『夜明けの18秒』Episode 8 夜明けの駅と、約束の終わり【創作大賞2025・ファンタジー小説部門】
プロローグ・episode1 小さな違和感と、雪の降る日に
episodeの2 不可逆な時間
episode 3 ひとりの記憶、ふたりの放課後
episode 4 記憶が目を覚ます時
episode5 旅のはじまりと、雪原の光
Episode 6 夜と昼の境界で
Episode 7 クレーンフェルトへの18秒
episode8 夜明けの駅と、約束の終わり
窓の外に広がるのは、これまで見たどの景色とも違っていた。
そこには、雪の積もらない森があった。
けれど、葉はすでに落ちていて、地面には無数の記憶の影が積もっていた。駅舎の看板には、風に削れながらも、こう刻まれていた。
”はじまりの町” ⸻と。
僕は無意識に懐中時計を取り出した。
時間は、再び、夜明けの時間を指し示そうとしていた。
秒針が、その場で止まりかけ、ふいに、ひときわ大きな音で一秒だけ、カチ、と刻んだ。
ヨアケが言った。
「ここが、約束の場所なんだよ」
そして、静かに扉が開いた。
扉の向こうには、誰かが待っている気配があった。
プラットフォームは、窓越しに見るよりもずっと古びていた。ドアが開くと、冷たい風に交じってどこか温かな気配が漂った。それでも、ここでも雪は降っていた。
ヨアケと並んで降り立つと、そこには、ミーシャがいた。そのとき、空気の向こうから小さな足音が響いた。
ミーシャは振り返り、ゆっくりと一歩を踏み出した。
その先にはどこか既視感のある男がいた。背の高い、黒の懐中時計を持つその男は、指先で帽子をそっと外して、胸元に置いた。
時計台の下。セディさんの店の前。そして、列車の走り出す直前の雪景色。過去を手繰り寄せたその先には、この男がいた。
静かに視線をこちらに向けたあと、男はゆっくりと話し始めた。
「来たんだね、ナオ」
声は、どこか遠くから聞こえるようで、体の奥底に響くようだった。ミーシャは静かに「にゃおん」とだけ返事をした。
言葉を飲み込んで、一度深呼吸をする。時間と記憶の狭間を渡ってきた全てが、その一瞬にしてぴたりと繋がった。結末はとうに知っていたはずなのに。
「ナオ。少し待たせたね」
僕が、僕に声をかけた。
そこにいたのは、随分と背の高い、大人の姿の、僕だった ⸻。
あの時、パーシさんにもらったトランクを開けた時、その中の一枚の写真。
そこには、 成長した僕の姿が写っていた。黒のスーツと、帽子をかぶって。足元には、ミーシャ。それは、きっと、未来の影の僕。どこかパパに似ていて、どこか、ママに似ていた。家にあった肖像画。見覚えのある、僕そのもの。
一拍、大きく鼓動が響いた。
『目を、合わせてはいけない』
パーシの声が再び過ぎる。
それは、自分という存在が、同じ世界の線上にいてはいけないと言う意味だったのかもしれない。存在は、過去でも未来でも、僕は結局は、一人しかいないのだから。それでも、僕は、彼の瞳をゆっくりと捉える。
ミーシャはふたりの僕たちを見比べて、またひと鳴きして、駅舎の絵のように静かな町並みを見下ろした。その視線の先に、確かに終わりとはじまりが同居していたように思えた。大人の僕は、微かに笑っていた。
「なぜ来た?もう全て思い出したんだろう?」
「全部じゃない。でも、ほとんど」
僕は、袖を引いたヨアケの手を握り返して言った。
「ヨアケ、君ももう、わかっているよね。答え合わせをしよう。昨日と、今日の」
そして、その言葉を継ぐように、大人のナオは、ゆっくりと語りはじめた。
「時間は、不可逆だ。降り積もる雪のなかで、記憶を失い、美しく眠る。それは祝福だと思っていた。でも……」
視線の先で、ヨアケの姿がわずかに霞み始めていた。
「ヨアケを助けたくて、僕は祈った。あの日、泉のそばで。このままでいいから、どうか時間を止めて、と。この命と引き換えにしても良い。どうか、時を戻して。永遠に、あの頃のままに…」
沈黙が暗闇に広がった。そして、その沈黙をヨアケの掠れた声がそれを破いていった。
「……私も祈ったの」
ヨアケが言った。その声は、重たくその場の空気に押しつぶされそうに、それでも力強かった。
「ナオを守って。ナオを泣かせないでって、ずっとお願いしてたの」
ミーシャはまだ、遠くを静かに眺めていた。耳だけを少しだけたてて。
「ナオ、僕たちの祈りは、世界の構造をねじ曲げた。時計はこの世でひとつだけ。それは、ヨアケの持っていた銀の懐中時計。世界の時間を唯一動かす、時計」
僕は、吸い込まれるように、僕自身の大人の僕の瞳を見た。なぜだろう。優しく緩んだ瞳に涙を浮かべている。大人のナオはどこか凛として、言葉を継いだ。
「泉は、その時間の“記憶”を溜める場所だったんだ。誰かが強く祈った記憶は、この泉に沈んで、やがて世界の流れそのものを狂わせる。時間が壊れた原因は、時計じゃなくて……願いそのものだったのかもしれない。あの日、銀の懐中時計が泉の底に沈んだ時に…」
大人の僕が話に耳を傾けながら、僕の耳の奥で何か高音の音がした。蓋をしていた過去は、もう堰き止めることはできなかった。
「それを拾いあげたのは…そう。ミーシャだ。ヨアケではなく、懐中時計だけを。それが、ミーシャの役割でもあったからね」
ヨアケは、かすかに震えていた。
『ミーシャはある日、この懐中時計を、僕に届けたんだ。あなたも、案内役になってくれるでしょう?ってね』
パーシさんが暖炉の前で話していた光景が浮かぶ。
「時計は、2つに分かれた。そして、それは、僕たちの存在も2つに分けた。世界を変えたいと、強く願ったとき。それは、ふたつに分かれるから。ヨアケの願いが、もう一つの時計を生み出した。それは、世界の時を止める、世界を終末に導く時計。時をこえるものは、命をひきかえにした、願いの中に生まれるから」
それは、ヨアケが世界に戻れなかった時に、ミーシャへと託した願いだったのかもしれない。
それ以来、フィンロッホは止まった。朝も夜も、今日という一日に閉じ込められた町に、姿を変えて。
「ナオ。時間を止めたのは、私だったのかもしれない。手放したくない時間が来るのが、あの時、もう、わかり始めていたから。どこか雪のふりつもる世界の結末の先に、ただ、泉はあったの。先に時計が落ちた ⸻。私の手から、取り上げるように」
ヨアケは微笑んだ。その輪郭は、雪に似て薄れていた。
「永遠の時間に取り残されること、あの時、わかったの。あぁ、もうナオとは会えないんだって、理解した。でも……でもね、ナオ。それは、ちゃんと終わらせなきゃいけないって思ってた。巻き込んじゃって、ごめんね。そして、町のみんなまでも…」
ミーシャの記憶の奥に隠されていたもの。世界の終わりと、ヨアケの終わり。僕たちの終わりの時間。僕は、ヨアケの顔を見た。
わかっていたよ、ネバートレインに乗る、ずっと前から。どこか消えいりそうな、君を見つめながら。
「ヨアケ、僕は、きみにもう一度会えてよかった。さよならを、言うために」
僕は、ポケットから銀の懐中時計を取り出した。一秒、また、一秒。そうやって、時間は当たり前に進んでいった。雪の降りしきる暗闇の中で、僕たちはまた、夜明けを迎える。
「ナオ、時間は不可逆なんだ。戻らないと決めることもまた、選択。僕は時間の歪みの中から、君たちをずっと見ていた。どうか、選択しないでほしいと願いながらね。12歳の、ナオ。本当に、いいんだな。これで、ヨアケにはもう会えなくなる。あの教室に入ったとき、虚しさを思い出したろう。あの頃にまた、戻るんだぞ」
大人のナオの目からは、大粒の涙がひとつ、またひとつと、こぼれ落ちていた。
「僕は、昨日を取り戻す。それがどんなにつらいことだったとしても、ヨアケに二度と会えないことになっても、”今日”を、胸を張って生きていきたい。昨日も、今日も、明日も。それは、僕たちが生きてきた証だから。ナオ、僕たちに約束を思い出させてくれて、ありがとう。僕は止まった時の中で、ちゃんと”今日”を生きることを思い出すことができたから」
そして、大人の僕は、黒の懐中時計をゆっくりと差し出しながら、近づいてくる。微笑みと痛みが、闇に照らされて、どこかやさしく語りかけた。これは、僕たちの、無言の合意だった。やっぱり…僕は、大人になっても、僕だった。
「ナオ。私の時間は、きっともう終わってたの。あなたが歩き出す、その一歩のために、私はここまで戻ってきたんだと思う。…ナオ、ありがとう」
大人のナオ、ヨアケ、僕。
銀と、黒の懐中時計が僕たちの手の中で並ぶ。
3人は、ゆっくりと近づいて、額をあてて、数え出す。
時計の針は二度目の”6時41分”を指していた。懐中時計は、徐々に重たく熱を帯びていく。ゆっくりと、喉の奥がしずかに震える。
『1、2、3、4、5、6、7、8、9……』
重なる声…。
針は、進んでいく。もう戻れない時。不可逆で、残酷で、やさしい時の進み方をした。
⸻18。
ふたつの針が、ぴたりと6時41分18秒で重なった。ヨアケの手がふわりと宙を撫でた。そして、秒針は跳ねた。
⸻カチ。
世界が、静止したようだった。雪の結晶さえ、落ちることをやめたように、空中でかすかに揺れていた。
あたりは、白く輝くように包まれた。
光の粒となって、ヨアケは消えかかっている。
2つの懐中時計が小刻みに震えて、燻るように、熱をさらに帯びていく。
⸻カチ。
音がした。秒針がまたひとつ、動いた。
“6:41:18”だった時刻が、“19”に。
それは、祈りのような一秒。
もう会えないはずだった“誰か”に届いた、小さな一秒。大人のナオと、ヨアケは、僕に額をつけたまま、そこに立ち尽くしていた。
ふわりと、ナオの、心の叫び声が聞こえる。声にならない空気だけが、僕にだけは伝わる。どこか手放したくない未練。まだ終わりたくないことを、震える空気がそっと教えた。
わかってるよ。僕には、わかっている。
大人の僕は、言った。いや、心の声が聞こえたのかもしれない。
「……ありがとう。
君が、あの“18秒”を守ってくれたんだ。
たった一秒で、世界は変わった」
その瞬間、時間が動き出すことがわかった。大きく、風が吹いた。町に光が射した。あたりを煌びやかに染め上げて、息を吹き返すように。ミーシャが、遠くで大きく鳴く声が聞こえる。どこまでも、響くように。誰かの名前を呼ぶように。
『この時間は、ナオの願いで始まり、私の願いで終わったんだと思う。ナオ、素敵な今日をありがとう。さようなら』
頭に流れ込むように声が聞こえた時、そこに、もうヨアケの姿はなかった。ただ、柔らかな白い光の粒子が、朝の空に舞っていた。
目の前の大人のナオが、口を開いた。低く響く声で、今度はちゃんと声を出して。
「ナオ……お前は、きっと、あの日の続きを、見に来たんだな」
大人のナオの声は低く、儚くて脆かった。
『セディさんが言ってた。”時計は祈りと同じだって。誰かの時間が、誰かの願いによってまた動き出す。”知ってるでしょう?ナオ』
今度は、ヨアケの声が僕たちの、頬をやさしく撫でた。呼吸が、鼓動が、重なる。
とくん、とくん、とくん、とくん。
僕は、今日を生きている。この世界の中で。
大人のナオは、頷いた。
「だから僕は、これからのすべてを、君の“19秒目”に返していくよ 」
僕が、僕に、微笑んだ。銀と黒、ふたつの懐中時計の針が、夜明けに重なる。
懐中時計のぬくもりが掌に宿る。パーシさんの言葉が、ふいに胸の奥に蘇った。
『ナオ、君の時間は、君の選択で動き出す。忘れるな、トランクは“記憶の鍵”だ』
“過去に囚われた僕”と、“未来を選ぶ僕”が、今ここで交差した。
僕は、目の前の“僕”を見つめていた。
失くした記憶、
消えた時間、
何度も繰り返した“今日”の、その果てで。
「僕は、僕だよ。
君の悲しみは、僕が背負っていく」
朝日が、目の前に差し込んだ。
眩しい。それは、今と、過去、未来の僕たちへの赦し。まだ終わっていない時間への、再開の言葉だった。
「これでようやく、今日が終わる」
大人の僕は、微笑んでいた。
でもその笑みの奥に、すこしだけ影を残して。
「……ナオ。今日を生きろ。昨日と共に、明日のために」
そう言って彼の姿が、朝の光のなかに溶けていく。
僕は、そっと目を閉じた。
もしも、僕たちに未来があったなら。
もしも、ヨアケと共に大人になれたなら。
もしも、世界が終わっても、最後まで一緒にいられたなら。
世界の時間を変える時計があるのに、ヨアケの時間だけは、変えられなかった。なんて、残酷なんだろう。そんな願いすら、僕には痛いほどわかるよ、ナオ。
そして、僕は、ひとりになった。
このはじまりの駅で。昨日と、今日と、明日を生きるために。
銀の懐中時計を胸にそっとしまい込み、最後の記憶を、心の引き出しから、そっと取り出していく。
⸻ヨアケの、心と体がつながっていた、自然な笑顔を。
光が、ひとすじ、溢れるように瞼の奥を包んだ。夜明けが、音もなく、訪れている。泉に照らされるあの時の景色が、心を覆った。
6時41分18秒。
あのとき交わせなかった、たったひとつのさよなら。
それが、僕たちの失われた約束。
空には、かすかに朝の気配がにじんでいた。
そして、どこか遠くで列車の汽笛が鳴った。到着したはずのクレーンフェルト。駅の看板の文字は、静かに掠れて、消えていた。はじまりの町、とだけ残して。
世界は、再び始まろうとしていた。
今日という息吹と共に。
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