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【あがり症|美大受験3】うにのデッサンが上段の隅っこに、かろうじて置かれる|ふるえるままに、すすめ23

あがり症でHSP気質のうにが、美大受験、大学中退、そしてその後も続いていく日々の中で、変わりたくても変われない、どうしようもない自分を抱えたまま世界を泳いでいく『うに』のイラスト付き連載エッセイです。うまくいかない日も多いけど、うにはうにのまま、ふるえるままに進んでいきます。

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ざわっとした空気が、デッサン室の中に流れました。
うにはトイレで手を洗って戻ってきたばかりで、
一瞬、何が起きているのか把握するのが遅れました。

春期講習、最後のデッサン講評の日。
ひな壇のように組まれたイーゼルの上段に、
一枚だけ、現役生による稚拙なデッサンが混ざっていました。

「あれ、うにちゃんのじゃん……!」
隣で、ゆきちゃんが小さく息を呑むのがわかりました。
「うに、上段にあるよ……! すごい……!」

うには、全身から血の気が引いていくのを感じました。
指先が冷たくなり、小刻みに震えます。

逃げたい。今すぐ、この場から消えてしまいたい。

いつもは、目立たないように下段の隅に自分の絵を置いていました。
どうせ初心者、上段になんて行くわけがない。
恥ずかしいから、見つからないように、下手に注目を集めないように。
そうやって、なんとか春期講習をやり過ごしてきたのに。

講師たちの列の中に、波多野先生の姿が見えました。
こちらを見て、にやりと笑っています。


――お前の絵、講評するからな。

って、目が言っています。

怖い。なんで。

うにの絵は、全然うまくありません。
形が取れなくて、何度も何度も練りゴムで消しては描き直した跡が、
紙の目を潰して黒ずんでいる。
熟練した浪人生たちの美しいデッサンの中に、
その荒削りな一枚は、ひどく場違いに浮き上がっていました。

うには、ゆきちゃんたちの背後に隠れるように立ちました。
目立ちたくない一心で……

だけどそのとき、
ゆきちゃんがどんな顔をしてこちらを見ていたか、
うには考えもしなかったのです。

「ここから上と、ここから下」

ステンレスの指示棒がシャッと音を立てて伸び、
中年の貫禄ある講師が、作品群を真っ二つに区切りました。
今日の講評担当は、毒舌で有名なN先生。

「いいか。ここから上の奴らのデッサンは、悩んでいることに意味がある。自分の何ができていないか、わかっていて悩んでる。だから、そのまま悩め」

「で、ここから下の奴ら。お前らは、今の段階で悩んでも無駄だ。そもそも、見れてない。見れていないことに、自分自身で気が付いてもいない。まずは、よく見ろ。自分で気付けないと、はじまらん」

下段に並べられた生徒たちが、一斉に視線を落としました。

「それから、ここから上の奴ら」

先生が、もう一度指示棒を上段に向けます。


「褒められたと思って勘違いするなよ。こなれた感じのデッサン描いて、上段になったと思って喜ぶな。あらためて石膏を見ろ。自分の苦手なところから逃げるな。正面からがっつり取り組め。そうじゃないと、何枚描いても、時間の無駄だぞ」

浪人の先輩たちが同様にうなだれる中、指示棒の先が、上段の端にある一枚を指しました。

「それから、これ。この絵描いた奴。手を上げろ」
うには、消え入りそうな動作で上げました。
「あ~、そこか。そんな端っこにいたら見えないだろ」
先生は、ぶつくさ言いながら、
もう一度、その黒ずんだデッサンを指示棒でさしました。

「この絵な、わりといいぞ」
「え……」
急に褒められて驚いて、
頬が熱くなって、思わずうつむいてしまいます。

「すごい悩んでるのは、この消しあとからわかるが、このうねうねした髪の毛とか、服のヒダの影とか、むずかしいところを逃げないで描いてる感じがわかる」

少しだけ、間があきます。

「ん~まあ、技術は全然、追いついてないけどな!」

先生同士が顔を見合わせて笑い、張り詰めていた教室の空気が、わずかに緩みました。

うにの絵の講評は終わり、その後は、ひとりひとりに、さらに踏み込んだ講評が続いていきました。

大学受験のための課題には、ある共通した要素があります。
それが、「めんどくさいもの」です。

石膏像の入り組んだ髪の毛。体に沿って流れ落ちる服の襞(ヒダ)。
描いても描いても似てくれない顔の印象。
静物デッサンなら、水の入ったペットボトルに映り込んだ、
チェック柄のテーブルクロスが複雑に歪む様子。
あるいは、コンクリートブロックにランダムに、
ぐるぐると巻きつけられたロープ。
光る缶ジュースの缶の表面に水滴。
缶にプリントされているコカ・コーラのロゴマーク。

どれもほんとに、描くのがめんどくさいものばかり。

なぜ、わざわざこんなに面倒な課題を出すのか。

――ああ、受験は、これを描けっていう意味なんだ。

出題されるモチーフには、
必ず「逃げたくなるほど面倒な部分」が仕込まれています。
それを、なんとなくそれっぽく描いて仕上げるのか。
それとも、真正面から四つに組んで描く覚悟があるのか。

技術力の勝負に持ち込んだら、
現役生は浪人生に負けるに決まっています。
それに、現役生にとっては、ほぼ9割の課題が、今まで描いたことがない初見のモチーフばかり。
だからこそ、慣れが一切なく
目の前のものを、1回1回、真剣に見るしかないんです。
(一方で、浪人生は『描いたことがある』って言う経験から、僅かな慣れや飽きが生まれしまう時がある。とても僅かなのに、それは画面に滲んでしまう…)

現役生が唯一対抗できる武器は、
先入観のないフレッシュさと、そこから逃げない愚直さだけ。
現役生に勝機があるとしたら、そこにしかない。

めんどくさいものから、目を逸らさないで。
フレッシュな目で見た目の前のものを、粘り強くひたすらに紙に定着させる。
見えたままを、見えたように。
自分の技術が全然追いついていないのはわかっている。
受験の日までに、それが間に合う保証なんてどこにもない。
そのうえで、泥臭く食らいつく。

「現役生は、受験当日の試験時間でさえ伸びるんだぞ」
夜間部に通う自分たちを勇気づけるために、先生たちがよく言っていた言葉です。半分は気休めかもしれないけど。

「逃げずに描け」というのは、つまりそういうことなんじゃないか。
うには、とてもシンプルに、そう解釈したのです。

道具を片付けていると、ふと気がつきました。
いつのまにか、波多野先生がすぐ横に立っています。

「うにってさ、なんか運動部とか入ってた?」
「え…? 入ってません…」

「なんか、そういう経験があるタイプに似てるんだよなあ。
基礎を自分に叩き込むのが早いっていうか」

波多野先生が、考え込むように言いながら、うにの作品を見ています。
うには、間に耐えられなくなって、小さな声で答えました。

「えっと……書道してました…」

「お。書道か。どれくらいやってたの?」

「え、小1から……9年くらい」

「おお。なるほど……」

そう言ったきり、波多野先生はそれ以上何も言わず、
うにの絵を眺めています。

「……あの、トイレに……」

誰にともなく言い訳をして、うにはそそくさとその場を離れました。
はあ、陽キャの沈黙は怖すぎる……。


「ねえ」

トイレで、もう何度目になるかわからない、
すっかりきれいになっている手を洗っていると、
ゆきちゃんの声が、すぐ後ろからしました。

「さっき、波多野先生と何話してたの?」

鏡の中のゆきちゃんは、
いつもより少しだけ、真剣な顔をしています。

「えっと……なんか……部活とかやってたのかって」

「それで?」

「……書道って言ったら、なるほどな、って」

「それだけ?」

「うん、それだけ」

「そっか……」

ゆきちゃんは、鏡越しに一瞬だけ視線を外しました。
ほんの、一瞬だけ。

「あ~、もう、N先生、超怖かったよね!
いいなあ~、うにちゃん、ほめられてたじゃん!」


次に彼女が顔を上げたときには、
いつもの明るい笑顔に戻っていました。

「いや、技術的には全然だって、言われたし……」
うにはもごもごと答えながら
ゆきちゃんの笑顔をみていました。

ああ、もしかしたら――
ゆきちゃんは、波多野先生のことが好きなのかもしれない。
理由なんて説明できないけど、ただ、なんとなく、
ふと思いました。



……でも、違うかも?


うには、人の気持ちを汲み取るのが、
もともと得意じゃないから断定はできない……。
恋愛感情となると、なおさら、わからない。
誰かを「好きになる」っていう感覚自体、
いまいちよくわかっていないのです。

「ねえねえ、波多野先生、かっこいいと思わない?」
「彼女いるのかなー、絶対モテるよね!」

夜間部に通う仲間たちがそんなふうに騒いでいても、
うには、
(うーん、確かに、いかにも陽キャだよなあ……)
とかは思うけれど
かっこいいかどうかはわからない。

結局のところ、好みなんて人それぞれだし?
うには、陽キャは苦手だ……

(波多野先生には、なるべく近づかないようにしておこう……)

ゆきちゃんに余計な気を遣うのも、なんか嫌だし。


うにには、そんなことを考えている余裕なんて、これっぽっちもありませんでした。

『浪人は認めません。高校の成績は、内部推薦が取れるレベルを維持すること。秋までやってみて、現役合格が無理そうだったら、あきらめて付属大に進むこと』

受験以外の余計な感情に
エネルギーを削がれているわけにはいかないのです。
うには蛇口をきゅっと、音が出るほど強く閉めて、教室に戻りました。


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※本作は実体験をもとに再構成した創作エッセイです。

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本作は実体験に着想を得たエッセイですが、プライバシー配慮のため登場人物・団体・時系列・場所等に創作・合成・編集を含みます。特定を意図していません。ただし、うにが感じた気持ちと気づきは本物です。

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