かくして、僕は今日も昭和映画館に足を向ける。
今より、ずっと混沌としていた時と街で、
僕は映画の森の中を彷徨い、何かを探し続けていた。
何を、って?
それが分かっていたら、あんなに映画に夢中になれるわけない。
けれど、求めているものが、そこにあって、いつか見つかる気がした。
だから僕は今日も、ポケットの中の期待と不安が溶け合った感情を握りしめて、昭和映画館に足を運ぶ。
第1回 「青幻記〜遠い日の母は美しく〜」
第2回「さらば友よ」
Column #1 かくも主観的なハードボイルド考察
Column #2 またも主観的「さらば友よ」タイトル比較論
第3回「モナリザ」
Column #3 私的モンティ・パイソンとイギリス・ギャグ論
Column #3 私的モンティ・パイソンとイギリス・ギャグ論 Part2
ギャグの定義はとても難しい。
本来、「さるぐつわ」とか「言動の制圧」といった意味で、これが19世紀頃、舞台俳優が観客の私語を止めるために短いジョークを言って舞台に注目(言動の制圧)させたことが、今日のギャグの発端。
ちなみに医療で使う一般的な開口器はmouth gag、これに目をつけたSM愛好家が作ったのがBallgag、日本語では玉口枷(と言うらしい。詳しくは知らんけど)。
「さるぐつわ」とか「制圧」だとか「開口器」とか(SMだとか)、ギャグの根底にある意味はけっして明るい笑いだけでなく、闇の中でほんの少しだけ歯を見せるような不気味さがある。
「チャンネル泥棒!快感ギャグ番組!空飛ぶモンティ・パイソン」を見ていた当時、ギャグという言葉はそれほど浸透していなかった。私はこの番組を見て、初めてギャグの意味を知った。
オープニングテーマは堂々としたマーチなのに、流れるアニメーションはグロテスクで不条理。ネガに直接色付けしたようなカラー、あやつり人形のようにけっして人では不可能な動き、いたずらにデフォルメされた肉体…。どれも不快感が起こるけれど、それをジョークと受け止められる境界線に止まっている。
ギャグに『毒』があることを、オープニングから思い知らされた。
スケッチ(ショート・コント)が始まれば、その『毒』はさらに強まる。
イギリス(まあ、正式にはグレート・ブリテン云々と長くなるのでここでは省略)といえば、早くから動物愛護に取り組んでいた国。
なのに、平気で犬猫などのペットを雑に扱い、玩具を壊すように、殺す。ペットの飼い主も同様。
下劣になる時は徹底して、これ以上ないほど低俗になる一方で、イギリス出身の偉人、政治家をこき下ろし、さらに歴史上に名を残す哲学者たちまでも餌食になる。
それが王室まで及ぶのだから、「うーん、やっぱり外国の国営放送は日本と違って寛容だなあ!」なんて変な感心までしてしまう。
要するに、やりたい放題なのだ。
余談だが、イギリスの国営放送BBCは当初「モンティ・パイソン」が深夜番組だったことから、たいして調査もせず公認していたらしい。しかし、その際どい内容に驚いて、慌てて規制をかけたという。
ずいぶんと緩やかな時代だが、BBCが意外と緩いのは名物番組だった『トップ・ギア』を見ても想像がつく(これもかなり際どいギャグが登場する)。
市井の人々によるギャグの応酬もあるが、それ以上に多いのが権威主義に対する皮肉や嫌味を笑いに転嫁させていること。
まあ、絶対に日本では無理なギャグだ。なにしろ忖度の国だから。
もっとも、市井の人々の不条理なギャグは得意で…。となると比較論になって長くなるので割愛。
そんな訳で、私の厄介でねじ曲がった性格は、それ以上にひねくれた怪物に簡単に屈服してしまった。
またまた余談だが、この番組では『モンティ・パイソン』が半分の30分、残りの30分は日本側で構成しているのだけれど、このコーナーでタモリさんがデビューしたのはご承知の通り。
「四カ国語麻雀」や「中洲産業大学教授」などはまさしく『毒』をもったギャグで、大笑いと同時に強い衝撃を受けた。
今、思うと『モンティ・パイソン』のギャグが私のライターとしての資質の一部になっているような気がする(だから一部にしか受けない、と言われればそれまでだが<自虐ネタ<ブリティッシュ・ジョーク)。
多少、映画に詳しくなってくると、観る選択基準として主演者や物語の内容だけでなく監督とか脚本とか、そういったスタッフに目を向けるようになる。かつて、『モンティ・パイソン』のスタッフ兼出演者の1人、テリー・ギリアムに注目したのは、そんな頃だった…。
Column #3 END

