【連載小説】フルート五重奏 #4
「由紀子のために、態々、時間を割いているんだからね。感謝しなよ。私はソロも練習しないといけなくて、忙しいのに」
「……ありがとうございます」
「声が小さい! はっきりした声で話してよ!」
「ありがとうございます!」
三ヶ尻先輩が、鼻を鳴らした。小河原先輩の低い声が続いた。
「何が自分に足りないのか十個挙げて」
「……音の質が悪いことと、音を長く伸ばせないことと、先輩たちに、ご迷惑をかけていることと……」
「それで終わり? 他にもあるでしょう?」
三ヶ尻先輩は、椅子の背にもたれ掛かり、足を組み替えていた。
「積極性が足りていないでしょう? 本当に、家で百回腹筋しているの?」
「毎日、百回腹筋しています!」
「どうせ嘘でしょう? 毎日フルートを持ち帰っているみたいだけど、練習している振りをしているだけでしょう?」
小河原先輩が、私を睨み付けた。
"反省会"は、儀式なんだ。儀式が終わる瞬間まで、心を無にすれば良い。
「上の空になっていない?」
普段、儀式中は沈黙を貫いていた堀田先輩が、ゆったりと口を開いた。堀田先輩の目が、私を直視した。
「正直、迷惑なんて、とっくに超えているんだよ。私たちにとって、来月は最後のコンクールなの。コンクールに集中したいの。フルートパートから、いつでも出て行っても良いんだよ? いつでも部活を辞めて良いんだよ?」
決して荒立てた声ではない。凪いだ海のような穏やかな口調だった。
だが、堀田先輩の言葉は、私の心を切り裂いた。
フルートパートに、お前はいらない。邪魔だ。出て行ってくれ。
今日は絶対に泣かない。そう決意していたのに、目から涙が零れ落ちた。
三ヶ尻先輩と小河原先輩が、悪魔の笑みを浮かべた。
「いつも泣き始めるけど、涙で誤魔化せているなんて、思っていないよね? もう何回目? 学習しなよ」
「楽譜に書き込んでるけど、意味あるの? 無駄なことばかりして」
合奏の度に、樋口先生からの指摘事項を書き込んでいた私の楽譜を、小河原先輩が投げ捨てた。
私の努力は、認められない。
三ヶ尻先輩と小河原先輩が私を罵倒する声が、降り掛かってきた。だが、意識が遠のいた私の頭は、何を言われているか、判別が付かなくなりつつあった。
教室の反対側に陣取っているサックスパートが、ぼやけた視界の隅に入った。雑音だと言わんばかりに〝反省会〟を無視し、パート練習に集中している。
一瞬、アルトサックスを吹く、一年生の舞子と目が合った。舞子の眼差しは、私を哀れんでいるように、見えた。
誰も味方がいない。誰も私のことを気に掛けてくれない。誰か助けて。(続く)
*
指揮棒が止まった。指揮棒を追って必死に吹いている間に、連合演奏会のステージは終わった。
一斉に部員たちが起立する。呆けた私は、遅れて立ち上がった。
拍手がホール中に響いていた。腑抜けた私は、直立不動で、拍手する群衆を見ていた。
全て忘れた。〝反省会〟すら、忘れた。
ステージで演奏することが、こんなに気持ちが良いなんて、想像していなかった。
廊下で楽器を片付けている時も、高揚感は残っていた。片付け中も、片付け後も、先輩たちは、私に怒りを向けてこなかった。
私、上手く演奏できたのかな。それとも、明日からは、コンクール組だけが合奏するから、私の存在が気にならなくなったのかな。
小躍りしたい気分だった。先輩たちと次に一緒に合奏する時季は、三月の定期演奏会だ。明日からは、先輩たちから怒鳴り付けられない。
私は解放されたんだ。
幸福感を噛み締めながら自宅に帰った。自室のベッドに身を投げ出すと、スマートフォンを取り出した。
LINEが届いていた。LINEのメッセージの差出人を見ると、一瞬にして、興奮が冷め、世界が止まった。三ヶ尻先輩だった。
(由紀子、あんたの忘れ物を私が預かっている。ホールまで戻って来て)
壁に掛かった時計に目を走らせた。夜の七時だった。窓の空を見ると、夏の空は、太陽を失い、とっぷりと暗くなっていた。
次の瞬間、玄関に突進した。アパートの階段を駆け下りていった。連合演奏会が行われたホールに着いた時刻は、夜八時を回っていた。
「……三ヶ尻先輩、小河原先輩、堀田先輩」
「君、何をしているの? ホールは閉まっているよ。中学生? 家に帰りなさい」
「すみません、落とし物を探しに来ました」
「そうなのかい? 早く家に帰るんだよ。見つからなかったら、明日、探しにおいで」
警備員の小父さんが、優しく声を掛けてくれた。
明日では、遅い。今、先輩たちを見つけなければいけない。
ホールの外周まで回って、先輩たちの姿を探し続けた。
嫌がらせだろうか。
何度も疑ったが、本当に、三ヶ尻先輩が落とし物を預かってくれていて、待たせている先輩を見つけられなかった事態のほうが、怖かった。
夜十一時を過ぎて、スマートフォンの着信音が鳴った。三ヶ尻先輩からの電話だった。コールが二回鳴った時点で、急いで電話に出た。
「お疲れ様です、由紀子です。あの、今、何処に居るんですか」
「由紀子、今、何処に居るの? まさかホールにいないよね?」
三ヶ尻先輩のせせら笑った声が、電波越しに聞こえた。
「今日の由紀子の演奏、最低だったね」
電話が切れた。無音の世界に放り出された。
無気力にしゃがみ込んだ。すすり泣く自分の声が聞こえた。涙が止まらない。喉の奥から絶叫が溢れ出し、号泣した。通り過ぎる人々が、怪訝な顔で、私を見ている姿が、視界の隅に見えた。
どうでも良い。
先輩たちよりも、練習時間は長い。何故、上手くなれないの?
美月は練習をろくにしていない。何故、美月のような音を出せないの?
涙でかすんだ視界が、赤く染まっていった。拳を強く握り締めた。爪が掌に食い込んだ。
先輩たちに負けたくない。美月に負けたくない。私は、私自身に負けたくない。
顔を上げた。私の体の隅々まで闘志が駆け巡った。生まれて初めての感覚だった。
「由紀子、今、何時だと思っているの? 由紀子!」
しっかりした足取りで帰宅すると、自室のドアに鍵を掛けて、お母さんを閉め出した。
これからだ。まだ私の部活生命は終わっていない。
何度も見返した教本をスクールバッグから取り出した。初めて楽器を吹き、酷い雑音を出した後、急いで楽器店で買った本だ。
唇から三角形に音を出すようにイメージして、遠くに音を飛ばす。
シャーペンで書き込み、真っ黒になっているページを、夜更けまで読み込んだ。(続く)
第1話
第2話
第3話
第5話
第6話
第7話
第8話
第9話(完)
使用した吹奏楽曲
