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介護のための「身体図式」基礎論~老化に寄り沿う介護~

 最近、年をとったせいで、物を落としたり、知らぬ間に肘や足をどこかにぶつけてあざをつくっていたり、つまずいて転びそうになったりします。そんな時、年取ったなと思うのです。
 老化がもっと進むと、ADL(Activities of Daily Living:日常生活動作)やIADL(Instrumental Activities of Daily Living:手段的日常生活動作)も低下してしまうのでしょうね。

 高齢者介護とは当事者一人ひとりの老化に付き合っていくことですので、「老化」についての理解が大切だと思います。

 身体の老化は、運動生理学や神経学、脳科学、生物学、心理学など、さまざまな分野の科学によって解明されつつあります。
 こうした客観的で科学的な老化の理解は、頭では理解できても実感が伴わないことが多い気がします。何しろ客観的な研究なので、主観とは無関係なのです。

 例えば、BMIがどうだとか、血清アルブミン値がどうだとか、Barthel Index(バーセルインデックス)がどうだとか、MMSEがどうだとか、要介護度がどうだとか・・・介護の現場では、いろいろな客観的・科学的な数値や事実を突きつけられますが、私たち年寄りは正直、それらを実感することはできません。確かにそれらは私に関することかもしれませんが、なんとなく自分にはあまり関係のない話に感じます。

 老化や人間の存在について、心理的な側面は文系の学問でも分析や理解ができるけれど、身体やADLといった身体的な側面は科学だけが扱えると考える人もいるでしょう。でも、身体には科学だけでは説明しきれない次元があるように感じます。
 老化やADLの低下を主観的に理解するには、やはり現象学が最適だと思います。

 人間の身体、ADL等について、フランスの哲学者、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908年~1961年)の「身体図式(schéma corporel)」という概念などを用いて、私たちの身体や老化、そして介護について考えてみたいと思います。

Maurice Merleau-Ponty 1908年~1961年

 身体図式理論では、ADLやIADLの低下は、単なる筋力低下や機能不全ではなく、「身体と世界(環境)との間の密接不可分な関係性の変化」として説明できます。


 以前、この「身体図式」という概念で「よそよそしい自分の身体」という記事を書いたことがりますが、今回は、もう少し介護に引き付けて考えていきたいと思います。




基礎1.身体図式と時間/空間

(1)「客観的な身体」は実感できない

 私たちは普段、自分の身体を「重さ60kgの物体」「身長160㎝」や「解剖学的なパーツの集まり」として感じているわけではありません。
 また、人間の細胞は30兆〜40兆あると言われていますが、毎日約3,300億〜数千億個(全体の約1〜2%)が死んで新しい細胞と入れ替わっているそうです。とはいえ、そんなことを実感することはもちろんありません。
 客観的科学的な事実でも私たちが実感できないことが多いのです。
 私たちは主観的な世界を生きているのです。

(2)身体図式とは

 身体図式とは「自分の体がどこにあり、どう動かせるかを、いちいち考えなくても把握している無意識のネットワーク」のことです。
 私たちは自分の手を動かすとき、「まず肘を15度曲げて、次に指の筋肉を・・・」なんて考えません。考えなくてもそれができるのは、身体図式が常にバックグラウンドで働いているからです。
 超簡単に言えば、身体図式とは、Windows、macOS、LinuxOS等と同じ身体のOS(オペレーティングシステム)のようなものです。

 ①「身体図式」と「身体イメージ」の違い

 身体図式は、身体イメージとは異なる概念です。
 身体図式は、無意識の領域で内側から感じられるものですが、身体イメージは意識の対象ですし、自分の身体を外から見たものです。
 身体図式と身体イメージを比較した表を以下に示めします。

身体図式と身体イメージの比較表

 ②「私はできる(I can)」の論理

 メルロ=ポンティは、身体を単なる「モノ」ではなく、「世界へと投げ出された可能性」「私はできる(I can)」として捉えました。さらに、身体は志向性や空間性の基軸/基点となっていると指摘しています。

  • 志向性: 私たちの身体は、常に何かの目的(リンゴを掴む、ドアを開けるなど)に向かって開かれています。

  • 空間性: 私たちが感じる「ここ」や「あそこ」は、幾何学的な座標ではなく、自分の身体から届く距離(=行動の可能性)によって決まります。

 ③身体の拡張(道具の取り込み)

 身体図式理論によれば、自分の身体は「自分の肉体の外側まで広がる」とされてます。
 例えば、盲目の人が使う「杖」を思い浮かべると、慣れるにつれて、それは「手に持つ棒」ではなく「世界を探る指先」そのものになります。杖の先が地面に触れたとき、その衝撃は「手」ではなく「杖の先」で感じられるようになるのです。
 このような観点から見ると、新しい道具(車、車椅子、歩行器、シルバーカー、等々)を使いこなすことは、その道具を自分の「身体図式」に組み込み、身体を拡張することに他なりません。

(3)身体図式と時間

 身体図式は、時間経験(時間の生成)にも関係しています。
 身体図式を通じて、時間が「外側から流れてくるもの」ではなく、「身体の志向性によって内側から紡ぎ出されるもの」と感じられるのです。

 ①「動的な現在」としての身体図式

 身体は単に静止した物体ではありません。身体図式とは、常に「次に何をすべきか」という可能性に向けられた「運動的志向性[注1]」の束です。

 この運動志向性の束である身体図式は、過去の保持(把持)の基盤となっていると言えます。例えば、自転車に乗る、楽器を弾くなどの習慣は、過去の経験が身体図式に沈殿し、現在の行動を支える「生きた過去」として機能しているのです。
 また、身体が何かを掴もうとする時、手はすでに「未来の完了地点」を先取り(予持)しているのです。

[注1]運動的志向性とは、意識的な思考や計画なしに、身体が環境や対象に対して直接的かつ目的的に向かう「身体の知」や「自動的な能力」を指します。膝蓋腱反射などの単なる物理的な反射運動ではなく、熟練した動作や生活の習慣的動作に見られる、身体が自動的に世界と関わる能力のことです。

 ②時間の流れと身体図式

 メルロ=ポンティは、時間がバラバラの瞬間(点)の連続ではなく、地続きの「流れ」として感じられる理由を、身体の「把持」と「予持」に求めました。
 過去に身につけたスキルや習慣(記憶や経験)が、今目にしている世界に意味を与え、その結果として、次の適切な行動が自然と引き出されるのです。この身体化された過去の経験(熟練・習慣)が、現在の状況において未来の行動を導く、身体と環境との相互作用のサイクルを志向性の弧(Arc intentionnel)と言います。

 私たちの感覚、知性、行動を統合するこの「指向性の弧」が、過去・現在・未来をひとつの文脈に繋ぎ止めます。身体図式が指向性の弧の基盤となることで、私たちは「今」にいながらにして、過ぎ去った直前と、来たるべき直後を同時に生きることができるのです。

 ③身体図式と時間との関係

 身体図式と時間との関係性を整理すると、下表のようになります。この表を見ると、過去も未来も現在の身体で絡み合い浸透しあっていることが理解できるのではないでしょうか。

時間と身体図式の関係

 時間は、身体が世界と関わる方法そのものと言えるかもしれません。


 時間論については以下のnoteもご参照ください。


(4)身体図式による空間の構造化

 私たちは、自分が空間のどこにいるかをGPSのように座標で把握しているわけではありません。身体図式によって空間は次のように構造化されています。

 ①位置的空間(Positional Space)

 位置的空間は、身体図式の基礎であり、目をつむっていても「自分の手や足が今どこにあるか」を把握できる空間です。固有受容感覚、前庭感覚[注2]、触覚などの感覚入力によって、脳内で常に更新される「身体マップ」のようなものです。この位置的空間があるから、暗闇の中で頭を掻くとき、正確に位置を特定できるのです。

[注2]前庭感覚とは、耳の奥にある内耳の「三半規管」や「前庭」で受容される、身体の傾き・スピード・重力・揺れを感じる感覚。平衡感覚やバランス感覚とも呼ばれ、姿勢を保ったり、目や首の動きを調整したりする、人間が動くための土台となる重要な感覚。

 位置的空間は、主観的かつ無意識的なもので、姿勢の保持や正確な関節運動の調整に必要なものです。この構造が頭頂葉の損傷などで壊れると、自分の腕がどこにあるか分からなくなり、うまく動かせません。

 ②状況的空間 (Situational Space)

 状況的空間とは、自分の身体を基準・基点として、対象物や環境が「ここ(私)」から見て「どこ(そこ)」にあるかを判断する空間です。身体と環境の関係が織りなす空間と言っても良いと思います。
 例えば、狭い隙間を通れるかを「自分の肩幅」と「壁の幅」の関係性で判断して身をすぼめたり、道具(杖や車)を使うと、その道具の先までが身体の機能的範囲として取り込まれたりするのは、この状況的空間があるからです。

 ③身体図式の「拡張」と「習慣」

 状況的区間でも触れましたが、身体図式は肉体の境界線(皮膚)に縛られません道具が身体の一部になる現象は日常茶飯事です。
 例えば、盲人の杖ですが、盲目の人が使う杖は、もはや「手に持っている物体」ではなく、道路の凹凸を感じ取る「触覚器官」そのものになっています。杖の先が身体図式に組み込まれているのです。
 また、熟練したタイピストはキーの位置をいちいち確認しません。指がキーボードという空間を身体図式として取り込んでいるからです。
 そして、「習慣」とは身体図式が更新され、世界の新しい一部を自分の体として「獲得」することに他なりません。

 普通は「心」が「体」を操り人形のように動かしていると考えがちです。しかし、身体図式の概念は、身体そのものに知性がある(身体的知性)ことを示しています。私たちが意識して考える前に、体はすでに世界と対話し、意味を汲み取っているというわけです。
 私の身体は、世界の中に一つの点としてあるのではなく、世界に向かって開かれた一つのシステム、世界を理解するためのメディア(媒体)なのです。


 空間については以下のnoteもご参照ください。


基礎2.現象学的な「老化」とは

 老化によって身体図式は変化しますが、これを理解するには現存的身体習慣的身体といった概念が欠かせません。そして、それらを理解する近道は、幻肢について考えてみることだと思います。

(1)幻肢

 メルロ=ポンティは、幻肢(失ったはずの手足がまだそこにあるように感じ、痛みや動きを覚える現象)は、単なる脳の不具合(神経の誤作動)でも、単なる心の思い込みでもないと言います。
 彼は、私たちの身体を二つの層に分けて考えました。
 一つは現存的身体(Corps actuel)で、今この瞬間に生物学的・物理的に存在している身体、つまり手足を失った後の「欠損した体」です。
 もう一つは習慣的身体(Corps habitué)で、これまでの人生で培ってきた「世界と関わるためのスキル」が染みついた身体、つまり長年「手がある前提」で世界とやり取りしてきた経験の蓄積です。

 幻肢が起こるのは、物理的な「現存的身体」が変化(欠損)しても、世界に応答しようとする「習慣的身体」が以前のまま残っているからです。

(2)世界からの「呼びかけ」が幻肢を作る

 メルロ=ポンティは、幻肢は自分の内部だけで起こるのではなく、「世界との関わり」の中で生じると考えています。
 例えば、幻肢の人の目の前にドアノブがあると、長年の習慣で体は無意識にドアノブを掴もうと構えます。このとき、まるで世界(ドアノブ)が「掴んでほしい」とこちらに呼びかけているように感じられるのです。実際にはもう手は存在しないのに、身体の感覚の中では「掴む」という動作が準備され、その動作の担い手として失ったはずの手が「世界の側」に現れ、自分でも本当に手があるかのように感じてしまうのです。

 幻肢とは、「かつての自分の世界」が今もなお自分に影響を与え続け、身体がそれに反応しようとする「世界へのこだわり」の表れとも言えるでしょう。

 義手を使ったり、手のない状態での生活に慣れていくことで、世界との新しい関わり方(新たな習慣的身体)が形づくられ、身体が新しい状況を受け入れ、身体図式が「書き換え」られると、幻肢は消えるか、あるいは薄れていきます。つまり、古い「世界への回路」が閉じ、幻肢も役目を終えて消えていくのです。

(3)現象学的「老化」

 幻肢を現象学的に説明する際に使われる「現存的身体(今の生身の体)」「習慣的身体(いつもの自分)」という概念を応用すれば、老化についても説明できると思います。

 私たちは普段、自分の体を「ただの物体」としてではなく、「世界と関わるための道具」として生きています。
 老化は生物学的には身体機能の低下ですが、現象学的に見ると、慣れた体の柔軟な適応力が落ちていく過程でもあります。
 健康なときは、その場その場で体が新しい状況にすぐ対応し、それがやがて習慣として定着するという流れがあります。でも、老化はこの流れにズレを生じさせます。
 つまり、世界とつながる生身の体が衰えることで、慣れ親しんだ自分のやり方が通用しなくなり、新しい世界との向き合い方を作り直す必要が出てくるのです。

 老化とは、「現存的身体の限界」が「習慣的身体の動き」を崩しながら、世界との新しい関わり方を探していく、元には戻らない連続的な身体の再構築プロセスと言えます。
 例えば、つまずかないよう歩き方を変えたり、手すりを使ったりと、意識的に工夫して新しい「習慣」を作り、年を重ねてもなお世界とのつながりを築こうとするのが老人なのです。

基礎3.身体図式と世界を繋ぐ「肉(chair:シェール)」

 メルロ=ポンティの晩年の思想における「肉(chair:シェール)」という概念は、人間の身体性と世界が互いに絡み合い、感覚する主体でありつつ感覚される客体でもあるということを指し示す概念です。
 世界を構造化する私の身体である身体図式が、「世界と同じ肉でできた身体(可逆的な存在)」へと深まったのです。
 機能的な概念だった身体図式は、存在論的な「肉:シェール」へと昇華し、主体と客体や空間と時間を分ける近代的な二元論を乗り越え、それらが根源的なレベルで絡み合い、相互に浸透し合う間身体性や共-現前を考える上での重要な概念となっています。

 共‐現前とは、知覚の主体である身体が、空間的・時間的な地平の中で、世界や他者と「すでに共に在る」という原初的な状態のことで、間身体性とは「肉体:シェール」で、私と他者が同じ世界に属し、境界が曖昧な状態で繋がっていることを指します。

 ざっくり言えば、私の身体と他者や世界の身体は、同じ「肉:シェール」という織物からできており、互いに「共-現前」することで、相互に浸透し合う関係(間身体性)を結んでいるということです。

(1)可逆性:反転可能性

 「肉:シェール」には可逆性があります。たとえば、右手が左手に触れるとき、「触れる側」と「触れられる側」は入れ替わることができます。つまり、身体は主体(触れる側)でありながら、同時に物質(触れられる側)でもあるのです。この可逆的な関係は、私と世界、そして他者との間にも成り立っています。  
 私と世界、感覚する者(主体)と感覚されるもの(客体)を分けるのではなく、それらを結びつける根源的な要素が「肉:シェール」なのでしょう。そう考えると、身体も世界も同じ物質「肉:シェール」からできていることになります。

 例えば、「触れる右手は同時に触れられる存在でもある」という二重性(触れる=触れられる)があります。これは、触れる自分と触れられる自分という主客分離の原初的な経験であり、「肉:シェール」は主体(自己)と客体(世界や他者)を二元的に切り離すのではなく、それらを根源的に結びつける、可逆的で感覚的な「存在の素材」なのです。
 また、見る身体が同時に見られる存在でもあるように、感覚する主体と感覚される対象が織りなす「間身体性」の場こそが「肉:シェール」です。
 私たちもまた「肉」であるため、世界は単なる外側の客体ではなく、私たち自身が肉的な世界の一部として含まれているのです。

(2)「肉:シェール」概念を通じた老化の解釈

 メルロ=ポンティの「肉」の概念からすると、老化は単に器官が衰えることではなく、世界と私をつないでいた柔らかな肉の回路が、「自/他」や「能動/受動」の可逆性を保ちながら、別のスタイルへと変わっていく体験と言えるでしょう。
 「肉:シェール」の視点から見ると、老化には次の契機を見て取ることができます。 

 ①「身体図式」の縮小

 私たちは「ここにある身体」と「あそこにある物体」を頭で計算して動いているわけではなく、身体が世界に延びて一体化している感覚(身体的図式)で空間を捉えています。
 ところが、年齢を重ねると、かつては「手を伸ばせば届く」と感じていた空間(まるで自分の一部のようだった領域)が、少しずつ「遠い場所」「よそよそしい場所」に変わっていきます。
 さらに、若い頃には空間を「可能性(何かができる場)」として見ていたのが、老化とともに「負担(移動しなければならない距離)」として感じるようになります。

 ②世界がよそよそしくなる

 自己の肉と世界の肉との「重なり」が薄れ、以前は自分の一部のように自在だった空間が、外側にある異物として現れます。これが、段差を踏み外したり、距離感をつかみにくくなったりする現象の本質です。こうして、世界は次第によそよそしい存在へと変わっていくのです。

 ③世界との没交流

 「肉:シェール」の理論の核心は、「自分は世界を見ていると同時に、世界からも見られている(可逆性)」という相互浸透性にあります。
 ところが、年齢を重ねるにつれ、自分の身体が以前のように「自分の一部」として自由に動かせず、次第に「外部のモノ(客体)」や「受け身的な存在」として感じられるようになります。
 つまり、「見る⇔見られる」「触れる⇔触れられる」といった能動と受動の入れ替わりが起こりにくくなり、主観と客観が分離・固定化しやすくなるのです。
 その結果、「見えるもの」と「見るもの」の交換が行われず、世界から「見られている」という実存的なつながりが断たれ、生活世界が色あせてしまう恐れがあります。

(3)老化を「生きられた身体」として捉える

 メルロ=ポンティは、身体を「客体(モノ)としての身体」ではなく、一人称の視点で感じ、知覚される「生きられた身体」として捉えています。
 さらに、「肉:シェール」とは「感じるもの/感じられるもの」「見るもの/見られるもの」、つまり能動と受動が交差する原初的な存在の織物だとしています。
 「生きられた身体」が「肉:シェール」の経験(感じ、触れること)を通じて世界や他者と深く結びついていると考えるなら、老化とは単に物質的な身体が衰えること(客観的な見方)以上に、世界と交感する場としての「私の肉:シェール」が変容していく過程といえるでしょう。

 年を重ねて衰えを感じることは、老いや死と向き合いながら、世界とのつながりや自分らしさを新しく形づくっていく成熟の過程でもあり、もしかすると実存的な旅なのかもしれません。

 次のnote『老化に寄り沿う介護~介護のための「身体図式」本論~』に続きます。


 認知症に関しては以下のnoteもご参考にしてください。



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