890)はロシア正教の司祭の家庭に生まれ、自身も司祭職に就きました。その彼が農村司祭の実態を告発したのがこの本になります。
この本はとにかく強烈です。ロシアの農村の教会がここまでひどい状況にあったのかと目を疑いたくなってきます。司祭が置かれた立場があまりに気の毒で、ゾシマは「それでもしっかりしなさい」とはっぱをかけますが、「それは厳しいのではないか・・・」と私は思わずにはいれません。経済的な問題もさることながら、地方ならでは慣習的な問題も大きいのです・・・。
ゾシマの言うように、ほんのわずかでも時間があれば勉強は可能ですし、布教も可能です。ですが、それをはたして実行できるかというと、よほどの人物でなければ心が折れるだろうなと思います。正直、これは他人事ではありませんでした。日本の仏教界もある意味こうした問題を抱えています。過疎によって地方の寺の存続が危ぶまれ、そもそも後継者もいないという状況に私たち僧侶も頭を抱えています。
ゾシマからのはっぱはまさしく私へのはっぱでもあります。私は私なりに宗教者としてやるべきことをやろうと、今ここにいます。ゾシマの言葉は全く他人事ではありません・・・。
この章は短いながらもゾシマの思いを知れる重要な章となっています。ぜひじっくり味わって頂けたらと思います。
続く
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