その「多様性」をEBPMにかけろ――「経済財政運営と改革の基本方針2026」を「日本共和制論」の立場から読む
2026年7月21日、「経済財政運営と改革の基本方針2026」が閣議決定された。
副題は「『責任ある積極財政』元年――日本の挑戦を起動する!」である。
概要資料を開くと、4ページ目に「コペルニクス的転回」と大書されている。広報用資料だけの煽り文句かと思ったが、本文にもそのまま書いてあった。
主要先進国では、市場に委ねるだけでは解決できない課題に対応するため、官民が連携して大規模かつ長期的な財政支出を伴う産業政策が大きな潮流となっている。これは、経済財政運営の在り方そのものに関するコペルニクス的転回であり、我が国においても、こうした時代の変化を踏まえた国家運営が求められている。
政府が一歩前に出て、17の戦略分野へ複数年度の投資を行い、2040年度に250兆円の国内投資を実現する。財政単年度主義も見直すという。
ぼくは積極財政そのものには反対しない。
別稿「第三の矢はなぜ刺さらなかったのか――アベノミクスと複線型トラック論」でも、アベノミクスの第一の矢と第二の矢を否定しなかった。
金融緩和と財政出動によって時間を買うこと自体は必要だった。問題は、企業収益を国内賃金、設備投資、価格転嫁、職業訓練、技能形成へ接続する第三の矢が、制度として完成しなかったことだった。
だから、政府がようやく投資不足を認め、国家による供給力強化へ踏み出すこと自体はよい。
だが、これが十数年待たされた第三の矢なのか。
政府が成長分野を選び、企業へ資金を流し、大学の定員を付け替え、海外留学を増やし、「多様性の中で価値を創造する人材」を育てる。
企業収益を賃金、職能形成、職業訓練、地域定着へ流す制度は、どこまでできたのか。
コペルニクス的転回と大書した割に、第三の矢はまだ的へ届いていない。
1. コペルニクス的転回ではなく、同じ轍ではないか
官民連携による長期的な産業政策は、新発見ではない。
日本政府はかつて、国際競争力を高めるという名目で、四輪自動車製造業を含む産業の規模適正化、企業統合、設備投資調整を進めようとした。1963年の特定産業振興臨時措置法案は、主務大臣が振興基準を定め、合併や共同事業を政策的に促進する構想だった。
しかし、企業規模の拡大を理由に合併や集中を進め、過当競争の是正を理由に企業間の共同行為を広く認める内容だったため、競争制限への批判と産業界の反発を招いた。法案は1963年から三度提出されたが、いずれも審議未了で廃案となった。
自動車産業では、既存企業を中心とした再編が進めば、新規参入を目指していたホンダの四輪事業が制約される可能性もあった。実際、ホンダは法案の動きを受け、成立前に量産実績を作るため四輪車開発を急いだ。
当時と現在が同じだと言うつもりはない。
基礎研究、計算資源、エネルギー、通信、交通、標準化、防衛、感染症対策のように、国家が長期投資を担うべき領域はある。AIについても、海外企業のサービスを使えばよい、だけでは済まない。行政、防衛、製造業、医療、日本語処理のために、国内で基盤モデルを開発・評価できる能力は最低限必要だろう。
だが、公共財への投資と、個別企業・個別技術の勝者選定は違う。
政府が「戦略分野」を定め、複数年度で補助し、政府調達で初期需要を作り、研究開発から社会実装まで一気通貫で支援する。うまくいけばよい。しかし、失敗時の撤退条件、支援終了後の自立可能性、成果物の公共性、新規参入への効果が曖昧なら、育つのは産業ではなく、補助金への適応能力が高い企業である。
企業側も補助金を拒否する理由はない。
政府は支援したい。企業は受け取りたい。自治体は工場を誘致したい。コンサルティング会社は事業計画と評価資料を作りたい。有識者は会議へ呼ばれたい。
全員に短期的な利益がある。
官民連携が世界の潮流になったのは、政府の知恵が急に高まったからだけではない。公金を受け取ることが、企業経営の通常業務になったからでもある。
「コペルニクス的転回」と呼ぶ前に、その産業政策が、過去の官僚主導型産業政策と同じ轍を踏まない根拠を示すべきである。
転回というより、先祖返りではないのか。
しかも政府は、本文の後半で、補助金等が「歳出に見合う社会的価値」を生んでいるか検証し、目的、対象、成果指標、実績データ、費用対効果を明確化すると書いている。
それなら、まず「官民連携は成長を生む」という前提自体を検証すればよい。
2. 人社系のダウンサイジングには反対しない
今回、大学関係者が最も強く反応しているのは、次の部分だろう。
文理分断の傾向が強い大都市圏の大学を始めとする成長分野の重視や人社系のダウンサイジング及び理数分野併修を通じた質の向上
政府文書に「人社系のダウンサイジング」とここまで露骨に書かれたのだから、大学人が騒ぐのも分かる。
だが、ぼくは人社系のダウンサイジング自体には反対しない。
Fランク大学の文系学部を、学生の就職待機所として維持する必要はない。卒業論文らしきものを書かせ、学士号を配り、教員ポストを保つためだけの学部なら、切ってよい。
ただし、それは人文学を消せという話ではない。
大都市圏で粗製濫造されている人社系を縮小し、地方の基礎的な知的インフラへ人員を再配置するべきだ。
博士研究者の養成は、旧帝国大学や広島、岡山、金沢、熊本などの地方中核大学へある程度集約してよい。各県の国立大学が、イタリア文学、ドイツ哲学、中国古代史の博士課程をすべて持つ必要はない。
だが、修士課程までの人文社会系教育と、地域の知的基盤は各地に残すべきである。
とくに歴史学や地理学は、地方に研究者がいなければ、地域史、産業史、土地利用、災害史、方言、民俗、文化財を誰が扱うのか。東京の研究者が全国を代行すればよいという話ではない。
琉球大学に人文社会系の博士課程を比較的厚く置くのは、地理的・歴史的条件からして正しい。北東北についても、東北大学一本では薄い。弘前、岩手、秋田をつなぐ州域大学院のような構想があってよい。北海道も北海道大学だけに集中させず、室蘭工業大学、帯広畜産大学、小樽商科大学などを結び、技術、食料、地域経済、人文学・社会科学を補完させればよい。
室蘭工業大学にエネルギー、素材、製造業と接続するSTSを置く。帯広畜産大学に動物福祉、ゲノム編集、感染症、食料安全保障を扱う生命倫理を置く。
科学を否定するためのSTSではない。
科学技術を実装する国家が、リスク、倫理、標準、制度、責任を考えるためのSTSである。
3. 人文学を人工芝化する
ぼくは以前から、人文学を「人工芝化」すべきだと考えている。
これは、人文学を偽物にするという意味ではない。逆である。
専門家共同体の天然芝を神聖視し、専門外の者や学部生を入口で排除するのをやめる。人文学の語彙、読解方法、歴史感覚、批評能力を、広く使える公共的な地面として敷設する。
学部生の論文だから読む価値がないと最初から拒絶するダンテ学者は、天然芝の人文学者である。
専門の芝を守ることには熱心だが、その上を誰に歩かせるかには関心がない。
これに対し、人工芝型の人文学者は、専門研究の水準を保ちながら、非専門家へ精読、文献の扱い、論証、反論、文章技術を教える。
その配置先として、ぼくが「教育学部はいらない――日本共和制論2/5」で提案した教員養成大学院が使える。
教育学部を解体し、教科の専門知識は文学部、理学部、法学部、経済学部などで学ばせる。その後、教員になる者は専門職大学院で、教育心理、測定、評価、教育法規、特別支援、授業設計、長期実習を学ぶ。
そこに加えて、クリティカル・シンキング、テクニカルライティング、文献検索、引用、先行研究、論証構成、反論処理を必修にする。
「探究」を生徒にやらせるなら、教師自身が、感想文と研究の違いを説明できなければならない。検索結果の貼り合わせと、根拠を伴った論証の違いを判定できなければならない。
これは修士レベルの批評性である。
すべての教員が研究者になる必要はない。だが、一つの問題を限定し、資料を集め、先行研究を踏まえ、根拠から結論を導き、反論可能性を残して文章化する経験は持つべきだ。
こうすれば、人文社会系研究者を地方に残す理由ができる。
研究者養成だけのためではない。教師を通じて、次世代の日本語公共圏へ、読解、論証、歴史、法、批評の能力を供給するために残すのである。
人社系の量的縮小と、残すべき人社系の知的高度化を同時に行え。
大都市圏の粗製濫造を切り、地方の基礎的知的インフラを厚くしろ。
今回の基本方針が本当に「高等教育の分野・地域のリバランス」を行うなら、これくらいの設計があってよい。文書は地方大学に医療、介護、福祉、産業、インフラを支える人材養成を求めている。
それは必要である。
だが、地方を実務人材の供給基地にするだけでは足りない。地方にも知的生産と公共的議論の拠点が必要である。
4. その「多様性」をEBPMにかけろ
そして、今回もっとも理解できないのが、同じ段落にある次の文章だ。
大学生・高校生での海外留学の一層の推進など多様性の中で価値を創造する人材育成を進める。
なぜ、海外留学から「多様性の中で価値を創造する人材」が出てくるのか。
多様性と価値創造は別の概念である。
多様性は、集団、環境、属性、経験、専門分野などの構成に関する性質だ。価値創造は、何らかの成果を生み出す能力または行為である。
多様な集団が価値を生み出す場合はある。
異なる専門知識を適切に統合できれば、問題発見や技術開発に役立つこともあるだろう。
だが、多様であれば自動的に価値が生まれるわけではない。
共通言語、専門能力、目的、選抜、役割分担、意思決定、責任がなければ、多様性は調整コストと対立を増やすだけかもしれない。
そもそも、ここでいう多様性とは何か。
国籍か。文化か。専門分野か。社会階層か。認知特性か。地域経験か。
価値とは何か。
企業収益か。科学的発見か。文化作品か。地域社会の維持か。公共的価値か。
何も定義されていない。
政府文書では、「多様性」という道徳的に反対しにくい言葉と、「価値創造」という経済的に反対しにくい言葉が接着され、その間の因果関係が省略されている。
そのうえ、海外留学が媒介として挟まる。
海外へ行けば、多様性を理解できる。
多様性を理解すれば、価値を創造できる。
そんな因果関係が本当に確認されているのか。
基本方針は、EBPMを「単なる事後評価や歳出削減の手段」にとどめず、政策の目的、対象、成果指標、実績データ、費用対効果を明確化すると宣言している。
ならば、この「多様性の中で価値を創造する人材育成」こそ、EBPMにかければよい。
何の多様性が、どの条件で、どの種類の価値を、どの程度生み出したのか。
留学経験者は、同等の能力や家庭背景を持つ非留学者と比べて、どのような成果を上げたのか。
留学の効果なのか、もともと留学できる人間の選抜効果なのか。
政策標語を因果命題として使うなら、政府自身の基準で検証すべきである。
5. 体験は理解ではない
同じ問題は、「体験機会」「地域探究」「質の高い探究」にもある。
基本方針は、若者政策として「全てのこどもの豊かな体験機会の充実」を掲げ、教育政策でも体験活動や探究を推進している。
体験自体が悪いわけではない。
だが、体験は理解ではない。
海外へ行ったから外国を理解したことにはならない。地域を歩いたから地域社会を理解したことにもならない。工場を見学したから産業構造を理解したことにもならない。
体験は素材である。
その素材を、既存の知識、比較、歴史、理論、統計、言語によって解釈して初めて理解になる。
これはフィクション作品について、ぼくがメソッド演技法を批判してきた理由ともつながる。
役を理解するには、同じ身体にならなければならない。肥満者を演じるなら太らなければならない。病者を演じるなら病的な精神状態へ入らなければならない。
その発想を突き詰めれば、殺人者を演じるには殺人経験が必要になる。
演技とは、自分が経験していないものを、観察、想像力、テキスト読解、身体技法、演出理解によって表現する能力である。本人と同じ経験が必要なら、それは演技ではなく再現実験である。
教育も同じだ。
世界を理解するために、世界中へ行く必要はない。
人は、言語、書物、歴史、フィクション、学問を通して、自分の直接経験を超えることができる。
直接体験だけを本物とし、媒介された知識を二流とみなすなら、高等教育そのものが不要になる。
6. 若者の「希望」を調査して、これから基本設計する
少子化・若者政策について、文書はこう書いている。
若者が希望を持ち選択できる環境の整備のため、大規模調査を踏まえた若者政策の基本設計を行い、地域での包括的なモデル事業の創設や全てのこどもの豊かな体験機会の充実に取り組む。
こども家庭庁が発足してから何年たったのか。
児童手当、育休、保育、住宅支援、授業料支援という部品は並べてきた。それでも2026年になって、大規模調査を行い、これから若者政策の「基本設計」をするという。
では、これまで何を設計していたのか。
調査は必要である。
住宅費、雇用不安、保育負担、地域差を測るための調査は行えばよい。
しかし、国家が何を目標にするかを、若者アンケートによって発見しようとしてはいけない。
若者がいつ教育を終え、いつ働き、いつ子を持ち、誰が育児を担い、住宅をどう確保するか。
育児と介護をどう切り分けるか。
祖父母との近住をどう支援するか。
出産によって教育と職業経歴が切断されないように、どのような時間軸を設計するか。
これは人気投票で決める話ではない。
ぼくは「この国を次の世代に渡せ――日本共和制論4/5」で、少子化を単なる出生数の問題ではなく、社会の再生産可能性として論じた。
働けるだけでは社会は続かない。
子どもを育て、介護を制度へ逃がし、地域で暮らし、食料供給能力と公共圏を次の世代へ渡せなければならない。
基本方針は「将来世代への責任」を掲げる。
だが、その中心は「強い経済」と財政の持続可能性である。債務残高対GDP比を安定的に低下させることが中核に置かれている。
将来世代へ債務を残さないことだけが責任ではない。
人口再生産能力、教育制度、職業世界、日本語公共圏、地域社会を残せなければ、健全な財政指標だけ渡しても国家は続かない。
7. 外国人政策という二枚舌
同じ文書は、少子化傾向を反転させると書く一方、「将来必要となる労働力人口の規模」も検討するとしている。
外国人政策では、不法滞在者ゼロプラン、JESTA、審査の高度化、土地取得規制、日本語と日本の制度・ルールの教育を掲げる。一方で、育成就労制度を施行し、外国人受入れの基本的な在り方を改めて取りまとめる。
要するに、外国人を入れないのではない。
厳しく管理しながら、必要な人数は入れるということである。
それ自体は一つの政策判断だろう。
だが、国内の教育、職業接続、現場職の処遇、家族形成、地方産業を立て直す前に、「将来必要な労働力人口」を計算すれば、足りない人数を外国人で埋める計算になりやすい。
少子化対策に失敗した分を、管理を強化した外国人労働力で補う。
それを「秩序ある共生」と呼ぶ。
外国人を入れるなという話ではない。
順序の問題である。
外国人材は、国内人材の教育、測定、再配置、処遇改善の代替ではない。
8. 官僚を安く使って、民間へ高く払うな
基本方針は、国家公務員について、採用活動の強化、民間企業等に伍する職場環境の整備、処遇改善、人材マネジメントの高度化を掲げる。
方向としては正しい。
かつて官僚制は、合理的すぎ、強力すぎることを批判された。
いまの日本では、その心配をする前に、官僚制が安月給でボンクラを再生産する装置になっていないかを心配した方がよい。
高度な政策、IT、AI、法務、調達、経済安全保障を扱う人材を本当に採るなら、給与表を少し持ち上げるだけでは足りない。
管理職トラックと専門職トラックを分け、民間往還型を作り、高度専門職には市場価格を払うべきである。
ただし、高給と身分保障だけを与えればよいわけではない。
高給、権限、成果責任、判断過程の記録、利益相反規制、再認定、退出可能性を一体にする。
できるキャリア官僚やノンキャリアの専門職には、高給を払ってよい。
しかし、試験に通ったことや官僚出身であることを、永続的な品質保証にしてはいけない。
問題は、この種の提案が今さら出てきたことでもある。
民間人材を任期付きで採用する制度は、2000年に法制化されている。人事院自身が、高度な専門知識を持つ民間人材を任期付きで採用し、専門性にふさわしい給与を支給できる制度として説明している。
CIO補佐官の採用や専門人材の登用も、少なくとも2013年の日本再興戦略に既に書かれていた。
任期付専門人材も、CIO補佐官も、十年以上前から存在した。
それでも2026年になって、また民間人材、処遇改善、人材マネジメントを掲げる。
制度がなかったのではない。
外部人材を国家能力へ変換できなかったのである。
外部専門家を一人呼んでも、権限、予算、人事、調達を握れなければ助言役で終わる。短い任期の間に行政を理解した頃には退職する。知識も標準も手順も内部へ残らない。
一方、中央省庁や自治体は、政策調査、システム構想、PMO、資料作成、効果検証を民間企業へ委託する。
その委託先には、発注側の官僚より高給の若手コンサルタントがいる。
国家が専門家を直接雇う金は惜しむ。
しかし、専門家を時間単価で借りる金は惜しまない。
官僚の給与を上げれば「税金の無駄」と言われる。官僚を安く雇い、その能力不足を補うために高額な委託費を払えば「官民連携」と呼ばれる。
官僚より高給の若手コンサルタントが、官僚の指示を受けて官僚制改革の資料を作る。
これもコペルニクス的転回なのだろうか。
外部委託そのものを否定する必要はない。
外部にしかない技術や知識はある。
だが、発注者側に構想能力と評価能力がなければ、コンサルタントは国家能力を補うのではない。国家能力の空洞化を隠す装置になる。
必要なのは、外部専門家を単独で呼ぶことではない。
権限を持った専門職チームとして採用し、内部官僚と共同で成果物を作り、任期終了までに知識、標準、手順、人材を国家内部へ残すことである。
9. 自家製国家論を閣議決定文書と秤にかける
一個人が13万字を超える自家製国家論を書き、それを閣議決定された政府文書の横に置き、政府の制度設計が甘いと判定する。
外形だけ見れば、狂人の所業である。
だが、政策文書を評価するには、暗黙の常識で読むより、明示された対抗設計を置いた方がよい。
ぼくの「日本共和制論」には、少なくとも、国家の目的、成員形成、教育責任、能力測定、職業接続、複線型トラック、人口再生産、地方配置、日本語公共圏、外国人政策、権威と権力の分離が一つの設計として置かれている。
それが現実そのものだとは言わない。
理念型と同じく、現実との距離を測るための比較項である。
この比較から見ると、「経済財政運営と改革の基本方針2026」は、従来の政府文書よりかなり前へ出ている。
投資不足を認めた。
過度な緊縮志向を批判した。
高等教育の規模適正化、18歳中心主義からの脱却、高専、専門高校、短大、専修学校の強化を書いた。
人社系のダウンサイジングにも踏み込んだ。
国家公務員の処遇改善も書いた。
部品だけでなく、設計図らしきものが初めて見え始めた。
だからこそ、惜しい。
「多様性」「価値創造」「体験」「希望」「官民連携」「将来世代への責任」という、聞こえのよい言葉の間に、因果関係と責任分界が足りない。
政府はEBPMを掲げる。
それなら、予算を使った後だけでなく、予算を正当化する政策語彙そのものをEBPMにかけるべきである。
多様性は、本当に価値を生むのか。
留学は、本当に価値創造能力を高めるのか。
体験は、本当に理解を深めるのか。
官民連携は、本当に国家能力を高めるのか。
外国人労働力は、本当に国内人材の再配置を妨げないのか。
人社系の削減は、本当に日本の知的基盤を強くするのか。
コペルニクス的転回と大書する前に、それを確かめろ。
そうでなければ、これは地動説の発見ではない。
古い政策と同じ轍を、派手な言葉で覆っているだけである。
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