【連載小説】フルート五重奏 #7
まだ外気は冷たいながらも、桜の蕾が膨らんできた。高校受験の終わりが近付いている。来週から三年生の先輩たちが、部活に帰って来る。
気温が上昇するに連れて、私の心は冷え切っていった。三年生の先輩たちの顔を思い浮かべるだけで、吐き気が込み上げてきた。
「由紀子、大丈夫?」
楽器部屋のフルートの棚を前に立ちつくしていると、舞子が心配気に見詰めていた。
「……大丈夫。三年生が戻って来ると思うと、不安になって」
「由紀子、自信を持って。本当に、すごく上手くなったと思うよ。これだけ上達したんだよ、先輩たちも、もう何も言えないよ」
舞子の言葉は、力強かった。
だが、私の凍った心は、なかなか温まらなかった。
「……そうだと良いんだけど」
楽器部屋の中にある、唯一の窓から、光が差し込んでいた。思わず窓に近寄り、窓の外を眺めた。
朝から降っていた雨が止み、雲の隙間から、太陽が顔を出していた。窓の外に広がる屋上には、大きな水溜まりが、幾つもあった。
「……綺麗」
灰色の雲の間から差し込む光が反射して、水溜まりは輝いていた。帰る時には、すっかり晴れているだろう。
「本当だ、綺麗だね」
舞子も、私の隣に並ぶと、窓の外の景色を眺めた。
「雨降って地固まる、って言うんだって。だから、大丈夫」
舞子が、私の手を強く握り締めた。
*
「美月はいないの?」
「美月は、コンクールが終わってから、一度も部活に来ていないので」
「私たちとブランクが変わらないじゃん! 次に来たら締め上げないと」
文句を撒き散らしながら、三ヶ尻先輩は、楽器を組み立てた。三ヶ尻先輩は、リッププレートに唇を当て、久しぶりに音を出した。自分の出した音を聞き、三ヶ尻先輩が顔をしかめた。
「やっぱり、夏の頃のように吹けない。自分の音が嫌になる」
三ヶ尻先輩は、自分自身を呪いながらも、音程の調整を始めた。
「由紀子、半年も経ったんだから、少しはましになったんだよね?」
小河原先輩のどすのきいた口調も久しぶりだ。堀田先輩は、相変わらず、無言で、私を見詰めていた。
「……前より良くなった、と思います」
「嘘だったら〝反省会〟を開くからね」
胃がせり上がってきそうだ。無理やり、平静を装うと、いつも通りに、音出しを始めた。普段から聞き慣れている、自分のフルートの音が、音楽室に響いた。
「由紀子、その、音」
「……まだダメでしたか」
咄嗟に、目を伏せた。これまで先輩達から投げ掛けられた罵詈雑言が、頭の中を駆け巡った。
今日は、どの言葉の刃が、先輩たちの口から、飛び出すんだろうか。
「音、良くなったね」
堀田先輩の平坦な声が、耳に届いた。恐る恐る、目線を上げた。
堀田先輩は、只々、私を見詰めていた。三ヶ尻先輩と小河原先輩は、口を開け閉めしながら、困惑を顔に貼り付けていた。
(フルートパートから、いつでも出て行っても良いんだよ? いつでも部活を辞めて良いんだよ?)
いつまでも、耳にこびり付いている、堀田先輩の声。同じ声が、今、私を褒めた。
嬉しさと腹立たさが混じり合い、言葉が出て来なかった。先輩たちを視界から追い出し、音程の調整を始めた。
「では、フルートから、チューニングを始めます」
二年生の小川冴子新部長が、指揮台に上り、電子ピアノの鍵盤を押した。帰って来た三年生たちを前にして、小川部長の指が、僅かに震えていた。
*
音楽室で基礎練習を終えると、練習部屋で個人練習を始めた。先輩たちは、帰って来たばかりで、自分の音色を取り戻そうと、必死に足掻いていた。先輩たちは、時々、私に視線を投げ掛けたが、何も言わず、練習を続けた。
先輩たちが戻って来て、熱気が増した教室に、ドアを叩く音が響いた。一人の女の人が、ドアを開け、練習部屋に入って来た。フルートパートだけでなく、サックスパートも、女の人に、目が吸い寄せられた。
体格が良く、如何にも肺活量がありそうな女の人が、コートを着て、立っていた。純和風な目鼻立ちをしており、何処となく、上品な雰囲気を纏っていた。中学生にはない、大人っぽさが漂っている。
「廣瀬先輩!」
一斉に、先輩たちが、立ち上がり、直立不動の姿勢をとった。慌てて先輩たちに倣い、立ち上がった。
「玲子、七海、静香、久しぶりだね。元気にしていた?」(続く)
第1話
第2話
第3話
第4話
第5話
第6話
第8話
第9話(完)
使用した吹奏楽曲
