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76日目:名付けの力と副作用-認知と虚構

名前を付けることや、名前を使うことって実はかなり高度な認知が必要なこういってご存じでしたか?
そして社会は、その高度な認知に支えられているんです。

今回も記事を開いていただきありがとうございます。
今回取り上げるのは、「名前」についてです。

名前は発見?それとも発明?

まず、発見と発明の違いについて触れておきます。

発見とは、元からあったものを見つけること。
例えば重力、火薬、ペニシリン、DNA。それらは人が見つけて(認知して)いなかっただけで、元から存在しているものです。

対して発明とは、人間が作り出した(あるいは構築した)使い方です。
例えば重力を発見したから弾道計算技術が発明され、火薬を発見したから銃火器が発明され、ペニシリンを発見したから抗生物質が発明され、DNAを発見したから遺伝子工学が発明されました。

では、名前とは、名づけとは発見と発明どちらでしょうか?

無論名前は初めから在るものでないので、人が作り出した発明です。

ならば、人はなぜ名前や名づけという行為を発明したのでしょうか。名前や名づけにはどのような意味があるのでしょうか。

虚構という発明

さてこの話をする上で、私にとっては外せないキーワードがあります。
それが、サピエンス全史という本で紹介されている認知革命です。

簡単にまとめると、目の前にある現実以外である虚構(概念)も認知できるようになった、という話です。

例えば、物陰の見えない場所にヘビがいた。これは確認した人にとっては確認した現実ですが、その話を訊いただけの人にとっては目の前にヘビがいるわけではないでの、実際にヘビが存さ在するかにかかわらず自分の現実という意味で嘘なんです。

例えば、1年後にここで収穫できるように畑を作ろうと言っても、今現在収穫はできないわけで、目の前の現実基準では嘘で虚構なんです。

でも人は、その目の前の現実には含まれない、虚構を認知して共有する、という能力を得たことが、現在の反映の基盤の一つになっていると考えているそうです。

ここで言う虚構は、現実に実在はしないものすべてを差すので、例えば法律、国、貨幣、機械、その他人が発明したほとんどのものは、実在しないながらも人の共通認識の中に存在する、虚構であるというわけです。

ここで私が重要だと思ったのは、虚構や概念は認識の中にのみ存在することから、他の人と共有するための目印が必要になります。
そのための目印が名前で、作った虚構や概念に形や意味を与え共有できるようにする行為を名付けというのでは、という考えです。

つまり、虚構に存在するものと名前は本来紐づかないはずの別物で、人の認識の中でのみ紐づいている。

仮にAという虚構についていた名前が、Bという虚構を差す名前に認識が変われば。
Aという虚構は誰にも認知されなくなり、あるいはBという虚構はAに飲み込まれて消滅します。

名付けの意味

ノイマン型コンピュータというものをご存じでしょうか?
これ現在市販されているコンピュータの1種類のことなのですが、ほぼ100%を占めているんです。
あまりにもシェアをとりすぎて、ノイマン型コンピュータという名前は、コンピュータという名前に乗っ取られる形になっています。

本来コンピュータという概念の一部であったノイマン型コンピュータは、コンピュータという概念と実質的に同じ名前が付けられ、存在を分けられなくなり境界が消滅しているんです。

これだけ言うとだからなんだって感じかもしれませんが、同じ名前で呼ばれるようになると、それらは分けて考えられなくなるんです。
雑草って名前の草はありません。認知できない草をまとめてそう呼んでいるだけのはずです。
たとえば5人組のグループやアイドルがいたとして、個人名が表に出ていなければグループ名でしか呼ばれなければ、その活動や功績は名前が出ていない個人のものとはならないはずです。


これは違うパターンの恐ろしいこともあり、名前で成果や構成、あるいは人生を乗っ取った例もあるんです。

少々うろ覚えで申し訳ないですが、古代エジプトはファラオという称号で呼ばれる指導者が、3,000年続いたと言われる歴史の中で300人前後いたとされています(ファラオがいない時期や王朝自体が断続的だった時期もあったようです)。

この長い歴史の中で、名前が歴史書から奪われ、一切の構成がわからないファラオもいます。
後から調べると、実は別のファラオの事業を自分の名前で残していた例もあったそうです。

このように、特に記録上の認識においては、名前により功績を奪ったり汚名を着せたり、そういったことは頻繁に起こっていたようです。



例を挙げるときりがないのでここまでとしますが、本来自然の中では区別されないものや行動、そもそも存在しない概念など、人の社会の中には沢山あります。

なんなら個人や固体という区別すらも、群れ等の近い集団内ならともかく、基本的には存在しません。

個体個人を厳格に識別することも人間ならではです。
蟻や蜂はかなり社会性の高い集団を構築していますが、そこにあるのは役割の違いだけで、個体の識別は存在しないでしょう(猿や像なんかの哺乳類では群れ単位ではあるみたいですね)。

結び

虚構という、お互いの共有認識や約束事の中で生きている人間にとって、名前とは自分を形作る世界そのものと言って相違ないと、私は考えています。

仮に自分の名前が魔法か何かでなくなれば、自分がだれか、何をしている存在か、誰と家族なのか、一切主張できなければ証明することもできないでしょう。

名前を使うことなく、自分の経歴やできることを相手に伝えることはできないでしょう。
出身の学校名や会社名ももちろん名前ですし、学問も名前で区別していると思います。
資格や業務の内容もそれぞれに名前がついていると思いますし、成果や作ったものにもジャンルの名前や固有名がついているでしょう。


だからこそ、人であれ組織であれ会社で在れ、相手の名前を呼ぶってとても大切なことなんです。
正直私は名前を覚えることが、苦手なことトップ3に入るくらい苦手ですが、だからこそどうにか覚えられないかと苦悩しています。

だからこそ、遊びにしろ事業にしろ、自分たちの行動や目標に名前を付けることって大切なんです。
名づけるから虚構や概念が明確になり、仲間と共有することができるようになります。

だからこそ、他の人の名前を軽々しく使ったり貶してはいけないんです。
それはその人の人生を盗む行為であれば、行動や目標に泥を塗り相手の価値を下げる行為でもあります。

そのあたりを、最近ブランディングやマーケティングを学ぶようになり痛感しています。

皆さんの大切にしている名前は何ですか?
その名前にどのような成果や価値を重ねていますか?

そのようなことを考えると、目標や行動が変わっていくのかもしれません。



今回も最後までご覧いただきありがとうございました٩( 'ω' )و

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