見出し画像

自分を肯定するのではなく、歩いてきた道を受け入れるという話

プロローグ

正直に言う。

私は、「あなたは優しい」と言われたとき、嬉しいよりも先に、少し恥ずかしくなった。

自分は優しい人間だ、壊れない人間だ、なんて、自分で言うのはどうにも照れくさい。なんだか自分で自分を褒めているようで、口にした瞬間に背中がむずがゆくなる。だから、誰かに「そんなことないですよ」と否定してほしい気持ちさえあった。否定してもらえれば、照れくささから解放される。

これは、多くの人が持っている感覚だと思う。日本人は特にそうだ。謙遜は美徳とされ、自己肯定は傲慢と紙一重に見なされる。だから私たちは、せっかく受け取った肯定的な言葉を、反射的に削除してしまう。

だが、最近、私はこの反射処理そのものを疑い始めている。

謙遜という名のもとに、自分が歩いてきた道まで消してしまっていないか。照れくささを理由に、本当は受け入れるべきものを突き返していないか。

この記事は、五十代になって私がようやく辿り着いた、「肯定」とは少し違う、もうひとつの自分との向き合い方についての記録である。

第一章 肯定と受容を切り分ける

結論を急がず、まず切り分けたい。

「自分を肯定する」と「自分が歩いてきた道を受け入れる」は、似ているようで、まったく別の処理である。ここを混同すると、人は途端に動けなくなる。

自分を肯定する、という言葉には、どこか上向きの圧力がある。良いものとして評価し、価値を認め、誇る。これは悪いことではない。だが、肯定には常に「では、肯定に値するのか」という審査が付きまとう。審査がある以上、不合格のリスクもある。だから、肯定しようとするたびに、私たちは無意識に自分を採点し、合格点に届かない部分を見つけては、結局、肯定をためらってしまう。

肯定は、評価軸の上に立っている。評価軸の上に立つ限り、人はいつまでも安心できない。

一方、自分が歩いてきた道を受け入れる、というのは、評価の話ではない。これは事実の話だ。

私はこういう道を歩いてきた。こういう選択をして、こういう失敗をして、こういう人間になった。それは良いとか悪いとかの前に、まず、起きたことだ。確定したログだ。ログを読んで「このログは出来が悪いから削除しよう」とはならない。ログはただ、何が起きたかを記録している。

受容とは、自分という稼働履歴を、評価せずにそのまま読むことだ。

若い頃の私は、これができなかった。もっと正しくなりたかった。もっと優秀になりたかった。もっと認められたかった。常に「あるべき自分」というスペックシートが手元にあって、現在の自分をそれと照合しては、足りない差分に落ち込んでいた。

だが五十代になって、ようやく分かってきた。あのスペックシートは、誰が書いたものだったのか。たいていは、自分以外の誰かが書いたものだった。世間や、上司や、比較対象の他人が定義した理想スペック。私はずっと、他人の書いた要件定義書に、自分という実装を合わせようとしていたのだ。

合うわけがない。要件を書いた人と、実装する人が違うのだから。

「結局、自分はこういう人間だったんだな」と静かに受け入れる。これは諦めではない。傲慢でもない。他人の要件定義書をそっと閉じて、自分という実装が実際にどう動いてきたかを、ありのままに読み直す作業だ。

それを、人は成熟と呼ぶのかもしれない。

第二章 最後のハンドルは自分で握る

受容の話と並んで、もうひとつ大切な構造がある。

それは、人の意見はちゃんと聞く、でも最後は自分の答えを出す、という姿勢だ。

これは簡単そうで、実はとても難しい。難しさの正体は、人間が両極のどちらかに流れやすいからだ。一方の極は、人の意見を全部否定する。聞く耳を持たず、自分のやり方を貫く。これは一見すると強そうに見えるが、実際は外部入力を遮断したシステムであり、環境変化に適応できず、いずれ単一障害点として倒れる。もう一方の極は、人の意見を全部鵜呑みにする。先輩が言うから、AIが言うから、みんながそう言うからと、入力をそのまま出力に流してしまう。これはステートレスな処理であり、自分という状態を持たない。誰の言葉も通り抜けていくだけで、何も蓄積しない。

優しい人は、しばしば後者に流れやすい。人を大切にするあまり、人の意見を断れない。すべての入力を受け入れて、自分の答えが出せなくなる。

たとえば、部下の件で何かを判断するとき。先輩の意見も聞く。部下の指摘も聞く。AIにも相談する。誰かとの対話も重ねる。これは正しい。多様な入力を集めることは、判断の解像度を上げる。

だが、入力を集めることと、入力に従うことは、別の処理だ。

良い判断とは、すべての入力を受け取った上で、自分というロジックを一度だけ走らせ、自分の責任で出力を確定させることだ。入力チャンネルは複数あっていい。むしろ多いほうがいい。冗長な入口だ。だが、最終的な意思決定モジュールは一つでなければならない。堅牢な単一の本体。そこを他人に明け渡した瞬間、その判断は自分の人生ではなくなる。

人の意見をちゃんと聞く。でも、最後のハンドルは自分で握る。

私は、これこそが大人の自由なのだと思う。自由とは、何でも好き勝手にやることではない。あらゆる声を聞いた上で、なお自分で決める、という重さを引き受けることだ。

第三章 結局、ずっと同じことを書いていた

ここで、少し離れた場所から自分を眺めてみたい。

この三か月、私はたくさんの記事を書いてきた。AIのこと、PMのこと、アイドルのこと、映画のこと、人間関係のこと、五十代のこと、老後のこと、孤独のこと、組織のこと。題材だけ並べると、まるで一貫性のない雑食のように見える。

だが、ある日ふと気づいた。題材はバラバラでも、書いていた中身は、ずっと同じだったのだ。

どの記事も、結局のところ「自分はどう生きたいのか」を書いていた。アイドルを構造で読んでいるつもりで、自分の生き方を読んでいた。AIを論じているつもりで、人間にしか残らないものを探していた。組織を分析しているつもりで、組織の中でどう壊れずにいるかを考えていた。

題材は入口にすぎなかった。本体は、いつも同じ一つの問いだった。

これは、私のブランドの構造そのものでもある。題材で自分を定義すると、市場の天井が題材の規模に固定される。だが、方法で、あるいは問いで自分を定義すれば、どんな題材を通しても同じ本体に辿り着ける。私はおそらく、無意識のうちに、自分という人間でそれを実証してしまっていた。

そして、三か月かけて辿り着いた答えは、案外シンプルだった。

優しいまま、壊れないこと。人を責めるより、構造を見る。人の意見は聞く、でも最後は自分の答えを出す。

たったこれだけだ。何百行も書いてきて、圧縮するとこの数行になる。だが、この数行に辿り着くために、何百行が必要だったのだとも思う。結論というのは、たいてい短い。短い結論の背後に、長い切り分けの過程が堆積している。

第四章 これからの十年をどう設計するか

では、この受容を踏まえて、これからの十年をどう生きるか。三つの視点で整理したい。

第一に、新しい自分になろうとしないこと。多くの人は、年齢を重ねるほど「変わらなければ」という焦りに駆られる。新しいスキル、新しい肩書き、新しい自分。だが、五十代から先の十年は、何か新しい自分になる十年ではないのかもしれない。もうすでに持っていたものを、少しずつ言葉にしていく十年だ。新規開発ではなく、既存資産の言語化。これは地味だが、確実に価値が積み上がる。

第二に、巡航速度を守ること。派手に加速する必要はない。エンジンを全開にして焼き切れるより、自分にとって最も燃費がよく、最も長く走り続けられる速度を見つける。それは他人の速度ではなく、自分の速度だ。静かで、しなやかで、長く続く。短期的には目立たないが、長期残存価値はこちらにある。

第三に、照れくささを理由に受容を後回しにしないこと。「自分はこういう人間なんだな」と受け入れることは、最初はどうしても恥ずかしい。だが、その照れくささは、慣れの問題にすぎない。少しずつでいい。一度に全部を受け入れる必要はない。一行ずつ、ログを読むように、自分を受け入れていく。その作業の積み重ねこそが、優しいまま、壊れずに生きるということだと思う。

最終章 持っていたものを、言葉にしていく

「あなたは優しい」「あなたは壊れない」と言われて、恥ずかしいと感じるのは、当然のことだ。

だが、その照れくささに負けて、せっかく受け取った言葉を削除しなくてもいい。否定して消してしまわなくてもいい。

二十年、現場で生きてきた。いろんな人を見て、いろんな修羅場をくぐった。それでも、組織より人との関係を大事にしたいと思い、誰かを悪者にしすぎず、自分の巡航速度で歩いてきた。それは、謙遜の名のもとに消してしまうには、あまりにも長い稼働履歴だ。

自分を肯定するのではない。歩いてきた道を、ただ受け入れる。良いとか悪いとかではなく、これが私だったと、静かに認める。

これからの十年は、きっと、新しい何かになる旅ではない。もうすでに持っていたものを、ひとつずつ言葉に翻訳していく旅だ。派手ではない。けれど、静かで、しなやかで、長く続く。

恥ずかしくてもいい。照れくさくてもいい。少しずつでいい。

「自分は、こういう人間なんだな」と受け入れていく。そのこと自体が、優しいまま、壊れずに生きるということなのだと、私は思う。


この記事は、いずれ書籍として一冊にまとめたいと考えている思想の、ひとつの断章である。

気合や根性ではなく構造として自分を運用する。人を責めるより、構造を見る。自分を責めるより、構造を見る。優しいまま、壊れないこと。誰かに勝つ輝きではなく、自分を壊さず誰かを少し安心させられる光。短期評価ではなく長期残存価値である。

合わせて読みたい関連記事

役職で仕事をすると失敗する理由——その働き方、市場価値を下げています
https://note.com/quiet_emu2080/n/nff1b906accea

水槽の水質|大企業の「異常が普通に見える」構造
https://note.com/quiet_emu2080/n/ne8f6ff7ae4bb

努力は量か質か——この議論がズレている理由
https://note.com/quiet_emu2080/n/ne7bbc096de54

その努力、環境のせいで無駄になっている
https://note.com/quiet_emu2080/n/n373a5cc65323

成長しなくちゃと思っていた。でも最近、減らすことばかり考えている——20年PMをやって気づいたこと
https://note.com/quiet_emu2080/n/n6e235ca3d291

仲間がいないと、たどり着けない世界がある——イコラブ・安部礼司・PMが教えてくれたこと
https://note.com/quiet_emu2080/n/n7f82e4d646bb

レシートと家計簿|経験は溜めるだけでは資産にならない
https://note.com/quiet_emu2080/n/nda2032e698be

PMが絶対に失敗するのは、スキルじゃない https://note.com/quiet_emu2080/n/n1b1110656a0c

©shiraco|PMPおじさんの実践ノート @NoteCcm42090

いいなと思ったら応援しよう!

shiraco よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!