『介護が始まるとき』──搬送される慟哭
施設介護編
【第9話】
その時の私は──
目の前で、
『うー、ふー』
と唸りながら苦しむ妻の姿に、
ただ恐怖していました。
みるみる内に、
ガタガタと体が震え始め、
全身から血が引いていき。
職員には、
『救急車を呼んでください』と伝えて。
妻に近づきながら、
『大丈夫かい?』と声を掛けました。
唸り声を上げる妻は、
意識はあるものの、
呼吸をすることすら、
やっとの様子。
そのあまりに悲しい姿に、
胸は音がするほど、
締め付けられていました。
部屋は、吐いた物による
すいた匂いに満たされて、
職員は背後で、
バタバタしていました。
けれど、
そんな騒然とした中でしたが、
なぜか妙に部屋は静かに感じました。
──やがて遠くの方から、
救急車のサイレンが聞こえ始め。
『もう大丈夫だから』
と妻に声を掛けました。
救急搬送された妻は、
かつて入院していた病院へ、
運ばれました。
病院に着いたときの妻は、
顔は青白いものの、
朦朧としながらも意識はあり、
落ち着きを取り戻してはいました。
けれど、
私が話しかけても、
ボーっと見上げたまま、
反応はしませんでした。
脳出血の再発?
それとも、てんかん?
これまでリハビリを頑張って、
少しずつ言葉を、
取り戻しつつあったのに──
検査が終わるまでの間、
待合室での私は、
例えようのない恐怖と不安に、
苛まれていました。
──検査が終わり。
ストレッチャーに横になる妻に、
近づいて話し掛ければ、
「……あ゛、……あ゛……が……」
それから何度話しかけても、
妻から出てくるのは、
言葉にならない声だけでした。
その姿を前に、いよいよ堪えきれず、
目頭は熱くなり、
涙が一気に溢れ出してきました。
間もなく、
看護師から声を掛けられて、
私は外来に通されました。
診断は、「てんかん重積」。
それは脳の波が次々に乱れ、
発作が連続して起こる状態。
最悪の場合、
死に至ることもあるという。
医師からの説明はこうでした。
『このまま、
1週間の観察入院になります』
『長引く可能性もありますが、
いまは様子を見ましょう』
脳出血ではなかったことに、
安堵はしたものの──
私は恐る恐る尋ねました。
『……妻の言葉は、戻りますか?』
医師は、こう答えました。
『少しずつ、戻ってくると思います。
ただ、100%は戻らないでしょう』
『よくて80%、
ぐらいと思っていてください』
言葉を失いました。
胸に突き刺さった、
その医師からの言葉。
よくて80%──?
悔しさと、悲しさと、
どうにもならない『怒り』が、
体の奥から湧き出していました。
なぜ──?
ここまで来るのに、
どれほど頑張ってきたのか。
妻とこれまでのリハビリの日々が、
頭を駆け巡っていました。
涙だけは容赦なく。
私は震えながら声を振り絞り、
医師に頭を下げました。
『……妻を、
よろしくお願いします……』
外来を出て、
妻が運ばれた病棟へ向かう途中。
心の中で叫んでいました。
──ふざけるな。
どれだけ妻を
苦しめれば気が済むんだ?
いったい何をしたというんだ?
なぜ、こんな目に……
思えば、
いつもそうでした──
私に出来ることは、
ただ泣き喚くことぐらいで。
理不尽とも思えた現実には、
なす術もなく。
一ミリも抗うことなど、
出来ませんでした。

『介護が始まるとき』
──搬送される慟哭
【第9話 完】
▼この話は、第10話
『日常に戻る前に』に続きます。
▼前回の話 第8話
【てんかんの恐怖】
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