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【短編小説】比翼連理のプロンプト(下)|わたし、これいじょう、まてない!【8,800字】


羨望と恋慕に悶絶する乙女

 広葉樹の林に囲まれた「エール・コンジュゲ」は、どこかの会社が社長用保養施設として建てたものだった。半径数百メートルに人家はない。
 その法人が経営破綻し清算される直前、水原夫妻は妻のリサーチ力と夫のコネを駆使し、格安で買い取ったのだった。

 贅をつくして建てられただけあり、部屋数は十分にある。扉を閉めれば外の音などほぼ聞こえない快適な空間で、高校2年生の紗希はとても満足していた。

 年頃の少女ということもあり、彼女に割り当てられたのは夫妻の寝室から最も遠い、対角線上にある部屋だった。

 大卒の資格だけは持っておいても損はないと、峻と栞に勧められるまま、慎一郎と二人、同じ通信制の大学で学ぶことにした。
 だから、高校卒業して従業員になったとは言え、当初の約束通り学業を優先させてもらえた。
 本格的な指導は大卒相当後、22歳になってからということなのだろう。

 19歳になった紗希の不満というか、悩みの種はやはりリアル女神だった。

(不満とかじゃない……奥様があまりにもあっけらかんとしているのが、目の毒、鼻の毒、耳の毒なの!!!

(……一緒にお風呂にはいったら、全裸の奥様のボンッ!キュッ!ボンッ!がすごいんだ!……そして、発散されるフェロモン!これがまた、とんでもなく甘くて濃厚で凶悪!クラクラしちゃう……のぼせちゃう……あぁあ)

「そういえば、新城くんの職場体験のとき、女の子に頼まれて、胸を直に見せたことがあったわ」

(そいつの名前は、浅倉 由芽(あさくら ゆめ)って腐った女子です!今でも『奥様情報カモーン』とか言ってきます。……画像や音声データは送ってませんから!)

「私が服をまくり上げて、その娘に『ほら、フロントのホックを外してみなさい』って言ったら、震える手でホックを外して、目を真ん丸にして、トマトみたいな顔になってた。触っていいって言ったら、随分熱心に触ってた。主人以外に触ったらいけないところも摘まむし、匂いを嗅いで深呼吸してたわ」

(ゆ、ユメ~!何やってんのよ!?変態じゃないのぉー!)

「尋ねられるまま、身長171cm、体重秘密、B95W63H96とか、愛の頻度も教えてあげちゃった!……今は週2回」
「……夫とは26歳のときにアダルトな関係になって、32歳当時は7年目だから、育児期間を考慮して、最低でも1,600回くらい愛し合ったって答えたんだけど……彼を『知った』後は、すっかり二匹のお猿さんになって、徹夜で愛し合っていたから、本当のところは分からない……今は最低2,200回くらい(週2回×毎回3エクスタシー(夫)×52週/年×約7年)になったかな……あら、紗希ちゃん、鼻血出てるわよ」

(……もう止めてーっ!!毎回3エクスタシー(夫)って何?……あっそうか!奥様のエクスタシーはカウント不能だから、旦那様でカウントしてるんだわ!……若い頃は徹夜?……あわわわ下手すると、深夜はずっと昇天したままだったんですか?……奥様……マジ女神)


 ……紗希は思い出していた。
 この家に入居したばかりの、高校2年生のあの頃を。

夜な夜な耳をかすめる、甘く切ない声……あざとく鳴く猫のような声!……いけないと分かっていても、つい……)

 32歳の妻を35歳の夫が深く愛でる寝室の扉は、重々しく閉ざされている。
 鈍感な慎一郎なら「気のせいじゃない?」と一言言って熟睡してしまうだろう。
 だが、紗希の感性はあまりに過敏だった。静寂の森に囲まれたベランダで夜風を浴びていると、気配となって外まで漏れてくるのだ。ほんの微かな、熱を帯びた声が。

(切なくて、何かに耐えているような、『あ行』と『は行』の甘い声)

(……顔だけじゃなく、お腹の奥のほうがジンジン熱い。吸い寄せられるように夫妻の寝室の扉の前まで行ってしまった。そして、聞いてしまった)

「……はぁ~っ!ん、ん、んむ、んちゅ……っ!……はぁ…ひゃん!……あぁー、あ、あん……っ(じゅちゅ、ぴちゃ)」

 ……奥様の口を舌ごと塞いで、唾液を貪り合ってるの?
 低く掠れた声で何かを囁く旦那様。
 分厚い絨毯を打つような、「ヴォン!ヴォン!」という衝撃音が何度も響いて、声を出すことすらできずにひくひくとすすり泣く奥様。そのあとの、甘く蕩けきった深い溜息。そして、耳元で密やかに漏らした艶っぽい笑い。

 どういう訳なのか、奥様の声は鮮明に聞き分けられる。

「私ばっかり鳴かせて!今度は私の番だから。あなたが鳴くまで止めてあげないから!」
 また、水滴を擦りつけるような音が密やかに続いたかと思ったら、「ジュルッ、ジュル……」と密着した素肌を力強く啜る生々しい音が響いた。
 吸引音が止むと、シーツを擦る手足のもつれ合う音がした。
 そして、汗ばんだ素肌が打ち合わさる規則的な音と、淫らに濡れそぼる音が交互に耳にへばりついてきた。

「……峻は仰向けのまま!……私が上になるから、あとは……ま、か、せ、て。鳴いていいよ。妻相手に遠慮しちゃ、だ、め。……困ったその顔、いじめたくなっちゃう……」

 男性の喉の奥から絞り出される、甘く湿った苦悶に耐える声。

 そして……。
「いけない旦那様。一人で天国に行っちゃ、だ、め。罰ゲーム続行。再起動してあげる」

 膝の力が抜けちゃって、立っていられない。自分でも引くくらい、下着がぐっしょり濡れているのが分かった。
 猫みたいに地べたを這って、自分の部屋に逃げ帰るのが精いっぱい。
 脳内でえっちな映像が勝手に4K画質で再生されて、全身にヤバい毒が回っていく。

(……防音ドアのはずなのに、なんで!? 空調の配管のせい?施工業者出てきなさいよ!……私、嫁入り前なの!バージンなの!……刺激強すぎ……)

 高校生だった頃から、ずっと悶々とした日々が続いた。今も。……

 そんなある日、気付いた。
 「猫の鳴き声」がする夜は、必ず奥様が髪を結い上げているのだ。

(どこまでも実践的だわ。だけど、3人も子供が居るのに……お盛ん過ぎでしょ!)
(また、声が聞こえてくる……気になって、眠れなくて、仕方なく、つい……夫婦の寝室の前で聞き耳を立ててしまう……)


 紗希のオブラートに包まれた悩みを聞き、慎一郎は安眠用のノイズキャンセリングヘッドホンを贈った。

 だが紗希は、昔からこっそり録音していた「慎一郎の声」をフルパワーで堪能するためにそれを使ったのだった。

La Nuit de Noces Offerte(ラ・ニュイ・ドゥ・ノス・オフェルト)ーー贈られた初夜

 紗希は明朗快活で、根っから真面目な女子だ。
 大学の課題に真剣に向きあい、慎一郎と切磋琢磨していた。

 しかし、紗希は栞の毒が全身に回っているため、彼と一緒に居るとき「渇き」と「分泌液」に悩まされていた。高校2年生のときから、ずっとだ。

 慎一郎がクンクンと鼻を鳴らして、「あれ?おやつはフルーツ?」などと言うと、紗希は耳まで赤くなり俯いていた。

 冬のある日、紗希が勇気を出して慎一郎に手を伸ばしたとき、栞がココアを持ってきた。

(ちょ!なんでこのタイミング?見てたの?)

 素知らぬ顔で、栞は二人に告げた。

「……仕事と旅行を兼ねて、1月16日から7泊8日で、フランスやドイツに行ってきます」

「奥様、それでは事務所は施錠して完全シャットアウトするのですか?律くんたちは?」

(えー、絶対に嫌!……実家なんかに帰りたくない。就活全滅・資格試験全滅の亜希姉が居るところなんて。出来ることなら結希を呼びたい。……シンちゃんは通いだし。シンちゃんが居ると心強いのに……それに……)

「子どもたちはシッターさんが居るから心配要らないわ。キッズホテルを予約済みだし」
「それはそれとして、二人への社長からの伝言」

 紗希と慎一郎は栞に正対して、聴く姿勢をとった。

「新城さんは社長と私の不在中、ここに泊まり込むこと。家電、家具や食器については、佐久間さんの指示と引き継ぎによって使うこと」

「佐久間さんは住み込みでいつも頑張ってくれるから、留守中は自由行動!旅行しても帰省してもいい。ここに留まって、妹さんや友達を呼んでもいい。ただし、ここを離れるなら、新城さんが困らないよう、引継書を作って、きちんと引き継ぐこと」

「まだ二人とも学生だから、仕事の方は心配しないでよろしい」

「何かあっても、予備電源が3日程度は持つでしょうし」



 「慎一郎が宿直する」と聞かされた瞬間、紗希の心は決まった。
(お留守番する!一択!)

 入居して間もない頃、初めて夕食に招かれた日のことを、彼女は今も忘れない。

……「双子たちが『サキおねーちゃんといっしょ』ってうるさくて。助けてくれない?晩御飯を一緒に食べて欲しいんだけど……お願いできないかしら」
 そう微笑む栞に誘われた水原家の食卓は、紗希が喉から手が出るほど欲しかった「明るくて平穏な家庭」そのものだった。

 三食をともに囲み、シッターが帰ったあとの末っ子をあやしながらエプロン姿で台所に立ち、子供たちと戯れる——そんな日常に馴染むまで、時間はかからなかった。

 部屋のユニットバスにも、もう戻れそうにない。
 「広いお風呂、遠慮なく使ってね」という栞の言葉に甘え、足を伸ばして湯船に浸かったあの日から、紗希の居場所は完全にここになっていた。……


 一方、慎一郎は母親から「慎一郎、紗希ちゃんを泣かせたら縁切り。嫁にしたら大歓迎!」と言われた。慎一郎は「母さんがそう思っても、サキちゃんにしか決められないことでしょ?」と笑って応じた。

 慎一郎の卒業と入れ違いに女子高生になった彩乃が、「兄ちゃん!それって、紗希姉が『OK!』か『Please!』って言えば、『GO!』ってことじゃん。……『お義姉ちゃん』って呼びたーい。紗希姉、次はいつお泊まりに来るの?早く連れてきてよ」と言った。

 慎一郎は「先週も泊まったろ?普通に『お姉ちゃん』って呼べよ。喜ぶから」と返した。

 彼もまた水原 峻と同様、「まさか、そんなはずないよ」と油断していた。
 峻はその油断を栞に突かれ、一挙に崩れ去った。朽ち果てた木のように。

 違いがあるとすれば、峻と栞が同じ会社の違うセクションの社員だったことと、慎一郎と紗希はほぼ生まれながらに付き合いがある同級生という、関係性だろうか。

 慎一郎と紗希はお互い、相手のことをよく知っている。
 未知の部分はもちろんあるが、泥臭い擦り合せ等は不要であった。

 しかし……。

 社長夫妻が出発する前、慎一郎は真剣な顔で紗希に尋ねた。

「……サキちゃん、お風呂の順番とかこだわりある? 俺、妹から『湯船禁止令』出されたトラウマがあってさ。俺はシャワーだけでもいいし」

 慎一郎のどこまでも大真面目な顔に、紗希は吹き出しそうになった。 (……彩乃ちゃんのトラウマのせいで私にまで気を遣ってたの!?)
「私、シンちゃんの前でも後でも、全〜然気にしないよ?」
「本当? 彩乃より寛大すぎる……じゃあ、俺が先に入る」

「どうして?」
「サキちゃんが浸かったあとのお湯に入るの、なんか意識しちゃって無理」
 慎一郎の謎の葛藤に、紗希はおかしくてたまらなくなった。
「私も彩乃ちゃんと同じ成分でできた女子だよ!どっちでもいいよ! 私はご飯作るから、シンちゃんが先に入って!」
 紗希は久しぶりに爆音で大笑いした。


 

一日目

 打ち合わせもなしに、料理とおやつは紗希、掃除と洗濯は慎一郎、買出しは二人で──と役割が決まった。
 慎一郎は確認も挟まずサクサク家事をこなし、手隙の方が助け合う、まるでビジネスのように完璧な連携だった。

 昔から新城家で紗希の手料理を食べていた慎一郎。
 「褒めろ!」という母と妹のツッコミにも、「母さんの味と変わらない」と素で返すほど彼女の味は馴染んでいた。
 今回も夕食をペロリと平らげる彼に、紗希は満面の笑みを向ける。

「慎一郎さん! 作り甲斐有り過ぎ!」

 気持ちいいほどの慎一郎の食べっぷりに、紗希は背筋がゾクゾクするほどの歓喜を覚えていた。
 昔から新城家に遊びに行っていた紗希だが、彼の家事姿は見たことがない。来訪時限定で「慎一郎は紗希ちゃん専属」として免除されていたからだ。
 自分が主導権を握り、手とり足とり教えてあげる気満々だったのだが──。

(ちょっと慎一郎!『佐久間さんの指示に従うこと』って奥様に言われたでしょ!? 私の立場がないじゃない……もおっ!)

 ──そんな不満とは裏腹に、想像を超える「スパダリ」な手際で見事に甘やかされ、顔をふにゃふにゃに崩してしまう紗希だった。

 一方、慎一郎のスマホには、栞からのメッセージが届いていた。

「7泊8日の間、佐久間さんのことを一切否定しないこと。すべて肯定すること。佐久間さんのすべてを受けいれること。何をされても黙って従うこと。了解した?」

(了解したとしか返せねえよ!)

 慎一郎の宿泊室は紗希の部屋の向かいに用意されていたが、完璧に整えられた、きれいなベッドを汚したくなくて、数枚の毛布と掛け布団をリビングに持ち込んで、ソファの上で寝ていた。

二日目

 洗濯は若者二人しか居ないから、2日に1回。
 風呂上がりの紗希が、洗濯機のスイッチをオンにした。

 紗希が夕食の片付けをしている間に、慎一郎が洗濯物を干そうとした。

 紗希の耳に、慎一郎が彼女を呼ぶ声が届いた。
「サキちゃーん」
「はーい」
 そう言って、タオルで手を拭きながら、洗濯機のところに行くと、慎一郎が「それ」を持って立ち尽くしていた。

 その手には、真紅のショーツとブラジャーが握られていた。布面積小さめだった。

 彼は真顔で尋ねた。
「サキちゃん、どういうリアクションをするのが正解?教えて」
 そして質問を追加した。
「まさか、奥様の真似?狙いは何?」

 紗希はその場から逃げて、キッチンから叫んだ。
「黙って干してー!」

 紗希は聞いた。ベランダで干している慎一郎の笑い声を。
 彼の笑い声を聞くことはめずらしい。さっきのことがあるので、角をはやしながら慎一郎のところに駆けていった。

 既に作業は完了していて、「それ」はバスタオルの影に隠すように、ちょこんと干されていた。

 慎一郎は紗希を見た。優しく笑ったままの瞳で、こう言った。
「かわいいから何だって許す!」

 一瞬、呼吸が止まった。
 目の前の慎一郎は、見たこともないほど柔らかく、優しく笑っていた。

(……な、なになになに!? 今の反則! )
 赤面が顔全体に広がり、耳まで熱くなる。
 紗希は角を引っ込めると、そのまま慎一郎の胸にぽすんと頭を預けようとした。ポカポカと小さな拳で彼の胸を叩く算段も整った。

「……バカ! 恥ずかしいこと真顔で言わないでよ……っ! 狙いは何?とか野暮なこと言ったくせに!」
「かわいらしさの演出でしょ?そう思った心も込みで、あーかわいい!両親や妹が嫁に欲しがるわけだ。健気すぎて、脳の処理が追っつかなくてさ、笑うしかなかった。悪気なんてない。気を悪くさせたら、ごめんね」

 そう言って、紗希に正対して頭を下げた。
 ベランダから出ようとする慎一郎の服の裾を、紗希はぎゅっと掴んだ。
 そして、上目遣いで彼を睨みつけた。
 ……それだけだった。
 言葉が出てこない。
 マシンガンのマガジンがジャムった。

「寒いから部屋に入ろう」
 そう言って、慎一郎は右手で、紗希の正面から左肩をポンポンとたたいて促して、そのまま下りていった。

(……紗希、ドアを開けて招いているのに、どうして入らない?……その手をつかんで招き入れたいのはやまやまだけど……やっぱり、俺の自惚れってことだよね……)

(慎一郎!そのまま抱き締めてよ!……私が飛び込むべきだった?……私は姉みたいなビッチじゃない!……だけど……じれったい!……もうぅ!)

 三日目から四日目。
 二人は決められた日課のように、大学の課題を一緒にしていた。
 慎一郎の側に居ると、紗希は呼吸が浅くなり、胸が苦しかった。
 だから、彼が居るとき、彼女は意図的に深く呼吸をしていた。

(サキちゃん、なんのかんの言って、自分の部屋に戻らない。……まさか、まさかねえ……どうなんでしょ)

五日目

 朝から熱っぽい紗希を宥め、慎一郎は彼女を抱え上げるようにベッドへ運んだ。
 彼の首元に回された紗希の腕はなかなか離れず、横たえてもなお、彼女はそう簡単に部屋から出してくれそうにない。

 風邪の症状はなく、体温は36.8℃。
 ただ妖しい熱っぽさだけが残っている。

「何でもいいから、お話をして」

 甘える声に押し切られ、リビングから水原夫妻の子供たちの絵本を十冊ほど抱えて戻った。
 「シンデレラ」「眠り姫」……王道が並ぶ中に、なぜか「安珍清姫」が混ざっていた。

(これ、子供向けか……?)

 請われるまま次々と読み進めるうち、ついに「安珍清姫」の番が来てしまった。

(……待て。今のサキちゃんにこれを聴かせるのは、絶対にマズい)

「次! ねえ、早く次!」

 あざとい声で催促する彼女を盗み見る。
……お願いだからいつもの清純派に戻ってほしい。……

(絶対マズい。安珍は女から逃げ出して鐘ごと焼き殺されるんだぞ。今俺が逃げ出したら、焼き殺されるのは俺だ……!)

 ベッドの紗希は熱い息を吐きながら、彼の袖を掴んで離さない。
 上目遣いの潤んだ瞳がじっと捉えてくる。

「全文を丁寧に、情感を込めて読んで!」

 逃げ場はない。慎一郎は全力で応えるしかなかった。

「むかし、むかし。あるところに安珍という、とてもまじめで男前なお坊さまがいました——」

 ひらがな混じりの文言を必死に読む彼を、紗希はじっと見つめている。
 一見満足気な瞳の奥には、一切の逃亡を許さない深い光が宿っていた。

「……ねえ、慎一郎さん」

「な、なに……?」

「私ね、嘘をついて逃げる男の人は、嫌い」

「……絶対に、逃げません」

 慎一郎が即答すると、紗希は満足そうに「ふふっ」と微笑み、ぎゅっと袖を握っていた手を離した。

「よし! そろそろ夕飯の支度しなきゃ!」

 さっきまでの熱っぽさが嘘だったかのように、紗希はベッドからパッと跳ね起きると、元気よく腕をまくって部屋を飛び出していった。

だぁーしゅき!

 風呂、夕食までは平穏だった。
 外は風が強くなって、いつも以上の漆黒の闇になっていた。
 分厚い雲が空を完全に覆っていた。

 遠雷が聞こえた。違う方向からも遠雷がした。

 呼び合って一緒になるように、雷鳴が近付いてきていた。

 青白い閃光が走ったかと思うと、ヴァアーン!!と爆裂音と、ズゥン!!という地響きがした。

 そして照明がすべて落ちた。
 「エール・コンジュゲ」は闇に包まれた。付近一帯も完全な黒一色に染まった。

 空調の効かなくなったリビングが徐々に冷えていく。
 静寂の中、サーバーを動かす予備電源の低い呻り声だけが、振動として伝わってくる。

 紗希はリビングから動かない。
(暗いし寒いし、部屋に一人にされるなんて、嫌!)

 21:00直前、紗希のスマホが微かに振動した。彼女は素早く画面に目を落とす。

(……奥様からだ。……えええ!?……もぉ、やぁだぁ〜…)

 画面から顔を上げた紗希は、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ランウェイを歩くモデルのようにしなやかな足取りで、ソファに横たわる慎一郎へゆっくりと歩み寄ってきた。

「慎一郎さん、スマホ見せて。一泊目のときの、奥様からのメッセージ見せて」

(うわっ!……おいっ!……一体何吹き込んだんだ、リアル女神!)

 嫌な予感がしつつも、慎一郎は観念して彼女の言うとおりに端末を渡した。

 画面を凝視していた紗希は、ふっと口元を緩めると、それを朗読しはじめた。

「奥様はこう伝えたんだね」

「ええっと、『7泊8日の間、佐久間さんのことを一切否定しないこと。すべて肯定すること。佐久間さんのすべてを受けいれること。何をされても黙って従うこと。了解した?』って」

「で、この奥様に対して、慎一郎さんは『了解しました。』って……キャー!!」

 言い終えるやいなや、紗希は慎一郎の胸元へ一気に飛び込み、力任せに抱きしめた。

 胸、腹、背中、そして腰から足へ──紗希の全身が、吸い付くように慎一郎へ絡みついてくる。

 彼女の熱い体温が、彼の体をじわじわと浸食していく。

 それは、慎一郎が生まれて初めて目にする、極限までにあざとく艶めいたセリフと声音、そして表情だった。

※イメージ画像 こんな感じの顔ですね。

「もう離れない!離さない。私が許すまで、離れたらダメ……慎一郎の鈍感!意気地無し!……でも全部、許してあげる。『少なくとも嘘は吐いていない』から……。シンちゃん!大好き!大好きだよ!慎一郎さん!大好き!……当然、慎一郎も私のこと大好きだよね?ね?」

「……はい。大好きです。紗希、大好き。大好きに決まってるでしょ。こんなにかわいいのに。……嫌いだったら、抵抗して紗希を引き剥がしにかかってるよ。……手を出さなかったのは……(清純派の……)」

 わずかな光のなか、浮かび上がる紗希。
 その素肌からは、ゆらめく蒸気のような濃密な色香が立ち上っていた。
 慎一郎は肌で感じていた。
 絡みつく彼女の内股が熱く濡れていき、彼のジャージの太股に染みを広げて素肌まで浸透してくるのを。

 慎一郎の頭は、女子とは思えぬ力で紗希の胸元へと力任せに押し付けられ、視界を完全に奪われた。
 
しなやかに伸びた163cmの身体。
 そこから叩きつけられるような激しい鼓動と熱量が、彼を完全に支配していた。

 紗希には、慎一郎から奪い取りたいものがまだ残されている。
 ──今から、そのすべてを奪い取る。

(わたし、もう……むり……これいじょう……まてない!)

 紗希は慎一郎の言葉を奪った。唇とともに。

「だぁーしゅき!(大好き!)」


(終わり)

この作品は、登場人物も組織も団体も、書かれていることはすべてフィクションです。現実世界とは一切関係ありません。

前日譚

第一話

第二話

第三話

第四話

(参考)比翼連理シリーズ

マガジン全体

撃墜された峻の話はこちら

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