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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第十五章 ラ・ピュセルの死後/羊飼いの終焉/アルモワーズ夫人

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』完訳プロジェクト。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

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⚠️字数が多い(25,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

15.1 火刑の後始末:フランス復権に備えた免責状

b 夕方、火刑が終わると、処刑人はいつもの習わし通り、泣き言を伝えて物乞いをするために托鉢修道士たちがいる修道院へ行った。
 その哀れな被造物(creature)はジャンヌを死なせるのが非常に難しかったと不平を漏らした。

⚠️哀れな被造物(créature):化け物じみた生物のこと。神の被造物に対する悪魔の被造物。言いなりになる者、権力の手先というニュアンスもある。

 後世に作られた伝説によると、処刑人は修道士たちに「聖人を火刑に処したことで天罰が下るのではないかと恐れている」と語ったという。[985]

 もし実際に副審問官の館でそのように話していたなら、彼はただちに最下層の地下牢に投げ込まれ、そこで異端審問を待つ羽目になっただろう。そして、その裁判はおそらく、彼が聖人と呼んだ彼女に与えたのと同じく、死を宣告される結果になっただろう。

 そもそも、善良な副審問官ジャン・ル・メートルとボーヴェ司教によって断罪されたその女が「悪女ではなかった」などと、一体何が彼にそう考えさせるに至ったのか?

 実のところ、処刑人はこれらの修道士たちの前で、魔女を処刑した際に難儀したことと、自分の努力と手柄を主張したかったのであり、ようするに仕事の見返りに一杯のワインを要求しに来たのである。

 修道士たちの一人、たまたま托鉢修道士として居合わせたピエール・ボスキエは、自分の立場を忘れて「乙女に下した宣告は間違っていた」と発言した。

 この言葉を聞いたのは少数だったにもかかわらず、大審問官に伝えられた。

 この件で申し開きをするよう召喚され、ピエール・ボスキエは非常に恐縮した態度で「自分の言葉は全面的に間違っており、異端に染まっていた」と述べ、「ワインをたらふく飲んで泥酔していたときに口走ったにすぎない」と弁明した。

 彼はひざまずき、両手を合わせ、聖母教会、裁判官、そして最も畏敬すべき諸侯に赦しを請うた。

 彼の後悔の念を汲み、また彼の聖職者としての身分と、酩酊状態で発言した状況を考慮して、ボーヴェ司教と副審問官は寛大な措置を示した。

 1431年8月8日に宣告された判決で、彼らはピエール・ボスキエを托鉢修道士の家(修道院)に幽閉し、復活祭までパンと水のみで生活させる刑に処した。[986]

⚠️復活祭(Easter):磔刑にされて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念する祝日。「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝うため、年によって日付が変わるがだいたい3月末〜5月初め。

 6月12日、ジャンヌを裁いた裁判官と陪審員たちは、イングランド大評議会から免責状を受け取った。

 これらの書状の目的は何だったのか?
 フランス陣営から起訴される事態に備えたのか?

 しかし、もしそうなった場合、免責状は彼らにとって益よりも害をもたらしただろう。[987]

 イングランド大法官は、皇帝(神聖ローマ皇帝)と国王をはじめ、キリスト教世界の君主たちにはラテン語で、フランスの高位聖職者、公爵、伯爵、領主たち、そしてすべての都市にフランス語で手紙を送った。[988]

 その中で彼は、「ヘンリー王とその顧問たちは乙女(ラ・ピュセル)に深い憐れみを抱いていた」こと、そして「もし彼らが彼女の死を招いたのだとすれば、それは信仰への熱意とキリスト教徒たちへの配慮によるものである」と伝えた。[989]

 パリ大学も同様の趣旨で、教皇、皇帝、そして枢機卿団に手紙を送った。[990]

15.2 修道士リシャールと聖女隊の崩壊

 7月4日、サンマルタン・ル・ブイヤンの祝日に、ジャコバン修道院の小修道院長(Prior)であり異端審問官だったジャン・グラヴラン師が、サンマルタン・デ・シャンで説教を行った。

 説教の中でジャンヌの行状について語り、彼女が過ちと欠点のために、いかにして世俗の裁判官に引き渡され、生きたまま火刑に処されたかを語った。そしてこう付け加えた。

「4人いたが、そのうち3人が捕らえられた。すなわち、この乙女(ラ・ピュセル)、ピエロンヌと彼女の仲間である。残る1人、カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルは今もアルマニャック派にとどまっている。パリのイノサン墓地やその他の場所で説教をした際、あれほど多くの群衆を魅了したフランシスコ会のリシャール修道士が、これらの女たちを指導していた。彼こそが彼女たちの霊的な父だった」[991]

 ピエロンヌはパリで火刑に処され、彼女の仲間は教会の牢獄で嘆きのパンを食べ苦難の水を飲み、ジャンヌはルーアンで火刑に処されたことで、王室のベギン会修道女の一団はほぼ壊滅状態になった。

⚠️ベギン会(béguine):中世ヨーロッパで生まれた半聖半俗の姉妹団体。修道会とは異なり、正確にいえば修道女ではない。望まぬ妊娠をした人や行き場のない独身女性など、ある意味、教会が取りこぼした弱者の駆け込み寺のような互助組織・共同体。フランス革命を契機に衰退したが、かつてフランス王国だったオランダやベルギーに残っている。

 国王のもとには、パリの役人の手から逃れたラ・ロシェルの聖女だけが残っていたが、彼女の無分別なおしゃべりは、彼女を厄介な存在にしていた。[992]

 自称・聖女たちが信用を失っている間に、善良なリシャール修道士自身もまた不遇な時を迎えていた。

 ポワティエ教区の代理司教と異端審問官は、彼に説教を禁じた。

 あれほど多くのキリスト教徒を改心させたこの偉大な雄弁家は、男たちの賭博台やサイコロ、女たちの華美なファッション、着飾ったマンドレイク(マンドラゴラ)に対して雷を落とす(激しく非難する)ことができなくなった。それどころか、反キリストの到来を告げることも、差し迫った世界の終末とその先触れとなる恐ろしい試練に備えて、魂を準備させることもできなくなった。

 修道士リシャールは、ポワティエのフランシスコ会修道院に拘留するよう命じられた。

 彼がこの命令に素直に従わなかったことは間違いない。なぜなら、1431年3月23日の金曜日、教区司教と異端審問官はポワティエ高等法院に「判決を執行するための支援」を求め、高等法院がそれを拒まなかった記録が確認できるからだ。

 なぜ聖なる教会は、罪深い魂を動かす力を授かった説教者に対して、これほど厳しい態度を取ったのか?

 少なくとも、その理由は推測できる。しばらく前から、イングランドとブルゴーニュの聖職者たちは、修道士リシャールを背教と魔術の罪で告発していた。

 今や彼は、教会全般から、とりわけガリア教会の統一とキリスト教世界の輝ける太陽であるパリ大学の権威ゆえに、イングランド・ブルゴーニュ派の博士たちから誤りや異端の疑いをかけられ、その上、シャルル王に忠誠を誓う聖職者たちからも疑念の眼差しを向けられるようになった。

 特に、カトリック信仰に関わる問題で、パリ大学が不利な判決を下し、イングランド派を支持した場合に、この傾向が顕著だった。

 ピエロンヌの断罪とジャンヌの裁判を経て、ポワティエの聖職者たちがリシャールに偏見を抱くようになった可能性は極めて高い。

 終末思想を説くことに固執したこの善良な修道士は、黒魔術に関与しているという強い嫌疑をかけられた。そのため、彼は自分に迫りくる運命を悟って逃亡し、その後の消息は分からなくなった。[993]


15.3 羊飼いギヨームとヘンリー六世の戴冠式(1)ジャンヌの後継者

 しかし、シャルル王の顧問たちは敬虔な者(予言者や幻視者)を軍隊に起用し続けた。

 修道士リシャールとその伝道者たち(聖女隊)が姿を消した頃は、若い羊飼いを利用していた。フランス王国宰相(大法官)でもあったランス大司教ルニョー・ド・シャルトルが「ジャンヌの奇跡の後継者」だと宣言した、あの羊飼いギヨームのことだ。

 ギヨームが力を発揮することを期待された当時は、次のような状況だった。

 戦争は続いていた。ジャンヌの死から20日後、イングランド軍は大軍を率いて、ルーヴィエの町を奪還すべく進軍した。

⚠️ルーヴィエ(Louviers):ジャンヌが火刑に処されたルーアンの南20キロにある町。

 彼らがそれまで進軍を先延ばししていたのは、一部の者が述べているように、ジャンヌが生きている限り何をやっても成功しないと諦めていたからではない。包囲戦の軍資金と攻城兵器を調達する時間が必要だったからだ。[994]

 同年7月と8月、サンリスとボーヴェでは​​、ランス大司教(ルニョー・ド・シャルトル)とブサック元帥がフランス軍を支えていた。

 ランス大司教が精力的にフランス軍を支えていたことは確かである。なぜなら彼は(フランス軍を支えると)同時に、彼にとって非常に大切な聖職禄を守っていたからだ。[995]

 かつて乙女が奪還したそれらを、彼は今、少年に防衛させようとしていた。

 この目的のために、大司教はロゼール山地出身の小さな羊飼いギヨームを起用した。彼はアッシジの聖フランチェスコやシエナの聖カタリナのように聖痕があった。

 フランス軍の一団が、イングランド摂政ベッドフォード公をマントで奇襲し、捕虜にする寸前まで追い詰めた。

⚠️マント(Mantes):イル・ド・フランスとノルマンディーの境界にある重要な水路で、商業的・軍事的な要衝。

 ルーヴィエを包囲していたイングランド軍に警報が伝わり、2〜3個中隊の兵士が派遣された。彼らがマントに急行すると、摂政はすでに逃亡に成功してパリに到着したことを知った。

 その後、グルネーやその他のイングランド守備隊からの援軍が加わり、ウォリック伯、アランデル伯、ソールズベリー伯、サフォーク伯、それからタルボット卿、トマス・キリエル卿が指揮する約2000人にのぼるイングランド軍は、大胆にもボーヴェへの進軍を開始した。

 フランス軍は彼らの接近を知ると、夜明けに町を出発し、敵軍を迎え撃つためにサヴィニー方面へ進軍した。
 シャルル王の軍勢は800人から1000人で構成され、ブサック元帥、ラ・イル隊長、ザントライユ隊長らが指揮を執っていた。[996]

 彼らが神から遣わされたと信じていた羊飼いギヨームは、両手と両足、左の脇腹にある奇跡の傷(聖痕)を見せつけながら、馬に横乗りで、軍隊の先頭に立っていた。[997]

 町から1リーグ(2.5マイル/4キロ)地点まで来たとき、まったく予想していなかった矢の雨が降り注いだ。

 斥候からフランス軍の接近を知らされたイングランド軍は、道の窪みで待ち伏せしていた。彼らは前方と後方から挟み撃ちで接近し、激しい攻撃を仕掛けた。

 両軍とも勇敢に戦った。相当数の兵士が戦死したが、これは異例のことだ。当時の戦闘では逃亡兵以外が殺されることは稀だったからだ。

 包囲されていると感じたフランス軍はパニックに陥り、自滅を招いた。彼らの大部分は、ブサック元帥やラ・イル隊長と共にボーヴェの町へ逃げ帰った。

 だが、ザントライユ隊長と羊飼いギヨームは敵軍の手中に落ち、イングランド軍は勝利の凱旋をしながらルーアンに帰還した。[998]

15.4 羊飼いギヨームとヘンリー六世の戴冠式(2)祝賀行事と見世物の処刑

 ザントライユ隊長は、慣例通りに身代金を払って解放されると確信していた。
 しかし、小さな羊飼いはそのような運命を望むことはできなかった。羊飼いギヨームは異端と魔術の疑いをかけられた。キリスト教徒を欺き、偶像崇拝的な崇敬を受け入れていたからだ。

 彼がその身に受けていた「救世主の受難のしるし(聖痕)」は何の役にも立たなかった。それどころか、フランス陣営が神の刻印と考えた傷は、イングランド陣営には悪魔の刻印のように映った。

 ギヨームは、ジャンヌと同じくボーヴェ教区で捕らわれた。
 ジャンヌを裁く権利を主張したこの町の司教ピエール・コーションは、ギヨームについても同様の権利を主張した。

 羊飼いギヨームは「乙女」には拒否された待遇を与えられた。つまり、教会の牢獄に入れられたのである。[999]

 ギヨームはジャンヌほど監視が難しくなく、重要度も低いと思われたようだ。

 しかし、イングランド人は異端審問の煩雑な手続きについて最近知ったばかりで、それがどれほど長くかかり、どれほど形式張っているかを学んでいた。その上、この羊飼いが異端の罪で有罪判決を受けても、自分たちに何の利益があるのか​​理解していなかった。

 フランス人が、ジャンヌと同じようにギヨームに戦勝祈願を託していたとしても[1000]、その希望は長くは続かなかっただろう。

 羊飼いの少年が悪魔から遣わされたことを証明して、アルマニャック派に恥をかかせたところで、労力に見合う価値がないと見なされた。

 羊飼いの少年はルーアンへ送られ、そこからパリへ連れて行かれた。[1001]

 羊飼いギヨームが虜囚となって4カ月後、9歳になるヘンリー六世が、フランスとイングランドの二つの王冠を戴くために、パリのノートルダム大聖堂で戴冠式を行うべくやって来た。

 12月16日の日曜日、彼は盛大な儀式と大きな歓喜のうちにパリ市内に入城した。

 行列の道沿い、ポンソー・サンドニ通りには、3人のセイレーン像で装飾した噴水が作られた。セイレーンの中央からは背の高いユリの茎が伸び、そのつぼみと花からワインとミルクが湧き出ていた。
 人々はその噴水を飲もうと群がり、その周りでは野蛮人に扮した男たちがゲームや模擬戦で人々を楽しませていた。

 サンドニ門からマレ地区のサンポール邸まで、幼い国王は、金の百合の紋章が刺繍された大きな紺碧の天蓋の下を騎行した。

 紫色の衣装を着てフードをかぶった4人の市会議員(参事会員)に先導され、それから織物商、食料品商、両替商、金細工師、靴下商のギルド組合員が続いた。
 彼の前を伝令(前衛)25人とラッパ奏者25人が進み、後ろには華麗な甲冑を身につけて大きな盾を持った美男子9人と美女9人が続いた。彼らは九勇士(preux)と九女傑(preuses)を象徴していた。さらに、多数の騎士と従騎士も続いた。

⚠️勇者と女傑(preux/preuses):中世騎士道文学に登場する武勇に優れた騎士、勇士のこと。

 この華やかな行列の中に、哀れな羊飼いギヨームの姿があった。彼はもはや受難の傷跡を見せつけるために両腕を広げることはなかった。厳重に縛られていたからである。[1002]

 儀式が終わると牢獄に連れ戻され、その後、彼は袋に縫い合わされてセーヌ川に投げ込まれた。[1003] フランス陣営でさえ「ギヨームは単なる愚か者で、彼の使命は神からのものではない」と認めていた。[1004]

15.5 リッシュモン大元帥の復帰

 1433年、リッシュモン大元帥はシチリア女王(ヨランド・ダラゴン)の協力を得て、ラ・トレモイユの捕縛と暗殺を企てた。シャルル王のために顧問官を任命し、その後殺害するのが当時の貴族たちのやり方だった。

 しかし、ラ・トレモイユに死をもたらすはずだった剣は、彼の肥満体に致命傷を与えることができなかった。ラ・トレモイユの生命は助かったが、権勢は死んだ。

 シャルル王は、かつてラ・トレモイユの所業を容認したのと同様に、リッシュモンを容認した。[1005]

 ラ・トレモイユは自分自身の繁栄に執着し、王国の安寧に無関心だったという評判を後世に残した。おそらく彼の最大の過ちは、戦争と略奪の時代に統治していたことにある。当時は敵も味方も同様に王国を荒らしていた。

 彼はジャンヌを破滅させたとして非難され、彼女に嫉妬していたからだと言われているが、この話はラ・トレモイユと不仲だったアランソン家から生じたものだ。[1006]

 それどころか、宰相(ランス大司教)に次いで、ラ・トレモイユはジャンヌをもっとも積極的に起用した人物だったと認めなければならない。仮にジャンヌが彼の計画の邪魔になったとしても、ラ・トレモイユがジャンヌを破滅させるためにイングランド軍に引き渡した証拠は何もない。

 ジャンヌはみずからの熱意に呑み込まれて身を滅ぼし、焼き尽くされたのである。

 正しかろうと間違っていようと、侍従長ラ・トレモイユは悪人とみなされた。

 そして、王の寵愛を受ける後継者となったリッシュモン卿は、貪欲で、冷酷で、凶暴で、信じられないほど愚かで、無愛想で、悪意を抱き、いつも疲れ果てていて、いつも不満を抱いていたが、この交代劇は損失にはならなかったようだ。

 大元帥(リッシュモン)は、ブルゴーニュ公がフランス王と和解しようとしている幸運な時期に復権したのである。

 あるカルトゥジオ会修道士の言葉を借りれば、「モントロー橋でジャン公(ブルゴーニュ無怖公)の頭に開けられた穴から王国に侵入したイングランド人は、フィリップ公の手によって、ようやく王国の支配権を維持することができた」とある。

 (フランスに侵入した)イングランド人はわずかな人数だった。
 それゆえに、もし巨人がその手を引けば、一吹きの風で吹き飛ばされるだろう。

 イングランド摂政ベッドフォード公は、ヘンリー六世誕生にまつわる占星術の予言が実現するのを眺めながら、悲しみと怒りに駆られて死んだ。

「ウインザー(※原文Exeterと書かれているが誤記)は
 モンマスが勝ち得たものを失うだろう」[1007]

 1436年4月13日、フランス大元帥リッシュモン伯爵がパリに入城した。
 ブルゴーニュ派の聖職者とカボシャン派の博士たちの乳母であるパリ大学自身が、和平の仲介役を務めた。[1008]

⚠️ウインザー(Windsor)とモンマス(Monmouth):前者がヘンリー六世の誕生地で、後者はヘンリー五世の誕生地。ヘンリー六世の誕生にまつわる占星術と予言のいきさつは、上巻・第十二章『12.8 オルレアン到着2日目(2)』参照。

⚠️訳者のこぼれ話:著者アナトール・フランスは、リッシュモンについて「ブルゴーニュ公がフランス王と和解しようとしている幸運な時期に復権した(たまたま運が良かった)」と低評価を下しているが、少しフォローしておきたい。
宮廷から遠ざかっている間も、妻(ブルゴーニュ公の姉)を通じてシャルル七世とブルゴーニュ公の和解を働きかけ、また、英仏間で巧妙に立ち回る実兄のブルターニュ公をフランス陣営に引き止めるなど、決して軽くない働きをしている。
フランス大元帥に就任して以降は、どれほど冷遇されてもシャルル七世の敵方に与することは一度もなく、やや強引で押し付けがましいとはいえ忠義の人であることは間違いない。

15.6 ジャンヌ・ラ・ピュセル再臨(1)兄弟と再会

 パリがシャルル王への忠誠を回復してから1カ月後、ロレーヌにある若い女性が現れた。彼女は25歳くらいだった。

 それまで彼女はクロードと呼ばれていたが、この時はメスの町の何人かの貴族に「自分はジャンヌ・ラ・ピュセルだ」と名乗った。[1009]

 この当時、ジャンヌの父と長兄は亡くなっていた。[1010] 母のイザベル・ロメは存命だった。彼女の末の息子2人はフランス王に仕えており、国王は彼らを貴族に取り立て、デュ・リスという名を与えていた。

 年長のジャンはプチ=ジャンと呼ばれ[1011]、ヴェルマンドワの代官(Bailie)に任命され、次いでシャルトルの隊長(capitaine)になった。1436年当時は、ヴォークルールの司法官(provost)と隊長を務めていた[1012]

⚠️ヴェルマンドワ(Vermandois):フランス北東部にあるピカルディ地方の伯爵領。当時は王領。

⚠️シャルトル(Chartres):フランスの中部、パリの南西に位置する都市。

 末っ子のピエール、あるいはピエロットは、ジャンヌとともにコンピエーニュの前でブルゴーニュ派の手に落ちていたが、ヴェルジーの私生児の牢獄から解放されたばかりだった。[1013]

 兄弟は二人とも、妹(姉)がルーアンで焼かれたと信じていた。

 しかし、彼女が生きており兄弟に会いたがっていると聞かされると、ラグランジュ・オーゾルムで会う約束をした。メスの南1リーグ(2.5マイル/4キロ)、セイユ川とモーゼル川の間にあるサブロンの草原にある村だ。

 兄弟は5月20日にこの地に到着した。

 そこで彼女を見つけると、すぐに自分たちの妹(姉)だと認識した。そして彼女も、彼らが自分の兄弟だと分かった。[1014]

 彼女はメスの貴族たちに付き添われていて、その中にはシャルル七世の侍従だったニコル・ルーヴェというかなり高貴な人物も含まれていた。[1015]

⚠️メス(Metz):フランス北東部の都市。なお、ジャンヌがシノンへ旅立つときの護衛の中にジャン・ド・メス(ヌイヨンポン)と呼ばれる人物がいる。上巻・第三章『3.8 ジャン・ド・メスとの出会い』参照。

 この貴族たちはいくつかのしるしを根拠に「彼女こそがシャルル王をランスへ連れて行き戴冠させたジャンヌ・ラ・ピュセルである」と認めた。

 しるしとは、皮膚にある特定の痕跡だ。[1016]

 現在、ジャンヌに関して「耳の下に小さな赤いしるし(あざ)がある」という予言がある。[1017] これはあざについて言及された後に創作されたものだ。実際のジャンヌにそのようなあざがあったと考えてよいだろう。これが、メスの貴族たちが、彼女をジャンヌと認めたしるしだったのか?

15.7 ジャンヌ・ラ・ピュセル再臨(2)予言と武勇伝

 彼女が、どんな手段で死を逃れたと言ったのかわからないが、自分の聖性ゆえに助かったと主張した可能性はありえる。[1018]

 天使が火刑の炎から救ってくれたとでも言ったのだろうか?

 ものの本によれば「古代の円形闘技場でライオンが処女たちの素足を舐めた」だとか、「煮えたぎる油を聖なる殉教者にかけたら香油のように心地よさそうだった」といった逸話が記されている。多くの古い物語によれば「剣以外の何ものであろうと、神の乙女たちの命を奪うことはできなかった」という。

 これらの古代の歴史は、確かな基盤に基づいていた。
 しかし、そのような物語が「15世紀の出来事」として語られたら、いささか信憑性に欠けているように思える。

 この若い娘(自称ジャンヌ)は、自分の冒険を飾るためにそれらの伝説を利用したようには見えない。おそらく「自分の代わりに別の女が焼かれた」と言うにとどめただろう。

 後述するが、のちに自称ジャンヌ本人が語った告白によると、「ローマから来た。そこで甲冑に身を包み、教皇エウゲニウスに仕えて勇敢に戦った」らしい。彼女は、ローマで成し遂げた武勇伝について、ロレーヌの人々に語ったことさえあるかもしれない。

 ジャンヌはかつて、自分自身について「異教徒との戦いで命を落とし、その外套マントはローマの乙女に受け継がれるだろう」と予言した。少なくともそう予言したと信じられていた。

 もしメスの貴族たちがその予言を知っていたら、彼女(自称ジャンヌ)の言い分は、彼女の使命の真実を証明するどころか詐欺師として告発されただろう。[1019] いずれにせよ、彼らはこの女の話を信じた。

 おそらく界隈の多くの貴族と同様に[1020]、彼らはブルゴーニュ公よりもシャルル王に傾倒していたのだろう。
 そして、騎士道精神にあふれた彼らは、その精神をどこで見出そうともそれ(勇敢な行為)を尊重したことは間違いない。だからこそ、彼らはその武勇ゆえに乙女を称賛し、歓迎したのである。

訳者のこぼれ話:なぜメスの貴族たちは自称ジャンヌを受け入れたのか

なぜ、メスの貴族たちは、自称ジャンヌを疑うことなく受け入れたのか?
その心理的な理由について補足。

  • 彼らの性質:彼らは「騎士」であり、騎士としての誇りや行動規範(騎士道精神)を何よりも大切にする。

  • 彼らの価値観:真の騎士は、相手が誰であろうと(たとえ女性であっても)、そこに「勇敢さ」や「武勲」を見つければ無条件に敬意を払う。

  • 結論:彼らは彼女の中に「ジャンヌと同じ勇敢な性質」を見出し、理屈抜きで彼女を称賛し、手厚くもてなした。

ぶっちゃけ、「こまかい整合性よりも、彼女の戦士としてのムードやキャリア(武勇伝)に共感して、騎士同士のよしみで歓迎した」というニュアンス。

15.8 ジャンヌ・ラ・ピュセル再臨(3)

 ニコル・ルーヴェは、自称ジャンヌに軍馬1頭と(乗馬用の)長靴下1対を贈った。軍馬は30フランの価値があり、これはほとんど王に匹敵する金額だ。かつて、国王はソワソンとサンリスでジャンヌに2頭の馬を贈ったが、そのうち1頭は38リーヴル10スー、もう1頭は37リーブル10スーだった。[1021]

 かつてヴォークルールでジャンヌに提供された馬は16フラン以下だ。[1022]

⚠️ざっくり換算すると1フラン=1リーヴルと考えてよいかと。文末で当時の貨幣について補足。

 町の総督ニコル・グロニョー[1023]は、デュ・リス兄弟の妹(姉)に一振りの剣を贈り、オーベール・ブーレーは頭巾(フード)を贈った。[1024]

 いくぶん神話じみた物語を信じるなら、彼女は7年前に老ロレーヌ公を驚嘆させたのと同じ器用さで馬を乗りこなした。[1025]

 自称ジャンヌは、ニコル・ルーヴェにいくつかの言葉を語り、「自分こそがかつてフランスへ旅立ったあのジャンヌ・ラ・ピュセルである」と確信させた。彼女は予言者の雄弁さを持ち、象徴や寓話を用いて語り、自分の目的について一切明かさなかった。

 ジャンヌはかつて「洗礼者聖ヨハネの祝日(6月24日)まで自分の力は発揮されないだろう」と言った。まさにこの日こそが、1429年のパテーの戦いの後、乙女(ラ・ピュセル)がフランスにおけるイングランド人の殲滅の時期として定めた時だった。[1026]

 しかし、この予言は成就しなかったため、二度と言及されなかった。
 もしジャンヌが本当にこの予言を口にしたなら――可能性は十分にありえるが――、誰よりも真っ先にそれを忘れてしまったに違いない。

 そもそも、聖ヨハネの祝日は、賃貸借、定期市、契約、雇用などでよく引き合いに出される期日だ。女預言者の暦が、労働者の暦と同じだった可能性は大いに考えられる。

⚠️補足:ジャンヌが予言した期日が、一般人が「この日までに◯◯する」と掲げるのと同程度の性質だったということ。

 ラグランジュ・オーゾルムに到着した翌日、5月21日の月曜日、デュ・リス兄弟は、彼らが妹と認識したこの女をヴォークルール[1027]の町へ連れて行った。かつて、イザベル・ロメの娘(本物のジャンヌ)がロベール・ド・ボードリクール卿に会いに行った場所だ。

 1436年当時、この町には、ルロワ夫妻やオーベール・ドゥールシュ卿[1028]など、1429年2月にジャンヌ本人と会ったことのある様々な身分の人々がまだ暮らしていた。

訳者のこぼれ話:貨幣・通貨(フラン、リーヴルなど)について覚書


平時でさえ貨幣鋳造所によって金属の含有量にばらつきがあるのに、百年戦争時代はさらに複雑だった。イングランド統治地域で短期間・独自発行していたサリュドール金貨(Salut d'Or)なんてものまである。

ひとつの文脈で、別の通貨体系の単位が混在しているともう訳がわからない…。

今回出てきた、フラン、リーヴル、スーに関して。

  • フラン(franc):パリ貨(parisis)の単位。

  • リーヴル(livre)/スー(sou):トゥール貨(tournois)の単位。

王政時代はトゥールで発行されたトゥール貨の流通量がもっとも多かった。
トゥール貨(リーヴル〜ドゥニエ体系)を基軸に地域通貨を換算すると…

トゥール貨の単位:1リーヴル=20スー(ソル)=240ドゥニエ(denier)

・トゥール貨:パリ貨=5:4
・トゥール貨:ブルターニュ貨=2:3など。

トゥール貨はトゥールのサンマルタン修道院(アンジュー家およびフランク王国(フランス王国の前身)の霊廟)で鋳造しており、貨幣の元締めのアンジュー家の強さがよくわかる。

ちなみに、UKポンドの単位が「£」なのは、ポンドの前身がリーヴルだったから。

英仏二重王国時代・統治地域で流通したサリュドール金貨については、下巻・第三章『下3.4 パリの防衛(4)包囲戦に備える(百年戦争の金貨サリュドールについてこぼれ話』参照。

15.9 ジャンヌ・ラ・ピュセル再臨(4)生存か死亡か、公的な賭博に発展

 ヴォークルールで一週間過ごした後、彼女(自称ジャンヌ)はコルニーとポンタ・ムッソンの間にある小さな町、マルヴィルへ向かった。そこで聖霊降臨祭を過ごし、ジャン・ケナという人物の家に三週間滞在した。[1029]

 彼女が出発する際、メスの住民たちが訪れ、彼女を「フランスの乙女(ラ・ピュセル)」と認めて宝石を贈った。[1030]

 思い返せば、ジャンヌはランスで行われたシャルル王の戴冠式のときに、メスの騎士たちに目撃されていた。マルヴィルでは、ジョフロワ・デシュがニコル・ルーヴェに倣い、自称ジャンヌに馬を贈った。ジョフロワ・デシュは、メス界隈で最も影響力のある家柄のひとつに属しており、1429年に市の書記官を務めたジャン・デシュの親族だ。[1031]

 彼女はマルヴィルから、ノートルダム・ド・リアンスへ巡礼に出かけた。ピカルディの人々からはリエンシュと呼ばれ、後にノートルダム・ド・リエスとして知られるようになった場所だ。

 リアンスでは、黒い聖母像が崇拝されていた。
 言い伝えによれば、この像は十字軍が聖地から持ち帰ったものだ。
 この像を安置する礼拝堂は、ラオン(Laon)とランス(Reims)の間にあった。
 そこで司祭を務める聖職者たちによれば、「ここは戴冠式の行列のルート上にある休憩地のひとつで、国王とその随行員がランスからの帰途に立ち寄るのが慣例だ」と言っていたが、おそらく真実ではないだろう。

 ここがそのような休憩地だったかどうかはともかく、メスの人々が「リアンスの聖母」に特別な信仰心を示していたことは間違いない。

 イングランドの牢獄から脱出したジャンヌが、ピカルディの黒い聖母像に奇跡的に救出されたことを感謝しに行くのは、いかにも「ジャンヌにふさわしい」ように思われる。[1032]

 そこから彼女は、ブルゴーニュ公の義理の叔母にあたるリュクサンブール女公、エリーザベト・フォン・ゲルリッツのもとへ行くためにアルロンへ向かった。[1033]

 二度も夫と死別した高齢の貴婦人で、搾取と圧政によって家臣たちから嫌われていた。

⚠️エリーザベト・フォン・ゲルリッツ(Elisabeth von Görlitz):神聖ローマ皇帝ジギスムントの姪。2人目の夫と死別した際に多額の借金を抱え、ルクセンブルク(リュクサンブール)公爵位の継承をめぐって先夫の甥ブルゴーニュ公フィリップと対立する。

 自称ジャンヌはこの女公爵に歓迎された。それは奇妙なことではない。聖なる生活を送り奇跡を起こす人物は、秘密を知りたがったり、何か願いを叶えたいと望む王侯貴族たちから、よく贔屓ひいきにされていた。

 デュ・リス兄弟やメスの貴族たち、ヴォークルールの人々が本物だと信じている以上、リュクサンブール女公がこの若い女をジャンヌ・ラ・ピュセル本人であると信じたとしても不思議ではなかった。

 一般の人々にとって、ジャンヌの生と死は奇跡と謎に満ちていた。
 彼女が処刑人の手で殺されたことを、当初から疑っていた者も多かった。

 ある人はこの件について妙に口が重く「イングランド人はルーアンで彼女を、あるいは彼女に似た別の女を公衆の面前で火刑に処した」と語った。[1034] またある人は「彼女がどうなったのか分からない」と告白した。[1035]

 こうして、「乙女が生きていてメス近郊で目撃された」という噂がドイツやフランス中に広まると、その知らせは様々な受け止め方をされた。信じる者もいれば、信じない者もいた。

 アルルの市民2人の間で起こった激しい論争は、その噂が巻き起こした感情をある程度物語っている。

 一人は「乙女はまだ生きている」と主張し、もう一人は「乙女は死んだ」と断言した。それぞれが自分の言うことが真実であると賭けた。これは決して軽々しい賭けごとではない。なぜなら、ラグランジュ・オーゾルムでの面会(兄弟の再会)からわずか5週間後の1436年6月27日、公証人立会いのもとでその賭けが成立し、記録されたからである。[1036]

15.10 ジャンヌ・ラ・ピュセル再臨(5)オルレアンに生存の知らせ

 一方、8月の初め、ジャンヌの兄であるジャン・デュ・リス、通称プチ=ジャンは、妹が生きていることを知らせるためにオルレアンを訪れた。

 この吉報への報酬として、彼は自分と従者たちのためにワイン10パイント(約5リットル)、雌鶏12羽、ガチョウのひな2羽、仔ウサギ2羽を受け取った。[1037]

 鳥類は行政官2人によって購入された。その一人はピエール・バラタンという名で、1429年[1038]のジャルジョー遠征時の要塞の会計帳簿に記載されている。もう一人は66歳の老人で、かなり裕福な市民であるエニャン・ド・サンメスミンといった。[1039]

 シャルル公の町(オルレアン)とリュクサンブール女公の町(アルロン)の間を、使者たちが行き来していた。

 8月9日、アルロンからの手紙がオルレアンに届いた。
 その月の半ば頃、追跡者(後発の使者)がアルロンに到着した。彼は、オルレアン市の紋章であるユリのつぼみ(三つ葉の一種)にちなんで、クール・ド・リス(ユリの心)と呼ばれていた。

 オルレアンの行政官たちは、彼に手紙を託して自称ジャンヌのもとに派遣したが、その内容は不明である。自称ジャンヌは彼に国王宛ての手紙を渡し、その中でおそらく謁見を願い出たのだろう。

 彼はそれをロシュへ直接持って行った。そこではシャルル王が娘のヨランド王女とサヴォワ公の息子アメデーオとの婚約交渉をしていた。[1040]

 41日間の旅の後、使者は9月2日に彼を派遣した行政官たちのところに戻った。
 使者はひどい喉の渇きを訴えたため、行政官たちは慣例に従い、市庁舎の一室でパン、ワイン、梨、青いクルミを振る舞った。この食事はパリ貨で2スー4ドゥニエの費用がかかり、使者の旅費は6リーヴルで、翌月に支払われた。クルミを提供した町の召使いは、包囲戦のときにも仕えていたあのジャケ・ルプレストルだった。

 8月25日、自称ジャンヌから別の手紙が行政官たちに届いた。[1041]

 ジャン・デュ・リスは、まるで奇跡を起こす妹が本当に戻ってきたかのように振る舞い続けた。彼は国王のもとへ出向き、この素晴らしい吉報を伝えた。

 シャルル王はこの知らせをまったく信じないことは出来なかったのだろう。王はジャン・デュ・リスに100フランの祝儀を与えるよう命じた。

 即座にジャンは王の財務官にこの100フランを請求し、財務官は20フランを渡した。勝利王(シャルル七世の二つ名)の金庫は、この時点でさえまだ満たされていなかった。

 オルレアンに戻ったジャンは、市の評議会に出頭した。
 彼は行政官たちに「所持金がわずか8フランしかない」と告げ、「これでは自分と4人の家臣がロレーヌへ戻るには到底足りない」と窮状を訴えた。行政官たちは12フランを与えた。[1042]

 そのときまで毎年、オルレアンでは聖体祭の前夜とその前日にサン・サンソン教会[1043]で乙女(ラ・ピュセル)の記念日を祝っていた。1435年には、托鉢修道会4つを合わせて聖職者8人がジャンヌの魂の安息のためにミサを捧げた。

 この年、1436年には、行政官たちは合計9.5ポンド(4.3キログラム)のろうそく4本に火を灯し、そこにフランスの王冠をあしらった銀の盾でジャンヌの紋章を吊るした。しかし、ジャンヌが生きていると聞くと、彼らは追悼ミサの手配を中止した。[1044]

15.11 ジャンヌ・ラ・ピュセル再臨(6)司教座の争いに介入

 フランスでこうした出来事が起こっていた間、自称ジャンヌはずっとリュクサンブール女公のもとにいた。

 そこで彼女は、ヴュルテンベルク伯ウルリッヒという若者と出会い、彼は彼女のそばを離れようとしなかった。彼は彼女のために立派な胸当て(胴鎧)を作らせ、彼女をケルンへ連れて行った。彼女は依然として「神に遣わされたフランスの乙女」を自称していた。[1045]

 6月24日の洗礼者ヨハネの祝日以来、彼女の力は回復していた。
 ウルリッヒ伯は彼女の超自然的な能力を認め、自身と友人たちのためにそれを使ってくれるよう懇願した。
 彼は非常に戦争好きで、当時トレヴ(トリーア)教区を引き裂いていた分裂騒動に深く関与していた。二人の高位聖職者が司教座を争っていたのである。

⚠️トレヴ(Trèves):ドイツのラインラント・プファルツにある都市。ドイツ語読みでトリーア。

 一人は教区参事会で任命されたウルリック・フォン・マンダーシャイトで、もう一人はローマ教皇に任命されたシュパイアー司教ラバン・フォン・ヘルムシュタットだった。[1046]

 ウルリックは少数の軍勢を率いて出陣し、みずからが真の羊飼い(牧師)だと称する町を二度包囲して砲撃した。その結果、教区の大部分がウルリックを支持するようになった。[1047]

 他方、ラバンは高齢で病弱だったが、彼にも武器があった。それは霊的なものだが強力だった。彼は、ライバルの大義を支持する全員に対して禁令(interdict、職務停止命令)を宣告したのである。

⚠️禁令(interdict):聖職者のあらゆる職務を禁じる命令。誕生時の洗礼、婚姻、葬儀など人生・生活にかかわる宗教行事が一切できなくなるため、社会が混乱する。

⚠️シュパイアー(Speyer):トレヴと同じく、ラインラント・プファルツ南東部にある都市。ラパンはシュパイアー司教なので自身の教区でさまざまな権限を持つ。

 ウルリックの最も熱心な支持者の一人だったヴュルテンベルク伯ウルリッヒは、神の乙女に彼について尋ねた。[1048]

 初代ジャンヌがフランスにいたときも、同様の事例が持ちかけられた。例えば、ベネディクトゥス、マルティヌス、クレメンスの教皇3人のうち、誰が真の神父であるかと問われた際、彼女はすぐには答えず、パリに到着して休息した後、服従すべき教皇を指名すると約束した。[1049]

 二代目のジャンヌは、さらに自信を持って答えた。彼女は「真の大司教が誰であるかを知っている」と宣言し、彼を司教の座につかせると言いふらした。

 彼女によれば、それは教区の参事会が指名したウルリック・フォン・マンダーシャイトだった。

 しかし、ウルリックがバーゼル公会議に召喚されたとき、彼は「司教座の簒奪者」と宣告された。公会議の神父たちは、通常なら決してやらない方法を選んだ。つまり、教皇の指名を承認したのである。

⚠️補足:当時、ローマ教皇とバーゼル公会議は対立しており、教皇は公会議に解散命令と破門を宣告し、公会議は教皇に罷免を宣告するほど険悪だった。にもかかわらず、公会議は「トレヴ教区の司教選出」の件で教皇の指名を認めた。

15.12 ジャンヌ・ラ・ピュセル再臨(7)異端審問官の追跡

 不幸なことに、乙女(自称ジャンヌ)がこの争いに介入したことは、ケルン市の異端審問官で著名な神学教授のハインリヒ・カルト・アイゼンの注目を引いてしまった。

 彼は、若い貴族に「庇護されている女(protégée)」について市内で広まっていた噂を調査し、彼女が不適切な服装を身につけ、男たちと踊り、必要以上に飲食し、魔術を行使していることを知った。

 特に、ある集まりで乙女がテーブルクロスを引き裂き、すぐに元の状態に戻したこと、そして壁にグラスをぶつけて割った後、驚くべき手腕ですべての破片を繋ぎ合わせて元に戻したことが、彼の耳に入った。

 これらの行為から、カルト・アイゼンは彼女に異端と魔術の強い疑いを抱くようになった。彼は彼女を法廷に召喚したが、彼女は出頭を拒否した。

 この不服従は異端審問官の不興を買い、彼はその義務不履行者を連行するよう命じた。

 しかし、若きヴュルテンベルク伯は彼女を屋敷にかくまい、その後、密かに町から脱出させることに成功した。こうして彼女は、部分的に模倣していたあの女性(ジャンヌ)と同じ運命をたどることを免れた。

 他になす術もなく、異端審問官は彼女を破門に処した。[1050]

 自称ジャンヌはアルロンにいる庇護者、リュクサンブール女公のもとへ避難した。

 そこで彼女は、ティシェモン領主ロベール・デ・アルモワーズ(Robert des Armoises)と出会った。彼女は以前、ロベール卿が毎年春に住んでいたマルヴィルで彼と面識があったのかもしれない。

 この貴族は、おそらく1416年にバル公領の総督だったリシャール・デ・アルモワーズの息子だろう。リシャール卿については、「バル公の同意なしにあずかっていた領地を外国人に明け渡し、その後、領地は没収され、そこを征服することを条件にアプルモン領主に与えられた」ということ以外、何も知られていない。

 ティシェモンにある彼の城がこの町の近くだったことを考えると、ロベール卿がアルロンにいたことは不思議なことではない。彼は貴族の生まれではあったが、貧しかった。[1051]

 自称ジャンヌは、どうやらリュクサンブール女公の承認を得て、彼と結婚した。[1052]

 ケルンの聖なる異端審問官(ハインリヒ・カルト・アイゼン)の見解によれば、この結婚は単に、彼女を禁令から守り、教会の剣から救うためだけに結ばれたものだった。[1053]

⚠️ティシェモン(Tichémont):アルザス・ロレーヌ地方にある山間の村落。Tichéは古フランス語でドイツを指す。18〜19世紀の人口は30〜50人足らず、20世紀前半に鉄鉱山会社が城を購入・改修して従業員の宿舎にした。現在は史跡として外観を保つために人の手が入っているようだが、分類上「旧自治体(Ancienne commune)」なのでおそらく廃村だろう。

⚠️余談: e のアクサンを省いて、検索窓に「Tichemont」と入力するとほぼ必ず「Richemont」を提示されるがリッシュモンとは無関係。そのくらい忘れられた地名ということか。

15.13 アルモワーズ夫人の旅(1)従騎士ジャン・ドーロンの疑念

 結婚してまもなく、自称ジャンヌはメスにある夫の家で暮らすようになった。そこはサント・セゴレーヌ教会の向かい、サント・バルブ門の上にあった。

 それ以来、彼女は「ジャンヌ・デュ・リス」、「フランスの乙女」、「ティシェモン夫人」と呼ばれた。

 1436年11月7日付の契約書には、これらの名前で彼女のことが記されている。
 この契約書によって、ロベール・デ・アルモワーズおよび彼から承認された妻(自称ジャンヌ)は、マルヴィルに住む地主コラール・ド・ファイイとその妻ポアンセットにアロークール領の4分の1を売却している。

 彼らの親しい友人であるロベール卿とジャンヌ夫人の要請により、ヴィレット領主ジャン・ド・トヌレティル、とマルヴィル代官ソーブレ・ド・ダンが、売主たちとともに、その有効性を証明するために契約書に押印(シーリング)した。[1054]

 サント・セゴレーヌ教会の向かいにある家で、アルモワーズ夫人は二人の子供を出産した。[1055]

 ラングドック地方のどこかに[1056]、ひとりの正直な地主(貴族)がいた。彼は、この出産の知らせを聞いて、ジャンヌ・ラ・ピュセルとアルモワーズ夫人が同一人物であり得るかどうかを真剣に考えていた。

 この人物は、かつてジャンヌの従騎士を務めていたジャン・ドーロンだ。

 彼がよく知っている女性(本物のジャンヌ)から受けた知見から、ジャンヌが子供をもうけるとは思えなかったからだ。[1057]

⚠️補足:原著では遠回しな言い方をしているが、記録によるとジャンヌは初潮が来なかった(無月経)。ジャン・ドーロンはジャンヌの身の回りの世話をしていたため、体質について知っていたのだろう。アルモワーズ夫人が出産したと聞いて、疑ったのはそのため。

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 ヴィエンヌ大学の神学博士であるジャン・ニデル修道士によると、この実りある結婚は悪い結末バッドエンドを迎えた。

 彼の言葉を借りれば「司祭というより女衒ぜげん(女を売る人買い)と呼ぶほうがふさわしい男」が愛のささやきでこの魔女(自称ジャンヌ)を誘惑し、奪い去ったのである。

 ジャン・ニデル修道士は、「その司祭はアルモワーズ夫人をひそかにメスへ連れ去り、愛人として一緒に暮らした」と付け加えている。[1058]

 後に、彼女の本当の故郷がまさにその町だったことがわかっている。したがって、この托鉢修道士は自分が何を言っているのか分かっていないと結論づけていいだろう。[1059]

⚠️補足:ジャン・ニデル修道士は「好色な司祭が既婚女性(自称ジャンヌ)を誘惑して連れ去った」と非難しているが、実は「故郷の司祭」であり、「ジャンヌを自称して引っ込みがつかなくなった彼女を逃がした」可能性がある。

 こまかい事情はともかく、「彼女はサント・セゴレーヌ教会の影に2年以上留まらなかった」ことだけは真実だ。アルモワーズ夫人は結婚したあとも予言や騎士道をやめるつもりはなかった。

 かつての裁判で、ジャンヌは異端審問検事からこう尋ねられた。

「ジャンヌよ、もし処女を失えばおまえの幸運は尽き、『声』が聞こえなくなると啓示を受けなかったか?」

 彼女はそのような啓示は聞いていないと否定した。検事からさらに「もし結婚したら、あなたの『声』は届くと思うか?」と尋ねられると、ジャンヌは善良なキリスト教徒らしく「わかりません。神にゆだねます」と答えた。[1060]

⚠️下巻・第十二章『12.11 密室裁判:3月17日(3)最後の尋問/教皇への上訴を要求』参照。

 アルモワーズ夫人も同様に、「結婚したからといって幸運(奇跡の力)が自分を見捨てたわけではない」と主張した。

 さらに、予言の時代には、ベトリアのユディトのように、神の啓示を受けて行動する未亡人や既婚女性たちがいた。カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルもその一人だったが、もっとも彼女はそれほど偉大なことは何もしなかった。[1061]

15.14 アルモワーズ夫人の旅(2)オルレアンで歓迎会と追悼ミサ

 1439年の夏、アルモワーズ夫人(自称ジャンヌ)はオルレアンを訪れた。町の行政官たちは喜びと忠誠の証として、彼女にワインと肉を贈った。

 8月1日に晩餐会が催されることになり、包囲戦中に彼女が町のために尽くした功績への謝礼としてパリ貨210リーヴルを贈呈した。この支出は、オルレアン市の会計帳簿にまったく同じ文言で記録されている。[1062]

 もしオルレアンの人々が、「彼女は本物のジャンヌ・ラ・ピュセルだ」と本当に信じていたとしたら、それは彼ら自身の視覚的な判断というより、デュ・リス兄弟の証言によるところが大きかったに違いない。

 考えてみれば、オルレアン市民は彼女(本物のジャンヌ)を滅多に見ていなかった。あの5月の1週間(包囲戦)の間、ジャンヌは武装した騎馬姿でしか市民の前に現れなかった。その後は1429年6月と1430年1月に、彼女はただ町を通過しただけだ。

 ジャンヌにワインが振る舞われ、行政官たちとともに食卓を囲んだこともあったが[1063]、それは9年前だ。

 そして、9年という歳月は、女性の顔つきに大きな変化をもたらす。

 彼ら(オルレアン市民)が最後にジャンヌを見たときは若い娘だったが、今や彼女は大人の女性になり、二人の子供の母親になっていた。しかも、ジャンヌの実の兄弟の証言から影響を受けていた。

 しかしながら、宴席での会話や、アルモワーズ夫人が発したであろうぎこちなく辻褄の合わない発言などを想像すると、オルレアン市民の態度にはいささか驚かされる。
 もし当時の彼らが、疑問を感じていなかったとしたら、これらの市民たちはきわめて単純で、客人に対して強い好意と先入観を持っていたに違いない。

 彼らがそうでなかったと誰が言えようか?
 ジャン・デュ・リス(ジャンヌの兄)がもたらした知らせを信じた後では、市民の誰かが詐欺に気づいたとしても、それを指摘できるだろうか?

 アルモワーズ夫人の滞在までに「ジャンヌ生存」派が町中に決して広まらなかったことは、すでに述べた、追悼ミサの費用に関するオルレアン市の会計帳簿の記録によって証明されている。

 仮に1437年と1438年を除外したとしても、少なくとも1439年には、聖体祭の2日前(オルレアン包囲戦が終結した5月8日)、そして8月1日の晩餐会のわずか3カ月前に、追悼ミサが執り行われていたのである。[1064]

 つまり、慈悲深いオルレアン市民たちは、町の恩人を晩餐会でもてなすと同時に、彼女の死を偲んで追悼ミサを捧げていたことになる。

⚠️補足:1436年8月にジャンヌの兄が「妹が生きていた」とオルレアンに伝え、追悼ミサの準備が中断された。今回、アルモワーズ夫人がオルレアンを訪問したのは1439年の夏で、この年は追悼ミサをおこなっている。

⚠️さらに補足:1437年と1438年は生存説が伝聞のみだったが、1439年には本人がオルレアンに現れた。市民が本当に「アルモワーズ夫人=生還したジャンヌ」と信じたなら、その後も追悼ミサを続けるのはおかしい。従って、アルモワーズ夫人が偽物だということは暗黙の了解だったのか?

15.15 アルモワーズ夫人の旅(3)ジル・ド・レに仕える

 アルモワーズ夫人(自称ジャンヌ)がオルレアン市民と過ごしたのはわずか2週間だった。
 彼女は7月の終わりごろにオルレアンを去った。出発は慌ただしく、突然だったようだ。彼女は晩餐に招かれており、そこでワイン8パイント(約4リットル)を贈られるはずだったが、ワインをもらった途端に姿を消してしまい、宴会は彼女抜きで催された。[1065]

 ジャン・キリエとテヴァノン・ド・ブールジュが出席していた。

 このテヴァノンという人物は、包囲戦のときにジャンヌの兄弟たちが宿泊していたテヴナン・ヴィルダールかもしれない。[1066]

 ジャン・キリエは、1429年6月にジャンヌのガウンを仕立てるために、ブリュッセル産の上質な鮮紅色の布を提供した、若い織物商である。[1067]

 アルモワーズ夫人はトゥールに行き、そこで自分こそが本物のジャンヌであると名乗った。彼女はトゥーレーヌの代官に国王宛ての手紙を渡し、代官はそれをオルレアンにいる君主(シャルル七世)に必ず届けると約束した。

 シャルル七世は、アルモワーズ夫人が立ち去った直後にオルレアンに到着していた。

 1439年当時のトゥーレーヌの代官は、10年前にシノンの副官としてジャンヌを自宅に迎え入れ、敬虔な妻に彼女の世話を任せたギヨーム・ベリエその人だった。[1068]

 この手紙を運ぶ使者に、ギヨーム・ベリエはみずから国王に宛てた『アルモワーズ夫人の行いに関する覚書』という趣旨の手紙も託した。[1069] その内容については何もわかっていない。[1070]

 その後すぐに、アルモワーズ夫人はポワトゥーへと旅立ち、そこでフランス元帥ジル・ド・レに仕えた。[1071]

 彼こそが、若き日にジャンヌをオルレアンへ導き、戴冠式の遠征を通して彼女と行動を共にし、パリの城壁の前で彼女のそばで戦った人物だった。

 ジャンヌが捕らわれていた間、彼はルーヴィエを占領し、果敢にルーアンへと進軍した。そんな彼も今や、広大な領地の至る所で子供たちを誘拐し、魔術と放蕩を交えて、数え切れないほどの犠牲者の血と肢体を悪魔に捧げていた。

 彼の残忍な行為は、ティフォージュ城とマシュクール城の周囲に恐怖を撒き散らし、すでに教会の手が彼に迫っていた。

 すでに述べたケルンの異端審問官(ハインリヒ・カルト・アイゼン)によれば「アルモワーズ夫人は魔術を用いる」とのことだが、ジル・ド・レ元帥は悪魔召喚者として彼女を雇ったのではなかった。ジャンヌがかつてラニーやコンピエーニュで就いていたのとほぼ同じ、兵士たちの指揮官に任命した。[1072]

 彼女は武勇を披露したのだろうか? それはわからない。

 いずれにせよ、アルモワーズ夫人はその職に長く留まらず、後任にはガスコーニュ出身の従騎士ジャン・ド・シケムヴィルという人物が任命された。[1073]

15.16 アルモワーズ夫人の旅(4)パリの近況

 1440年の春、アルモワーズ夫人(自称ジャンヌ)はパリ近郊に​​いた。[1074]

 過去2年半近くの間、この大都市はシャルル七世に忠誠を誓っていた。
 シャルル王はパリ入城を果たしたものの、都市の繁栄を取り戻すことはできなかった。至る所で放棄された家々が廃墟と化し、オオカミが郊外に侵入して幼い子供たちを食い殺していた。[1075]

 つい最近までブルゴーニュ派だった市民たちは、ジャンヌが修道士リシャールやアルマニャック派とともに聖母降誕の祝日にパリを攻撃したことを、すべて忘れたわけではなかった。
 多くのパリ市民がジャンヌに悪意を抱き、彼女はその罪のために火刑に処されたと信じていた。

 しかし、1429年当時のように彼女の名が広く非難されることはなかった。
 かつての敵の中には、彼女を主君のために殉教した者と見なす者もいた。[1076]

 ルーアンでさえそのような意見は珍しくなく、最近フランス陣営に転向したばかりのパリではなおさらそうだった。ジャンヌは死んでおらず、オルレアンの人々に認められ、パリに来るという噂が流れると、市内の下層階級の人々は興奮し、騒乱が起こりそうな雰囲気だった。

 パリ大学の精神は、1440年のシャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)治世下でも、1431年のヘンリー・オブ・ランカスター(ヘンリー六世)治世下とまったく同じだった。大学は、その特権の守護者であり、ガリア教会(フランス教会)の自由の擁護者であるフランス王に敬意を表した。

 高名な教授たちは、反逆者かつ異端者であるジャンヌ・ラ・ピュセルの処罰を要求し、それを実現させたことについて、何ら良心の呵責を感じていなかった。
 過ちに固執する者は誰であろうと異端者であり、権力の打倒を企てて失敗する者は誰であろうと反逆者なのだ。

 1440年にシャルル・ド・ヴァロワがパリ市を手中に収めたのは神の意志だった。
 1429年当時は神の意志ではなかった。
 だからこそ、乙女(ラ・ピュセル)は神に逆らって戦った。

 1440年のパリ大学は、もし「イングランドの乙女」が現れたら、同じ激しさで彼女を訴えるだろう。

 ポワティエでの長く陰鬱な亡命生活からパリの自宅に戻った行政官たちは、転向したブルゴーニュ派と並んで、高等法院(パルルマン)の席に着いた。[1077]

 逆境の時代には、シャルル王の忠臣たちは乙女に仕事をさせたが、1440年となった今、彼女の使命の真実と信仰の純粋さを公に主張することは彼らの仕事ではなかった。

 イングランド人によって火刑に処されたならまだしも、パリ大学の同意を得て司教と副審問官がおこなった裁判は、イングランドの裁判ではなく、本質的にはガリア教会かつカトリック的な裁判だった。

 ジャンヌの名は、キリスト教世界全体で永遠に汚名を着せられた。
 教会の判決を覆すことができるのは教皇のみだが、教皇にその気はなかった。カトリック国であるイングランド王の機嫌を損ねることを恐れていたからだ。
 もっと言えば、もし教皇が「異端審問官が誤った判決を下した」と認めれば、あらゆる「人間の権威」が揺らぐことになる。

 フランスの聖職者たちは服従し、沈黙を守っている。
 聖職者たちの集まりで、あえてジャンヌの名を口にする者は一人もいなかった。

15.17 アルモワーズ夫人の旅(5)真相の告白

 幸いなことに、パリ大学の博士や教授たちも、かつてのポワティエ高等法院のメンバーたちも、アルモワーズ夫人に関する一般大衆の思い込みを共有していなかった。彼らは、ジャンヌがルーアンで火刑に処されたことを疑っていなかった。

 そして、「オルレアンの救世主」を自称するこの女が、パリに入ることで騒動を引き起こすのではないかと恐れていた。高等法院パルルマンとパリ大学は、彼女を迎えるために兵士を派遣した。彼女は拘束されて、裁判所へ連れて来られた。[1078]

 彼女は尋問を受け、審理され、その結果、公衆の面前に晒されるべきだと宣告された。

 裁判所(Palais de Justice)には、クール・ド・メイと呼ばれる宮廷の中庭から続く場所に、罪人を晒し者にするための大理石の台があった。

 アルモワーズ夫人はそこに連れて行かれ、彼女が欺いていた人々の前に晒された。恒例の説教がおこなわれ、彼女は公開の場で告解(懺悔・自白)するよう強要された。[1079]

 彼女は、自分は「乙女(ラ・ピュセル)」ではなく、ある騎士と結婚しており、二人の息子がいると宣言した。

 彼女は「ある日、母親の前で、ある女が自分を侮辱しているのを聞いた」ときのことを語った。彼女は中傷した女を攻撃しようとしたが、母親に止められたため、そのこぶしを自分の親にぶつけた。もし逆上していなければ、決して母親を殴らなかっただろう。

 挑発されたとはいえ、これは特殊なケースであり、教皇の管轄権に留保される類いの罪だった。
 父親や母親、あるいは司祭や聖職者に暴力を振るった者は、教皇のもとへ行き、赦しを請わなければならない。罪人を断罪または無罪放免とする権限は、教皇のみに与えられている。

 これが、彼女がしてきたことの原点だった。

「私は男装してローマへ行きました」と彼女は言った。
「教皇エウゲニウスの戦争に兵士として従軍し、この戦いで二度殺人を犯しました」

 彼女は、いつローマへ旅をしたのか? おそらく教皇エウゲニウス四世がフィレンツェへ亡命する前、1433年ごろにミラノ公の傭兵隊長たちが「永遠の都」ローマの門へ進軍していた時のことだろう。[1080]

 パリ大学も、教区司教も、異端審問官も、魔術と殺人の疑いがあり、ふさわしくない服装(男装)をしていたこの女を裁判にかけるよう要求した記録はない。

 彼女が異端者として起訴されなかったのは、おそらく彼女が頑固ではなかったからだろう。頑迷さこそが異端を構成するからである。

 それ以降、彼女が注目を集めることはなかった。

 あまり信頼できる証拠に基づく話ではないが、彼女は最終的にメスの夫、騎士アルモワーズ卿のもとに戻って、静かに余生を送り、立派に天寿を全うしたといわれている。
 住居の扉の上には、彼女の紋章、正確に言えばジャンヌ・ラ・ピュセルの「剣と王冠と百合の紋章」を掲げていたそうだ。[1081]

15.18 偽ジャンヌ詐欺事件の黒幕

 アルモワーズ夫人こと偽ジャンヌの詐欺は4年間うまくいっていた。
 結局のところ、それほど驚くべきことではない。

 いつの時代も、人々は自分たちの想像をかき立てる存在が完全に終わったことを信じたがらない。偉大な人物が、一般人と同じように死によって倒れることを認めようとしない。高貴な経歴の持ち主がそのような結末を迎えることは、受け入れがたい。

 アルモワーズ夫人のような詐欺師は、自分を信じてくれる者を必ず見つけ出す。
 彼女は、そのような妄想を広めるのに極めて都合のよい時期に現れた。

 人々は長きにわたる苦難によって、知性を鈍らせていた。
 地域間の往来は不可能または困難で、ある場所で何が起こっているのか、すぐ近くでさえ分からなかった。人々の心の中は、ぼんやりした暗闇と無知、混乱に支配されていた。

 しかし、そうだとしても、デュ・リス兄弟の支持がなければ、世間の人々はこれほど長く「偽ジャンヌ」に騙されることはなかっただろう。

 兄弟は彼女に騙されていたのか、それとも共犯者だったのか?

 彼らがいかに愚鈍だったとしても、この女詐欺師(adventuress)が彼らを騙し通せたとは到底信じがたい。彼女がロメの娘(ジャンヌ)に非常によく似ていたとしても、ラグランジュ・オーゾルムから来たこの女が、ジャンヌと一緒に育ち、共にフランスにやって来て、近親者として本人をよく知る二人の男を、長期間にわたって欺くことは不可能だ。どう考えても無理がある。

⚠️女詐欺師(adventuress):現代人の感覚だとこの言葉に悪印象はないが、本来は「手段を選ばず地位や富を得ようとする野心家」のことで、上昇志向の悪女から詐欺師などの犯罪者まで含まれる。男性形のアドベンチャー(adventurer、冒険家)も同様。

 もし騙されていなかったとしたら、彼らの行動をどう説明すればよいのか?

 彼らは、妹(姉)を失ったことで多くのものを失っていた。ラグランジュ・オーゾルムに到着した時、(ジャンヌの末弟)ピエールはブルゴーニュの牢獄から解放されたばかりだった。身代金は妻の持参金で支払われ、当時の彼はまったくの無一文だった。[1082]

 ヴェルマンドワの代官(Bailie)、次いでシャルトル総督(Governor)、そして1436年頃にヴォークルールの代官(Bailie)となった兄のジャンも、それほど裕福ではなかった。[1083]

 こうした状況が多くのことを説明してくれる。

 しかしそれでも、兄弟が自分たちの力だけで、何の支援もなく、これほど困難で、危険で、危うい駆け引きに関わったとは考えにくい。

 兄弟の人生についてわかっているわずかなことから判断すれば、彼らは二人とも、そのような陰謀を企てるにはあまりにも単純で、あまりにも世間知らずで、あまりにも穏やかすぎるように思われる。

 彼らが、何かもっと高位の、より偉大な権力にそそのかされていたのではないかと信じたくなる。一体誰にわかるだろうか? もしかしたら、フランス王に仕える思慮の浅い「誰か」かもしれない。

 ジャンヌの有罪判決と死は、シャルル七世の威信に対する深刻な攻撃だった。

 王の家臣や顧問たちの中に、「ジャンヌは魔女として死んだのではなく、その無実と聖性によって炎を逃れた」という信念を広めたいと望み、ジャンヌ再臨をでっち上げるほど無謀な熱意を持った臣下がいなかったと言えるだろうか?

 もしそうだとすれば、1431年の裁判について教皇の再審理は不可能と思われた時代に生まれた「偽ジャンヌ詐欺事件」は、彼女の名誉回復を図るために秘密裏に行われ、すぐに放棄された試みだったのかもしれない。

 この仮説は、デュ・リス兄弟が過ちを犯し、国王と民衆を欺き、大逆罪を犯したにもかかわらず、何ら処罰されず、不名誉な扱いさえ受けなかった理由を説明できる。

 兄のジャンは長年にわたりヴォークルールの総督を務め、職務を解かれた際には少なくない金銭を受け取った。

 末弟のピエールは、母親のロメと共にオルレアンに住んでいた。1443年、彼は3年前にフランスに帰国していたシャルル公(オルレアン公シャルル・ドルレアン)から、ロワール川の中洲イル・オー・ブフ(牛島)[1084]を与えられた。そこは良好な牧草地だった。
 それにもかかわらず、彼はその後もずっと貧しいままで、オルレアン公や市民から絶えず援助を受けていた。[1085]


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