『介護が始まるとき』──立ち上がらないパソコン
施設介護編
【第7話】
倒れる前の妻は、
パソコンが得意でした。
看護師時代はレポートを作り、
家では家計を管理して、
私よりもずっと自由に、
それを扱っていました。
今では懐かしい
ブラインドタッチのソフトで、
入力もお手のもの。
ただ、残念ながら、
そのスキルは脳出血により、
全て奪われていました。
それはまだ、
施設に入所したばかり頃──
その日は、
パソコンの訓練。
訓練の中でも、
パソコンは比較的に多く。
60分のコマが週に3回ほど。
施設を出たあともそれは、
社会復帰ができることを目的に設けられていました。
その内容は、
決められた文字を、
ただ入力していくだけの、
単純なものでした。
失語が色濃く残っていた当初の妻は、
ひらがなが全く分からず、
完全に混乱を来していました。
仕事を抜け出した私は、
施設に向かい。
妻がパソコン室にいると教えられて、
そこへ行けば──
妻は画面に向かって、
真剣な顔つきでキーボードを慎重に押していました。
先生は、
離れたところのパソコンで、
自分の作業をしていました。
近づいて、
『どう?上手くいってる?』と聞けば、
集中してるのか、
明らかに私を無視──
いそいそと、
少し離れた椅子へ移動しました。
カチャ……カチャ……
と入力する文字を見ながら、
キーボードを
動く方の人差し指で押す妻。
部屋はその音以外はなく、
パソコンの熱も加わり、
暖かい部屋で次第に眠くなる私──
しばらくウトウトして。
『今日はよく出来ましたね』
との先生の声で、気がつけば。
妻の訓練は終わったようでした。
先生曰く、
『タイピングも早くなってるし、
もっとできるようになりますよ』
とのこと。
それを聞いた妻も、
嬉しそうにニコニコとしていました。
教室をあとにして、
車椅子を押しながら妻に、
『すごいじゃん。
先生も褒めてるし、
もっと出来るようになるよ』
と言えば、
『でも、出来なかった。
もっと前は出来たのに……』と。
寂しそうな小さな声で、
自己評価も厳しめでした。
部屋に戻ると妻から、
『練習したいから、
家のパソコン持ってきて』とのこと。
その後日──
パソコンを持っていくも、
全く使われている様子はありませんでした。
妻に『なんで使わないの?』
と聞けば、
電源が入らないとのこと。
よくよく確認してみれば、
パソコンは、ctrl+alt+deleteキーを押して、パスワード入力して立ち上げるという仕様。
たしかに今の妻には、
これは無理だなと。
それでも、その後も妻は、
訓練の甲斐もあって、
入力だけはメキメキ上達していきました。
けれど──
今日においても妻が、
パソコンを立ち上げることはありません。
スマホがあれば妻も、
すっかり満足しているようでした。
そして、それは今も──
そのままに。

『介護が始まるとき』
──立ち上がらないパソコン 【完】
▼この話は、施設介護編 第8話
『てんかんの恐怖』へ続きます。
▼前回の話 施設介護編 第6話
『妻と話すボッチャのこと』
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