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【アルバム解説:Mr. Morale & the Big Steppers(2022) / Kendrick Lamar 】


Mr. Morale & the Big Steppers

本作は、自己の内省をとことんまで突き詰め、その苦悩と解放を描いた傑作です。
また、自己に深く向き合う事で、アフリカ系アメリカ人が置かれた社会問題にまで突き抜けています。
この極めてパーソナルかつコンシャスな名盤を、可能な限り読み解いて行きたいと思います。

ちなみに僕はNLP(※)の初級資格と産業カウンセラーの資格を持っており、ほんのちょびっとだけ心理学をかじった門前の小僧です。

この作品は心理学をかじった人間の目から見ると、一人の人間がセラピーセッションを通じて自分と向き合う姿が綺麗に浮かび上がって来ます。

どうしてこのアルバムが素晴らしいのか、心理学の視点を交えながら分析・解説いたします。

この記事を読み終えれば、必ずあなたのリスニング体験がかわります。
長いので、気になるところを読み飛ばしていただいても大丈夫です。

(※)NLP(Neuro-Linguistic Programming:神経言語プログラミング)とは、心理学の1ジャンルで、五感や言語、思考のパターンを分析して作り上げられたコミュニケーション技法です。


概要

ケンドリック・ラマーのメジャー4枚目のアルバム。
彼を育てたTDE(トップ・ドゥグ・エンタテイメント)から出た最後のアルバムでもあります。
 
ローリングストーン誌「2022年の年間ベスト・アルバム TOP100」で11位にランクインしています。
爆売れした前作"DAMN."から5年、世の中の評価としては"DAMN."よりは温度が下がった感じです。
 
本作を一言で表すなら、ケンドリックが自分にとことん向き合ってたどり着いた自己開示です。
バンギンなビートや時代の代弁者としての役割を求めていたリスナーには、もしかしたら期待外れな作品かもしれません。
僕の評価は世の中とは異なりますが、個人的にはケンドリック・ラマーで最も好きな作品です。
 
このアルバムは、各曲がセラピーのセッションの形式をとっています。
クライアント(相談者)であるケンドリックが、セラピストに心の内を告白するようにストーリーが進んでいきます。
 
また、過去の作品同様、曲間(アウトロやイントロ)の使い方が絶妙です。
奥さんであるホイットニーやセラピストであるエックハルト・トールが登場します。
 
サウンドはかなり革新的です。
基本はトラップ(ヒップホップのサブジャンル:マシンビートと重厚なシンセが特徴)ですが、全体的にピアノやストリングスの美しい響きが特徴的で、時々テクノのミニマルビートが導入されます。
また、客演を多く採用してメロディを歌わせるとともに、ケンドリック自身も結構歌っています。
 
ラップは文句なしに素晴らしい!
多彩なリズム・コンセプトのフローがスキルフルに展開されます。
特に、声色の使い分けや視点の変化が多様で絶妙です。
物凄い表現力です。
 
タイトルの"Big Steppers"と"Mr. Morale"は、このアルバムではどちらもケンドリックのオルター・エゴです。
"Big Stepper"は「自信に満ち堂々と自分を貫く人」を指すスラングですが、ここでは「大きな成功を成し遂げた者」と言い換えても良いでしょう。
"Mr. Morale"は直訳すると「士気ある人」ですが、「弱さや葛藤を認め自分に向き合う者」と捉えてよいと思います。

全体の構造

このアルバムは、前半の"Big Steppers"ブロック9曲と、後半の"Mr. Morale"ブロック9曲の、全18曲で構成されています。
また、このアルバムは鏡のような対象構造を持っており、各曲が周到に配置されています。
1曲目と18曲目、2曲目と17曲目、といった感じです。
対応する各曲を並べると下記の様になります。

1.United in Grief           :自分の苦しみ
18.Mirror                       :苦しみからの脱却

2.N95                            :苦しさの源泉が見えない
17.Mother I Sober         :苦しさの源泉を見える化

3.Worldwide Steppers   :罪の告白の苦しみ
16.Mr. Morale                :自己に向き合う苦しみ

4.Die Hard                     :自分が許容されたい
15.Auntie Diaries           :他者を許容する

5.Father                          :他者からの影響
14.Savior                        :他者に与える影響

6.Rich (Interlude)             :トラウマの源泉
13.Savior (Interlude)        :トラウマの源泉

7.Rich Spirit                      :外部ストレスとの戦い
12.Silent Hill                      :外部ストレスとの戦い

8.We Cry Together             :人に痛みをぶつける
11.Crown                            :人を喜ばせられない

9.Purple Hearts                  :自分で自分を許容する
10.Count Me Out                :他人が自分を許容する

ジャケット

次にジャケットを見てみましょう。

 質素な部屋にケンドリックとその家族が映っています。
このアルバムは家族をテーマにした物語でもあるのです。
ケンドリックのお尻にはハンドガンが刺さっており、外部環境の過酷さと家族のために戦う者としてのケンドリックを示唆しています。
そしてケンドリックは金属製のいばらの冠をかぶっています。
この冠はティファニーに特注したもので、8,000石以上、合計137カラットのダイアモンドが散りばめられており、価格は約4.5億円ではないかと言われています。
これはいったい何を意味するのか?
 
ケンドリックはこれまで「金は自分を幸せにしなかった」と主張してきました。
質素な部屋でこの超高価な冠だけが異様です。
そして冠は何の役にも立ちません、壮大な無駄です。
これは「金は自分を幸せにしない」という皮肉を、凄い大金を使って表しているように思います。
 
そしていばらの冠と言えばキリストです。
ケンドリックは敬虔なキリスト教徒なので、何か宗教的な意味合いを感じます。
 
そもそも冠は、本来自らかぶるものではありません。
王でも皇帝でも他人からかぶせてもらうものです。戴冠(冠を戴く)という言葉があります。
ケンドリックは「時代の救世主としての役割と、その責任および重圧を引き受けている」ことを示し、同時にそれを「世の中が自分に押し付けた(被せた)様に感じている」のではないでしょうか。
そしてその冠がいばらということは、ケンドリックにとってその重圧は罰に近いものであることを示しています。
なぜならキリストは、刑罰としてローマ兵からいばらの冠をかぶせられたからです。
 
インナースリーヴでは、ケンドリックは一人でソファーにくずれる様にだらしなく座り、疲れ切った表情のその頭ではいばらの冠がずれています。
ほんのいっとき冠(重圧)を降ろして休んでいるかの様です。

インナースリーヴ

曲解説

では各曲のレビューに移ります。
覚悟しろよ。

[Big Steppers]

1.United in Grief

冒頭聖歌隊の様なコーラスが流れます。
このコーラスメロディはこのアルバムであと2回現れるが、ターニングポイントで使われる様です。
 
 今生で心の安らぎを得られるよう願っている
 楽園が見つかると良いな
 
 ホイットニー(奥さん)
 「皆に真実を伝えなさい」
 
 床を踏み鳴らすような音と共にケンドリックが
 語り始める
 「俺はあることを経験した
  1,850と55日
  俺はずっと何かをやり通してきた
  覚悟しろよ」
 
嫁ドリックに促され、前アルバムから5年(1,850と55日)の間にあったことを今から語るぞ、といって曲が始まります。
 
傷つけ合う親戚、邪悪な大統領、地元のチクり野郎、宝石をつけたラッパーなどについて皮肉を込めたトーンで触れた後、実はセラピーに行き始めたことを告白する。
メルセデスや豪華なプールを買ってみたが、それらは一時的な心の安らぎしか与えなかった。
人生の混乱に触れながら「自分は頭がおかしいのか? 傲慢なのか?」と自問する。
 
ケンドリックはセラピストに対し、自身の怒りや悲しみにつながる事柄を告げる。
だがそれらはまだ触れて回るだけで、攻撃するでも嘆くでもなく判然としない。
ただ「俺の悲しみは他の者のそれとは違う」と繰り返す。
セラピーはまだ始まったばかりなのだ。
 
ピアノとストリングスが美しく鳴る中、スキルフルなラップが展開されます。
途中からテクノの高速ミニマルドラムが加わり、聞いたことが無いような激しく美しい曲になります。
 
冒頭の床を踏み鳴らすような音はこの後何度も出てきます。
この音はとても重要なので、今後も注意して聴き進めて下さい。

2.N95

N95は医療用マスクのことです。
コロナが終息した現在でも、いまだマスクをつけている人々をちらほらと見かけます。
このマスクが象徴する矛盾になぞらえながら、表面的な生き方を非難し、真実を覆い隠す仮面を外すように主張します。
 
 注目を集めるための嘘をやめろ
 WiFiを捨てろ
 ハイブランドなんてくそくらえだ
 不誠実さも不確かさも捨てろ
 意識が高いフリをするのをやめろ
 キャンセルカルチャーってなんだ!?
 
このアルバム中最もノリが良い曲。
TR-808の細かいリズムに、うねる808ベース、バッキバキのトラップ・サウンド。
そしてスキルフルなラップ。
つぶやくようなトーンから、攻撃的、チルやおどけたファルセットまで、声色の使い分けが多彩。
素晴らしい!
 
ちなみにケンドリックはSNSをほとんどやらないし、質素な生活を送ることで知られています。
ついでに言えば酒や麻薬もやらない。
この曲では、SNSの普及により、人々がよりセンシティヴに過激になってきていることに対し嫌悪感を表します。
こうした空気感がケンドリックを息苦しくしているようです。

3.Worldwide Steppers

二人の子供をもうけた、スランプで全くリリックが書けない時期が2年間あった、と語ります。
続いて2人の白人女性と関係を持ったことが告白されます。
16歳の時と"Good kid, m.A.A.d city "ツアーの時です。
妻のホイットニーとは高校時代からの付き合いだということだから、これは裏切りの告白です。
 
 ホイットニーに何か問題が?と聞かれた
 俺は人種差別主義者かもしれない、と答えた
 俺が白人とセックスするのを先祖が見ているのは
 (自分への)報復のようなものだった
 
浮気という裏切りと共に、「白人を征服するという喜びを感じてしまった」ことに対する人種的裏切りに対し、罪の意識を感じているようです。
 
冒頭、客演のコダック・ブラックがセラピストである「エックハルト・トール」と、ケンドリックのオルター・エゴである「ビッグ・ステッパー」を紹介します。
2人を紹介することで、この曲はセラピー・セッションの中でケンドリックがエックハルトに語った内容であることが示唆されます。
 
サウンドは、空調機械のハム音を遅回しした様なシンセベースがブンブンと鳴り、セラピー室内の息苦しい雰囲気が演出されています。
アタックがはっきりしないシンセベースが高速で鳴るだけのビートで、低い声で畳みかけるようなラップをするのはなかなかの衝撃です。
「俺は殺し屋、奴も殺し屋、 彼女も殺し屋 ビッチ」という繰り返えしのラインが印象的です。
 
ラップ・スタイルに着目すると、ビッグ・ステッパーが一定の低いトーンのまま早口で自分の罪をまくしたてます。
まるで、自らを告白する機械と化し、それをオルター・エゴに語らせることで、自分自身が直接罪と向き合うことを避けているかのようです。
「触れたくないが言う必要がある」時の自我の防衛機制(※)が良く表れています。
曲の冒頭で床を踏み鳴らす音が鳴っていることも覚えておいてください。
この意味は8曲目の"We Cry Together"の最後でわかります。
 
(※) 自我防衛機制:不安や不快な感情を和らげるために、無意識のうちに働く心理的な機能。

4.Die Hard

この曲では、ケンドリックが浮気をしたことで(一時的に)去ってしまったホイットニーに対して、彼女の愛と信頼を取り戻したいという思いを伝えています。
 
また、この曲での君(ホイットニー)は、HIPHOPもしくはリスナーのメタファーでもあります。
「本当の俺を打ち明けたら君は俺を否定するのかな」、「君はどれくらい俺を受け入れてくれるんだろう」といったラインは、奥さんに対してと同時に、HIPHOPやリスナーに対しても発しています。
 
ケンドリックは過去の作品でもたびたび「俺についてきてくれるか?」とリスナーに問いかけており、リスナーの支持喪失に対する恐れは、おそらくケンドリックの長年の強迫観念です。
 
サウンドは、客演のブラストとアマンダ・ライファーがメロディを歌うことでかなりR&Bっぽい印象です。
ゆったりとしたグルーヴが実に気持ちが良い。
弱みをさらけ出したケンドリックのラブソングは、なかなかにグッと来ます。

5.Father Time

冒頭、嫁ドリックが「あなたにはセラピーが必要よ」と言いますが、ケンドリックは「本物の男にはそんなもの必要ねぇ」とはねつけます。
それでも説得され、嫁ドリックが「エックハルト(セラピスト)に連絡するわよ」と言い曲が始まります。
 
この曲でケンドリックは、父親に男らしさを叩き込まれたことに触れ、そうしたステレオタイプな価値観の押しつけは実は苦しかったんだ、と語ります。
これまでケンドリックは、父親不在の家庭が多いコンプトンで、自分には父親がいたことでいかに道を外さずに生きてこられたかを強調し、感謝してきました。
それに偽りは無いでしょうが、この曲では父親が押し付ける価値観について苦しさを叫んでします。
 
客演のサンファの歌うフックが、ステレオタイプな男らしさ、父親らしさを表現しており、とても良いです。
 
 朝早く起て、休みの日に子どもの練習に付き合う
 厳しさのある愛情、なぜ厳しくするかはあえて隠す
 酒を飲むのに氷なんか入れないしチェイサーも
 飲まない
 
いかにも一昔前の厳しい親父、って感じです。
イントロでの会話「本物の男にはそんなもの必要ねぇ」が効いてます。
 
サウンドはゆったりとした西海岸風トラップですが、オルガン風のエレピが懐古的な響きで良いです。
サンファの歌うフックが、懐かしみと愛情と苦しさが入り混じったような雰囲気でグッときます。
 
このセッションも、今まで胸に秘めてきた認めたくない内面をさらけ出すものだったのでしょう。
曲の冒頭と最後で床を踏み鳴らす音が鳴ります。

6.Rich (Interlude)

ピアノのリフレインが流れる中、客演のコダック・ブラックがラップします。
本曲でケンドリックは登場しません。コダック・ブラックのみです。
 
コダック・ブラックの経験してきた壮絶な人生が語られます。
盗まなければ食事にありつけない程の「貧困(パヴァティ)」で始まり、「不動産(プロパティ)」を所有するほどの経済的成功を収める現実まで駆け上がっていく。しかしその間にはドラッグ売買や暴行など数々の犯罪に手を染めてきた。
 
コダック・ブラックは、暴行や児童虐待などで何度も逮捕歴がある、犯罪のデパートみたいなラッパーです。
このアルバムへのコダックの参加について、「コダックはケンドリックに相応しくない」という意見を少なからず目にしました。
この曲では、犯罪を肯定するつもりはないが、彼が罪に手を染めねばならなかった環境について知るべきだと言いたいのでしょう。
この曲と14曲目"Savior"の「コダック・ブラックの方がよっぽど俺に近い」というラインと合わせると、この曲でのコダック・ブラックの惨状は、自分を含む多くのアフリカ系アメリカ人に共通したものだ、と読み取れます。
また、2曲目”N95”ではキャンセルカルチャーを否定しており、これは、環境から罪を犯した者つまりコダック・ブラックをあえて起用する意味を説明しています。
現実の行動と各曲にまたがったリリックで作品のメッセージを構成するとは…。
凄すぎる。

7.Rich Spirit

前曲では経済的な「リッチ」がテーマでしたが、本曲のテーマは精神的な「リッチ」です。
 
これまでのアルバムで、成功者になることで重圧、批判、誤解などにさらされ、自分を誘惑利用しようする圧力と戦ってきたことが語られました。
この曲でケンドリックは、そうした自らの気高い姿勢と資質を認めています。
 
静かでリラックスしたグルーヴが、気負うでもなく、アピールするでもなく、素直に自分のしてきたことを認める様を表しています。
穏やかで哀愁を帯びた良い曲です、沁みます。

8.We Cry Together

アフリカ系アメリカ人夫婦の喧嘩と仲直りの様子です。
ケンドリックと女優のテイラー・ペイジが迫真の演技で罵り合い、傷つけ合い、最後仲直りします。
 
この曲は凄い、衝撃です。
二人は6分近い曲の中で、考えられるかぎりの汚い言葉で罵り合います。
そしてその罵り合いがラップになってるから凄いのです。
なんか聴いちゃうんですよ、この口汚い口喧嘩を。
 
後にケンドリックはインタビューで語っています。
「あの歌は、俺たちが適切なコミュニケーションをとる訓練を受けていないと、どのように愛を表現するかを示している。俺たちアフリカ系アメリカ人コミュニティではとても一般的なものだ。」
ケンドリックは、ここでも社会環境の影響をリアルに語っています。
 
スローなドラムとピアノの繰り返しのビートが妙にハマります。
遠くに流れるギターのフィードバック音が不穏な感じでとても良いです。
 
曲の最後に床を踏み鳴らす音が鳴り、嫁ドリックが「会話中にタップダンスは止めて」とつぶやいて曲が終わります。
つまりこれまで鳴ってきた床を踏み鳴らす音は、ケンドリックがタップダンスをする音です。
そしてその音は、自分が不安な時、向き合いたくないとき、触れたくない事柄を語らねばならない時に鳴ります。
いわば無意識に出てしまう貧乏ゆすりのようなもので、自我防衛機制が発現する音です。
実際のセッションでは、貧乏ゆすりをしたり爪を噛んだりしたのでしょうが、音として表すためにタップダンスの音にしたのでしょう。
嫁ドリックのさりげない会話といい、音楽に情報をのせる手腕が本当にスゴい。

9.Purple Hearts

「パープル・ハート」とは、負傷したり死亡した兵士に贈られる米軍の勲章であり、犠牲と勇気の象徴として知られている。
ケンドリックはこの曲で、自分がトラウマをかかえて傷ついていたことを認め、許容しはじめています。
 
ゆったりとして前向きな明るいビート。
緊張感が続いた[Big Steppers]ブロックの最後はホッとできる良曲で終えることができます。
客演のサマー・ウォーカーがメロディを歌い、チルなR&Bになっています。

[Mr. Morale]

10.Count Me Out

冒頭聖歌隊の様なコーラスが流れます。フェーズが変わりました。
 
 この暗い道でどちらへ進めばいいか分からない
 くだらないヤツらが事を難しくしている
 
セラピストと嫁ドリックのセリフをきっかけに曲が始まります。
 
 エックハルト・トール
 「ミスター・ダックワース(ケンドリックの姓)?」
 ホイットニー
 「セッション10、ブレイク・スルー」
 
セラピストの呼びかけは、このアルバムがセラピーであることを思い出させます。
ホイットニーは、後に振り返った結果、この10回目のセラピー・セッションがブレイク・スルーであったと主張しています。
 
この曲でケンドリックは、他人を気にしすぎ考えすぎて傷ついた自分を認めます。
そして自分を信頼し優先することを意識し始めます。
 
「俺を外してもらってうれしい」と繰り返しますが、どこか拗ねたような声色です。
また、このラインの時に「ファッ!フゥッ!」と苦しそうに喘ぐ声が重ねられます。
俺のことは放っておいてくれと強がってはいるが、皆の関心を失うのも怖いという感じを受けます。
 
サウンドはトラップですが、全編を通じて聖歌隊のような女性コーラスが流れています。
ケンドリックの作品においては、これは内省や心の声を強調したいときに使われます。
 
曲の最後では「(俺以外に)ストレスと戦っているやつはいるか?」と問いかけ、タップダンスの音が鳴り、終わります。
最後のラインとタップダンスの音は、自分の中の相反する想い(俺のことは放っておいて欲しいが皆の関心を失うのも怖い)に不安と苛立ちを覚えている証拠です。
 
ここでは、自分の中の矛盾に苛立ちを覚えながらも、「自分を優先し他人を気にしない」ということに気づき始めました。
この気づきは改善に向かう重要なきっかけです。
ホイットニーが言うところの「ブレイク・スルー」です。

11.Crown

「自分を優先し他人を気にしない」という気づきから一歩進み、「すべての人たちを喜ばせることはできない」と繰り返します。
 
アルバムジャケットで触れた通り、"Crown"は心の重圧の象徴です。
あれだけ夢見ていた成功は、自分に重圧をもたらしていたのだと素直に認めます。
自分は時代の救世主であるべきだが、それを捨てる選択肢もあるのだと気づくことが出来たのです。
 
サウンドは、ピアノの弾き語りでのラップです。
静かで冷静な声色のモノローグの様なフローですが、低音の声と高音の声が重なったり交互に出てきたりしており、まだまだ揺れる心を表しています。

12.Silent Hill

ケンドリックは自分の心の中にある「静寂の丘」で想いを馳せます。
歌詞の中に「瞑想」という言葉が出てくるので、ケンドリックは瞑想を学んで静寂の時間を持つことを覚えたのでしょう。
この曲は、瞑想ではないが、そんな心の静寂の中で思考を自由に遊ばせ、感じるままに空想しているような曲です。
 
ケンドリックのヴァースでは、自分に近寄ってくる油断ならないフェイクな連中を押しのけようとします。
客演のコダック・ブラックのヴァースでは、常にサヴァイヴァルモードでなければならなかった日々を振り返ります。
さしずめコダック・ブラックは、ケンドリックの若かりし頃という役割なのだと思います。
 
サウンドは気持ちの良いトラップで、ビブラフォンのような響きのシンセが絶妙です。
空想上の「静寂の丘」を思わせます。
 
そして歌詞と声色がとても興味深い。
まず歌詞がちょっと幼児退行しています。
 
 こいつらを「フー」って押しのけろ
 
声色からは幼さと脱力した感じを受けます。
これまでの自分に向き合うセッションで疲れ、ちょっとした脱力感が訪れている感じです。
そのために心の防御が低下し、それが幼さと素直さを引き出している様です。
 
この曲でケンドリックは、力なく「ストレスが溜まってきている」と繰り返します。
5曲目の"Father Time"で「本物の男にはセラピーなんていらねぇんだ」と言っていた人が、今は自分のストレスを素直に認めています。

13.Savior (Interlude)

冒頭エックハルト・トールのセリフで曲が始まります。
この言葉は17曲目"Mother I Sober"に繋がる重要なキーワードにもなっています。
 
 エックハルト・トール
 「あなたが被害者であることからアイデンティティ
 を感じているとしますよね。
 例えば、子供の頃に『悪いこと』をされたとしま
 しょう。
 するとあなたは、自分に起こった嫌なことに基づいた
 自己意識が芽生えるのです」
 
ここでラップするのは客演のベイビー・キームです。
ケンドリックは登場しません。
ベイビー・キームは、自分の子供の頃起こった「悪いこと」について語って行きますが、これが壮絶。
 
 勉強をしている間に自分のお袋がラリってるのを
 見たことがあるか?
 クリスマスの翌日におじさんから物を盗まれた
 ことがあるか?
 
ちなみにベイビー・キームはケンドリックの実の従弟です。
ベイビー・キームの体験の多くは、ケンドリックや多くのアフリカ系アメリカ人たちにも共感できる内容であることが示唆されます。
 
サウンドはピアノとストリングスのみ、美しい映画音楽の様です。
 
そしてこのベイビー・キームのラップが素晴らしい!
多彩なフローや声色を駆使し、息もつかせぬフリースタイルを披露します。
特に演奏とのリズム・コンビネーションの妙味が素晴らしい。
凄くエモーショナルです。

14.Savior

冒頭エックハルト・トールのセリフと、それに呼応するような激しいタップダンスの音で曲が始まります。
 
 ケンドリックは君に考えさせたけど、
 彼は君の救世主じゃない
 (タップダンスの音)
 コールは君に力を与えたけど、
 彼は君の救世主じゃない
 (タップダンスの音)
 フューチャーは「紙幣カウンターを手に入れろ」と
 言ったけど、彼は君の救世主じゃない
 (タップダンスの音)
 レブロンは君に敬意を求めたけど、
 彼は君の救世主じゃない
 (タップダンスの音)
 彼は君の救世主じゃないんだ
 (タップダンスの音)
 
1stヴァースでは、メディアに踊らされて過激な発言をする人たち、BLM(ブラック・ライブス・マター)運動に沈黙を守ったケンドリックを攻撃する人たちなどを非難し、「コダック・ブラックの方がよっぽど俺に近い」と主張する。
2ndヴァースでは、人の批判を恐れ本心を言わない社会風潮を批判する。
3rdヴァースでは、「俺はお前の救世主じゃない」「汝の隣人を愛することは俺には難しい」「2パックは死んだ、自分の頭で考えろ」と言い放つ。
そしてコーラスでは、ベイビー・キームが「俺は俺の道を行くが、それでも俺のために喜んでくれるのか?」と繰り返す。
 
ケンドリックは今まで、時代の救世主としての役割を受け入れてきたが、ここにきていよいよそれを放棄すると宣言しました。
彼が神格化してきたものを否定し、自らが目指し引き受けてきた役割を放棄すると宣言するのは、彼にとって敗北にも近い葛藤があったことでしょう。
曲の冒頭の激しいタップダンス音がそれを物語っています。
 
サウンドはピアノと逆再生した様なドラムの音、そして聖歌隊コーラスの様な女性のスキャットです。
聖歌隊コーラスはこの曲が心の声であることを強調しています。
そしてドラムはまるでタップダンスの音の様に聴こえます。つまり曲の全編にわたりタップダンス音が鳴っているのです。
ケンドリックは終始大きな葛藤と戦いながら心の内を叫んでいるということです。

15.Auntie Diaries

この曲でケンドリックは過去を振り返り、自分の価値観を作ってきたものについて思いをはせます。
 
 ケンドリックには、親族に2人のトランスジェンダー
 がいた
 
 一人は、体は女性だが心は男性であるおばさん
 ケンドリックはこのおばさんからラップを書く
 ことを教わった
 男になったおばさんのことが誇りだった
 
 もう一人は、おじさんのデメトリウス
 彼は性転換して「マリアン」となった
 説教師はトランスジェンダーへの嫌悪から、
 皆の前でマリアンをさらし者にした
 ケンドリックは「説教師さん、俺たちは隣人を
 愛すべきでは?法律と心どちらが大事なんですか?」
 と噛みついた
 
 一方ケンドリックは子供の頃「ファゴット
 (ホモ、ゲイを意味する差別用語)」という言葉で
 笑う子供だった
 
 ケンドリックは、ある街でのコンサートを思い出した
 白人女性のファンをステージに上げて一緒にラップ
 すると、彼女が「N*ga」という言葉が含まれた
 リリックを歌ったため、彼は曲を止めて言っては
 いけない言葉があると非難した
 
そして最後のラインが良いです。
 
 矛盾の余地はない、愛を本当に理解するには立場を
 入れ替えてみないと
 ファゴット、ファゴット、ファゴット、
 一緒に言ってもいいんだよ
 お前が白人の女の子に「N*ga」って言わせても
 いいんならね
 
過去の記憶を寓話的に描いた、見事なストーリーテリングです。
白人の女の子に「N*ga」と言わせられない自分は「ファゴット」という言葉を使うべきではない。
自分を形作った価値観を振り返り、自分が大事にしてきたものは何だったのか、これから大事にすべきものは何なのか、そして相手の立場に立って考えてみることの大事さが語られます。
 
心臓の鼓動のようなビートと、静かで落ち着いたフローが内省的です。

16.Mr. Morale

冒頭、誰かの放送のサンプリングが流れます。
何かの試合で応援チームが大敗したときのものの様です。
 
 俺が今まで見た中でも最悪のプレイだ
 怒りで煮えたぎって夕べは眠れなかったぜ
 
曲が始まり、6/8拍子の重く緊張感のあるビートに女性の詠唱のようなコーラス。
ケンドリックの苦しそうな喘ぎ声が激しく響く。
この曲は相当激しいセッションになりそうです。
 
1stヴァースは息子のエノクに語る。
 お父さんは(デジタル)デトックス中なんだ
 俺はちょっとおかしくなってる
 外に存在する悪魔を撃退している
 俺は半神半人として知られているんだ
 俺の思考はクリエイティブだ
 時に俺自身のオープンマインドが怖くなる
 
2ndヴァースは娘のウジに語る。
 父さんは深い瞑想の中にいるんだ
 俺の魂は起きているが脳は眠っている
 俺はレベルアップした
 信仰のもとにいくつもの剣を研ぎ澄ましている
 俺の母は若いころに性的虐待を受けていたんだ
 
ケンドリックは、あらゆる努力をし自分が新たに力を獲得した、と家族に語ります。
しかしその攻撃的な激しいフローは何なのか、とても家族に語る口調ではありません。
まるで、心に不安を隠している人が、「俺は努力しているんだ、良くなったんだ、俺は大丈夫なんだ」と必死でアピールしているかの様です。
自分を深く見つめ弱さを認めることは、これまでの自分を否定するようでとても苦しい。
フックの「誰が俺たちのような正直者なんだ」というラインが、苦しくも向き合っている様を良く表しています。
 
フックでの「俺たち」という言い方が、ケンドリックは一人で戦っているのではなく、家族と共に問題に取り組んでいることを示しています。
また、ケンドリックのトラウマに根ざす問題は多くのアフリカ系アメリカ人に共通するものであり、個人だけの問題ではないことを示唆しています。
 
終始詠唱のような女性スキャットが流れ、時折ケンドリックの苦しい喘ぎ声が重なります。
さらに頭の中でセラピストが「人はこの痛みを抱えた体に乗っ取られてしまうのです」と語ります。
ケンドリックの頭の中はいろいろな声が鳴り、相当混乱している様子がわかります。
 
ケンドリックの激しい喘ぎ声はこのセッションがとても苦しいものであることを表し、詠唱のような女性のスキャットは祈りの様です。
まるで「神様、俺にこれをやり遂げせてくれ!」という心の叫びが聴こえる様です。
真のブレイク・スルーを得る直前の苦しい状態が良く表現されています。
曲もエッジーでカッコいいし、本当に素晴らしいプロダクションです。
 
「俺の母は若いころに性的虐待を受けていた」というラインが次曲の大きな見解に繋がります。
ケンドリックは自分の娘にわざわざ「君の祖母が性的虐待を受けていた」ことを伝える必要があったのです。

17.Mother I Sober

最後のセッションです。
ケンドリックはここで、過去の出来事に想いを馳せ、現在の自分の苦悩の源泉と向き合います。
13曲目"Savior (Interlude)"のエックハルトの言葉が思い出されます。

 「子供の頃自分に起こった嫌なことに基づいた
 自己意識が芽生える」
 
ケンドリックは子供の頃の思い出を語ります。
 
 俺の母は性的暴行を受けていた
 その時俺は5歳だったが、銃を手に取るべきだったな
 
 7歳の時「従弟に体を触られなかったか」と聞かれた
 「彼は触れてきていないよ」と言っても母は信じて
 くれなかった
 あの空気が凍りつく瞬間は今も覚えている
 自分を信頼するのは大変だった
 その問いが俺にトラウマを感じさせたんだ
 
続いて呼応するように現在の自分の罪を告白します。
 
 何にも依存しなかった。ただ1つを除いて
 その事に中毒になっていた
 今まで言及してこなかったが俺の中には淫らな面が
 あった
 心に不安定なものを投げかけてしまったんだ。
 妻以外の女と寝ていたんだ
 
フックでは、客演のベス・ギボンズ(ポーティスヘッド)が消え入るような震える声で優しく歌います。
 
 自分が他の誰かになれたらいいのに
 
さらに、母の虐待と、これまでアフリカ系アメリカ人が置かれてきた環境とについて考えます。
 
 俺たちの先祖が奴隷として扱われていた時、
 奴隷商人たちは俺たちの母や姉妹をレイプした
 そしてそれを見せられた男たちが自発的にレイプを
 始めてしまった
 それが精神の拷問として今の俺たちをも蝕んでいる
 しかもそれに気づいていない
 
そして自分のしてきたこと、しようとしていることの意味を理解します。
 
 母が恥として隠してきた傷の全てから彼女を
 解放するんだ
 依存や虐待に溺れた人々全員を安寧の地に
 解放するんだ
 変わるなら今しかないんだ
 
母は自身が虐待を受けていたため、息子の潔白を信用できず、それがケンドリックの無意識に傷を負わせました。
ケンドリックの性依存は、おそらくそのトラウマに起因するものです。
また、母の虐待は、世代を超えて連鎖する、アフリカ系アメリカ人という人種が持つトラウマによるものです。
彼はこれまで自分がしてきたことは、そうした人たちを開放するための戦いだったのだと認識しました。
 
そうした背景での「自分が他の誰かになれたらいいのに」はとても深いです。
もしも虐待経験のない母のもとに生まれたら、もしも従弟がゲイでなかったら、もしもアフリカ系アメリカ人として生まれなかったら、もしも自分が成功しなかったら、もしも自分が時代の救世主でなかったら、自分が他の誰かだったら、どんなに楽だったろう。
そのたくさんのもしもの中で、「他の誰かになりたい」ではなく「なれたらいいのに」というのは、「自分自身から逃げることはできない」ということを認識した表現です。
 
サウンドは静かなピアノの繰り返しに柔らかいバスドラムのキック。
そこに静謐な女性のスキャットが流れます。
 
曲の最後では妻のホイットニーと娘のウジがケンドリックに賛美を送ります。
 
ホイットニー
 あなたは成し遂げたのよ。誇りに思うわ
 あなたはこの時代の呪いを解いたのよ
 ほら、「お父さん、ありがとう」って言いなさい
 
ウジ
 ありがとうおとうさん
 ありがとうおかあさん
 ありがとうブラザー
 ミスター・モラル
 
悲惨な虐待の世代連鎖を止める、つまり娘にはそんな思いはさせない、と宣言し、家族からの感謝を得ました。
ケンドリックは、苦しく長い旅を終え、ついに心の平安にたどり着いたのです。
実に感動的です。
 
曲が終わると、聖歌隊の様なコーラスが流れます。
フェーズが変わり、一連のセラピー・セッションが終わったのです。
 
 俺が眠りにつく前にありのままを愛してくれ
 (タップダンスの音)
 心を打ち明けた今俺たちは自由を手に入れたんだ
 
最後にタップダンスの音が鳴りますが、その音は力強く、どこか確信的です。
今後ケンドリックの中でタップダンスの音が無くなることはありませんが、折り合いをつけて共に生きて行く感じを受けます。
表現が実にリアルです。

18.Mirror

大きな成長をとげたケンドリックは、ついに救世主の王冠を外し、彼もひとりの人間であると宣言します。
 
穏やかに、軽やかに、この一連のセッションとそこで得た見解を振り返ります。
「君自身の為に不満の種を映す鏡を手入れてくれないか」というラインがとても良いです。
フックでは「すまないけど、俺は自分を選ぶよ」と繰り返します。
 
サウンドは軽快な西海岸風トラップ。
そしてなんとケンドリックが歌ってます!がっつり歌ってます!
 
ラッパーであるケンドリックが歌うことで、これまでの既成概念にとらわれない新たなケンドリックとなった印象を受けます。
サウンドも他の曲と違って開放的です。
このNewケンドリックを見せる手法は、”good kid, m.A.A.d city"の最終曲"Computon"でもありました。
 
「ごめん、俺は自分を選ぶよ」といって歌うケンドリックを見せられると、「もしやもうラップ・ミュージックから卒業しちゃうのか?」と早合点しそうですが、ブリッジの16小節だけしっかりとラップしていてホッとします。
この辺のバランス感覚もニクいですね。
 
それにしてもケンドリックの歌がイイ!
歌っても凄く良い声だ。
こらからも時々歌ってくれ。
 
最終曲は、深い感動と、ホッとする解放感と、何とも言えないカタルシスがあります。

まとめ

自身のセラピーセ・ションをそのままアルバムにした作品なんてこれまで出会ったことがありません。
ここまで赤裸々に深く自分をさらけ出した作品は珍しい。
 
おそらく実際のセラピー・セッションは、もっと苦しく混沌としたものだったのでしょう。
例えば17曲目"Mother I Sober"の歌詞の中に「この曲を書きながらトラウマが増大していく、神経が高ぶって体が震える」というラインがあります。
CD版の翻訳を担当した塚田圭子さんは「あまりのヘヴィな内容に、嗚咽と号泣を繰り返した」と語っています。
 
また、非常にパーソナルな内容を、リスナーが理解共感し、かつ楽しめる形で提示するのは至難の業であったと思います。
使われなかったアイデア、素材、断片が、アルバムに収録された数倍は存在するでしょう。
 
そしてストーリーテリングとプロダクションが本当に素晴らしい。
前半[Big Steppers]では、抵抗しながらも自分の苦悩を徐々に開示していき、後半[Mr. Morale]でその源泉を探る旅に出ます。
その中で、まるで心理学者の監修でもついているのかと思ってしまうほど、隠れた心の揺れが音楽として表現されます。
 
深くパーソナルなテーマを万人に共通する形で提示し、高度な音楽性で仕上げられた超名盤です。
ケンドリックの作品群の中で、僕が最も好きな作品です。


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