小さな卵の、帰り道
うずら卵の、日本一の産地を知っていますか。
愛知県の東三河。豊橋を中心としたこの一帯で、日本のうずら卵の多くが生まれています。
小さくて、味が濃い。
火が通りやすく、弁当にも、スープにも、おつまみにもなる。
でも、2024年の春先から、その産地が少し静かになりました。
きっかけは、ある給食の事故でした。
小学校で、うずら卵をのどに詰まらせ、ひとりの子どもが亡くなった。
痛ましい事故です。
それ以来、全国で、給食にうずら卵を使うことを控える動きが広がりました。
売れなくなる。
使われなくなる。
そして、少しずつ、食卓からも遠ざかっていく。
でも。
うずら卵そのものは、何も変わっていません。
ちゃんと、おいしい卵です。
その頃、東三河のあるうずら卵加工会社でも、小さな悩みが生まれていました。
「どうしたら、もう一度食べてもらえるんだろう」
商品開発課の大池貴恵、32歳。
料理は、得意ではありません。
疲れて帰れば、冷凍餃子の日もある。
それでも、昼休みにぽろっと口にしたことがありました。
「安全です、だけじゃ戻らないですよね」
「どう食べたらおいしいか、そこまで届いてない気がする」
営業課の佐伯さんが、笑いながら言いました。
「じゃあ、社員でレシピ出してみます?」
半分、冗談のような会話でした。
でも、それが少しずつ広がっていきました。
気づけば、社内では名前まで付いていました。
『おかえり!うずら卵レシピ』
条件は3つ。
家庭で作れること。
難しすぎないこと。
そして――うずら卵を、もう一度食べたくなること。
これは、その小さなコンテストから始まった3つのうずら卵レシピの話です。
第1話 半日、置くだけ
うずら卵のレモン胡椒漬け
最初に貴恵が出会ったのは、「半日、置くだけ」のレシピでした。
ある日の昼休み。
試作室の冷蔵庫を開けると、隅に透明な保存袋が置かれていた。
ころころとした卵。
オリーブオイルを帯びた黄色い漬けだれ。
黒胡椒の粒。
レモンの皮が、薄く張りついている。
袋をのぞき込むと、レモンの香りがほのかに立った。
重たくなりがちな昼休みの空気を、ほんの少し軽くするような匂い。

貴恵が袋をのぞき込んだとき、背後から声がした。
「それ、私の応募レシピです」
振り向くと、営業課の佐伯さんが、少し照れたように立っていた。
「レモン胡椒漬け。入れて、半日置くだけです」
半日、置くだけ。
その言葉が、妙に残った。
「火も使わないんですか」
「使いません」
佐伯さんは保存袋を軽く持ち上げた。
「営業でお客さん回ってると、結構言われるんですよ。うずら卵って、買っても何に使えばいいかわからないって」
貴恵は、少しだけうなずいた。
それは、何度も聞いてきた言葉だった。
かわいい。
便利そう。
でも、どう使えばいいかわからない。
その “わからない” の前で、うずら卵は止まってしまう。
「だから、料理が得意な人だけが使う食材にしたら、戻らないと思って」
佐伯さんは、保存袋を見ながら言った。
「私も帰りが遅い日が多いんです。でも冷蔵庫にこれが入ってると、なんか少し助かるんですよね」
貴恵は、袋の中の小さな卵を見つめた。
社員レシピコンテスト。
最初は、もっと気の利いた料理が並ぶのだと思っていた。
開発課らしい、少し驚きのあるもの。
凝ったものや、“商品っぽい”もの。
でも、目の前にあるのは、保存袋だった。
半日、置くだけ。
火も使わない。
それなのに、妙にちゃんとしている。
「食べてみます?」
佐伯さんが、小皿に数粒を移してくれた。
卵の表面は、うっすら油をまとって光っている。
黒胡椒が点々とつき、近づけると、レモンの香りがふわりと立った。
貴恵は、一粒、口に入れた。
最初に来るのは、黒胡椒。
ぴりっとして、少し目が覚める。
追いかけるように、レモンの酸味。
そのあと、にんにくとオリーブオイルの香りがふわっと広がる。
最後に、うずら卵の丸いコクだけが、口の中に残った。
小さいのに、味がちゃんと動く。
気づくと、貴恵はもう一粒取っていた。
「……これ、家でも作れますね」
思わず出た言葉に、佐伯さんが笑った。
「それが一番うれしいです」
すごい料理ではない。
映えるかと言われれば、派手でもない。
でも、冷蔵庫にこれがあったら、たぶんつまむ。
夕飯を作る前に、ひとつ。
風呂上がりに、ひとつ。
翌朝、弁当の隙間に、ひとつ。
気づけば、なくなっている気がした。
疲れて帰った火曜の夜でも、また作れそうだった。
もしかすると。
うずら卵が食卓に戻るのに必要なのは、
“すごい料理”ではなく、
「また作ろう」と思えることなのかもしれない。
「レシピ、見せてもらってもいいですか」
貴恵が聞くと、佐伯さんはスマホを差し出した。
そこには、拍子抜けするほど短い手順が書かれていた。
調味料を入れる。
卵を入れる。
もむ。
置く。
それだけ。
貴恵は、その短さに少し救われた。
うずら卵を食卓に戻すには、何か大きなことをしなければいけないと思っていた。
新しい商品。
強い企画。
誰かを説得する言葉。
でも。
最初の一歩は、もっと小さくてもいいのかもしれない。
保存袋ひとつ。
半日。
そして、「また作ろう」と思える味。
貴恵は、もう一粒、口に入れた。
レモンの明るさが、重かった昼休みを少しだけ軽くした。
うずら卵のレモン胡椒漬け
保存袋に、
レモン汁、オリーブオイル、コンソメ、にんにく、粗びき黒胡椒を入れる。そこへ、うずら卵の水煮を加えてよくもむ。
あとは冷蔵庫で半日置くだけ。
レモンの香りと黒胡椒の刺激が、うずら卵のコクを引き立てる。
冷蔵庫にあると、つい一粒つまみたくなる味です。
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第2話 子どもの皿へ、もう一度
チキンライスのうずら卵ポタージュがけ
昼休みが終わるころ、試作室の奥から、やわらかな匂いが立ちはじめた。
じゃがいも、玉ねぎ、にんじん。牛乳。
さっきまでのレモンの香りとは、少し違う。
どこか、ほっとする匂いだった。
ステンレスの鍋から湯気が立ちのぼり、やさしい黄色のポタージュがブレンダーの振動に合わせて静かに揺れていた。
試作室らしい白い作業服の袖口に、小さなしぶきが飛ぶ。
ポタージュを作っていたのは、入社二年目の若手だった。

「これ、子ども向けにいけると思うんですよ」
ブレンダーを止めながら、少し照れたように言った。
「うち、姉の子がいるんですけど」
そう言って、鍋の中をのぞき込む。
「事故のあと、親のほうが怖がっちゃって」
手が、少しだけ止まった。
「前は好きだったらしいんですよ。うずら卵」
「給食に入ってると、先に食べるか最後に残すか迷うくらい」
貴恵は、少し笑った。
なんとなく、わかる。
小さいのに、見つけると少し嬉しい。
そんな食べ物だった。
「でも最近、ぜんぜん食べなくなったらしくて」
若手は、鍋を弱火に戻した。
「だから、スープの中にいたらどうかなって思ったんです」
「“危ない”じゃなくて、“あ、入ってた”くらいなら」
そう言って、別の皿を指した。
赤いチキンライスだった。
どこか給食を思い出させる色だった。
「この上に、ポタージュをかけます」
やさしい黄色のポタージュが、赤いチキンライスの上に、とろりと広がっていく。
じわっと染みていく。
赤と黄色が重なっただけで、皿が少しあたたかい色になった。
「うずらは?」
貴恵が聞くと、若手は鍋を指した。
「ポタージュの中です」
「中に?」
「はい。気づかないかもしれないくらいですけど」
そう言って笑う。
「主張しすぎない方がいいかなって」
「逆に、“あ、入ってた”くらいが」
貴恵は、スプーンですくって、ひと口食べた。
最初に来るのは、バターのやわらかさ。
そのあとを、トマトと鶏のうま味が追いかける。
あたたかい。
やさしい。
でも、ちゃんと夕飯だ。
レモン胡椒漬けは、卵そのものを味わう料理だった。
でも、これは違う。
卵が、料理の中に自然にいる。
気づけば、いる。
その感じが、妙にいいと思った。
主役を奪わなくてもいい。
ちゃんと皿の中に戻ってこられる。
うずら卵が、そういう帰り方をしてもいいのだと、貴恵は初めて思った。
「これ、うちの子、好きそう」
試食していた品質保証の先輩が言った。
子どものいる食卓。
事故のあと、少し遠ざかってしまった場所だった。
でも、戻り方は、ひとつじゃなくていい。
ポタージュの中にいたっていい。
気づいたら、そこにいて。
「あ、入ってた」
そう言って笑ってもらえたら、それでもいい。
貴恵は、もうひと口すくった。
思っていたより、ずっと自然だった。
チキンライスのうずら卵ポタージュがけ
やさしいポタージュの中にうずら卵。
子どもにも食べやすく、翌朝のスープにも使える一皿です。
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第3話 麻婆の上で、卵が変わる
うずら卵の麻婆白子風
その日の午後。
ごま油と豆板醤の匂いが立ちはじめた。
ポタージュのやさしい香りとは、まったく違う。
赤いものが、ぐつぐつ煮えている。
「それは?」
貴恵が近づくと、入社五年目の後輩が、少し得意げに振り向いた。
「攻めてみました」
差し出された皿を見て、貴恵は思わず止まる。
真っ赤な麻婆あん。
その上に、つやつやとしたうずら卵が、いくつも並んでいた。
ひとつではない。
ごろごろと、いる。
「……攻めすぎじゃない?」
思わず言うと、後輩が笑った。
「だから、印象に残るかなって」
そう言って、レンゲを差し出す。
「割ってみてください」
卵の真ん中に、そっと先を入れる。
とろり。
半熟の黄身が、赤いあんの上へ流れ落ちた。

豆腐の白。
麻婆の赤。
その間に、やわらかい黄色が広がっていく。
見た目だけで、食べたくなる。
「これ、SNSで半熟卵の麻婆見たことあって」
後輩が言う。
「でも鶏卵だと重そうだったんです」
「うずら卵なら、小さいし、もっと気軽にいけるかなって」
なるほど、と思った。
若い人の発想だった。
定番を守るより、少し変える。
写真を撮りたくなる。
誰かに言いたくなる。
そういう料理。
貴恵は、ひと口食べた。
先に来るのは、豆板醤の辛さ。
少し遅れて、ひき肉と甜麺醤の甘み。
そこへ、半熟の黄身が混ざる。
角が、少しだけ丸くなる。
辛さがやわらぐというより、味に奥行きが出る。
豆腐とも違う。
肉とも違う。
濃くて、やわらかいものが舌に残った。
「……白子みたい」
思わずこぼれる。
「でしょ?」
後輩が、少し嬉しそうに笑った。
うずら卵が、こんな顔をするとは思わなかった。
レモン胡椒漬けは、卵そのものの味だった。
ポタージュは、卵がそっと脇にいた。
そして、これは――
卵が別のものに変わっていた。
同じ卵なのに、こんな帰り方もある。
それが、貴恵には少し眩しかった。
試作室の端で、誰かがスマホを向けている。
「これ、映えるな」
営業の男性が笑う。
隣では、品質保証の先輩が言った。
「これ、酒にも白飯にも合うな」
誰かは子どもを思い。
誰かは平日の楽さを考え。
誰かは、少し楽しい食べ方を探している。
事故のあと。
貴恵はずっと、ひとつの問いを抱えていた。
何を作れば、うずら卵は戻ってくるのだろう。
でも、問い方が違ったのかもしれない。
正しい一品を探すことではない。
戻ってこられる場所を、増やすこと。
平日の、疲れた夜に。
子どものいる食卓に。
そして、お酒を飲む金曜の皿に。
うずら卵が帰る場所は、ひとつでなくていい。
その帰り。
貴恵はスーパーへ寄った。
豆腐。
牛乳。
人参。
そして、うずら卵。
かごに入れてから、自分でも少し笑った。
うずら卵を、献立の中心で考える日が来るなんて。
少し前までは、思ってもみなかった。
売り場のうずら卵は、まだ少し肩身がせまそうに見えた。
でも、買う人がいれば、また並ぶ。
並べば、また誰かの目に触れる。
小さな卵の、小さな帰り道だった。
うずら卵の麻婆白子風
半熟に茹でたうずら卵を、熱々の麻婆豆腐の上へ。
レンゲで割ると、とろりと黄身が広がり、豆板醤の辛さにまろやかさが加わります。
うずら卵が、ただの具材ではなく、料理そのものの表情を変えてくれる一皿です。
ご飯にも、お酒にもよく合います。
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終章 小さな卵を、もう一度
社員レシピコンテストの結果がどうだったか。
それは、あとから思えば、あまり大事なことではなかった。
大事だったのは、貴恵が、うずら卵を献立の中心で考えるようになったこと。
疲れた火曜の夜には、レモン胡椒漬け。
少し寒い日には、ポタージュ。
金曜の夜なら、麻婆の上に半熟を落とす。
事故のあと。
うずら卵は、いちばん戻ってほしい場所から、少し遠ざかってしまった。
子どものいる食卓だ。
本当は、好きな子が多い。
弁当に入っていると少し嬉しくて、給食の中に見つけると、先に食べるか最後に残すか迷う。
そんな、小さな卵だった。
だからこそ。
戻り方は、ひとつじゃなくていいと思う。
主役の日があってもいい。
料理の中に、そっといてもいい。
「あ、入ってた」
そう言って笑ってもらえたら、それで十分だ。
日本一の産地で生まれた、小さな卵です。

もし今日の夕飯に迷ったら。
どうか一度、思い出してほしい。
うずら卵には、まだ帰れる場所がある。
ー完ー
小さな卵 三部作
学校給食から姿を消したうずら卵。
その後を追った三つの物語です。
新しい届け方をつくる物語
子どもたちへ届ける物語
食卓へ戻す物語
うずら卵の未来は、
誰かひとりが変えるものではなく、
多くの人の小さな選択の積み重ねでできている。
