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【プラトン全集第1巻『ソクラテスの弁明』】アニュトス

〖はじめに〗

ソクラテスを訴えた人物として、
まず名前が出てくるのはメレトスです。

若者を堕落させた。
アテナイの神々を信じない。
新しい神霊的なものを持ち込んだ。

その言葉を持って、
ソクラテスを法廷へ引きずり出した人物です。

けれど、
裁判を動かした重みは、
メレトス一人にあったわけではありません。

その背後に、
もっと政治の匂いを持った人物がいました。

アニュトス。

彼は、民主派の有力者でした。

ソクラテスを哲学で打ち負かした人ではありません。
深い議論を残した人でもありません。

けれど、
ソクラテスの言葉が、
どこで人々の怒りに触れるのかを知っていた人でした。

① 民主政を取り戻した町の記憶

アニュトスを考えるには、
当時のアテナイを見なければなりません。

アテナイは、
ペロポネソス戦争で敗れました。

誇りだった民主政は一度崩れ、
そのあとに三十人政権が現れます。

少数の支配者が町を動かし、
追放や処刑が行われた時代です。

民主政は、
ただ制度として傷ついたのではありません。

人々の記憶に、
深い恐怖を残しました。

その後、民主政は回復します。

アニュトスは、
その民主政側に立った人物でした。

彼にとって民主政は、
ただの仕組みではありません。

一度失われ、
血を流して取り戻したものです。

だからこそ、
町を揺らす人物には敏感だったはずです。

ソクラテスは、
武器を持って反乱を起こしたわけではありません。

けれど、
若者たちの前で問い続けました。

何が正しいのか。
何を知っていると言えるのか。
本当に善く生きているのか。

その問いは、
哲学にも見えます。

しかし、
混乱を経験した町には、
また何かを壊す言葉にも見えたでしょう。

② ソクラテスに警告した男

アニュトスは、
ただ背後にいた名前ではありません。

プラトンの『メノン』には、
ソクラテスとアニュトスが直接向き合う場面があります。

話題は、
徳は教えられるのか、
という問いでした。

ソクラテスは、
いつものように言葉を確かめていきます。

政治家たちは、
本当に徳を教えられたのか。

立派な父親は、
立派な子を育てられたのか。

名のあるアテナイ人たちは、
自分の徳を次の世代へ渡せたのか。

問いは、
名家や政治家たちの足元へ向かっていきます。

そこでアニュトスは苛立ちます。

そしてソクラテスに、
人の悪口を言うことに慣れすぎている、
気をつけた方がいい、
という意味の言葉を残します。

ソクラテスよ、
気をつけた方がいい。

これは反論ではありません。

議論を続ける言葉でもありません。

警告でした。

この場面に、
アニュトスという人物が見えます。

彼は、
ソクラテスを論破しません。

問いを最後まで受け止めもしません。

しかし、
その場を去ることはできた。

そして、
警告することはできた。

ソクラテスにとって問答は、
魂をよくするための営みでした。

アニュトスにとってそれは、
町の名ある人々を傷つけ、
若者に悪い影響を与える危険な言葉に見えたのです。

③ 危険な若者たちの影

ソクラテスの周りには、
強烈な若者たちがいました。

アルキビアデス。

美しく、才能があり、
人を惹きつける力を持った人物です。

彼はアテナイを振り回しました。

アテナイを離れ、
敵側に近づき、
また別の勢力へ移る。

もう一人が、
クリティアスです。

彼は、
三十人政権の中心人物の一人でした。

民主政を傷つけた側にいた人物です。

もちろん、
ソクラテスが彼らに悪事を命じたわけではありません。

アルキビアデスの裏切りを、
ソクラテスが計画したわけではない。

クリティアスの暴政を、
ソクラテスが教えたわけでもない。

けれど、
傷ついた町は、
いつも丁寧に分けて考えるわけではありません。

あの危険な若者たちは、
誰のそばにいたのか。

ソクラテスのそばにいたではないか。

「若者を堕落させる」

この言葉は、
ただの教育論ではありません。

民主政を傷つけられた人々の記憶に、
直接刺さる言葉でした。

アニュトスは、
その結びつきが人々にどう響くかを知っていました。

④ 罰ではなく、名誉を求めた男

ソクラテス裁判には、
人々の怒りをさらに強めた場面があります。

有罪が決まったあと、
ソクラテスは自分にふさわしい処遇を問われました。

普通なら、
罰金を提案する。

あるいは、
亡命を願う。

命を守るために、
裁判員の怒りをやわらげる場面です。

しかし、
ソクラテスはそうしませんでした。

彼は、
自分にふさわしいのは、
プリタネイオンでの食事だと語ります。

プリタネイオンとは、
町に功績のあった者が、
公費で食事を受ける場所です。

つまり、
罰ではなく、
名誉を受けるべきだと言ったのです。

しかもソクラテスは、
オリンピア競技の勝者を引き合いに出します。

なかでも馬車競技は、
古代ギリシアの花形でした。

馬を用意する。
御者を用意する。
大きな費用をかける。

そして勝てば、
実際に手綱を握った者だけでなく、
馬を出した主催者が大きな栄誉を受けました。

アルキビアデスもまた、
この馬車競技で名を上げた人物でした。

競技の勝者は、
人々を楽しませる。

けれど自分は、
人々を本当に幸福にしようとしている。

だから自分こそ、
その名誉に値する。

町が何を称えるのかを、
正面から問い返す言葉でした。

⑤ 競技の勝者より、魂をよくする者を

都市は、
何を称えるべきなのか。

速い馬か。
それを用意できる富か。
人々を熱狂させる勝利か。

クセノパネスは、
かつて競技の勝者を過剰に称える都市を問い返しました。

馬が速くても、
町は賢くならない。

身体が強くても、
都市がよく治まるわけではない。

本当に称えるべきなのは、
勝利なのか。

名誉なのか。

それとも、
町をよくする知恵なのか。

ソクラテスの法廷発言は、
この問いをもう一度、
アテナイの前に置くものでした。

あなたたちは、
本当に大切なものを称えているのか。

アニュトスはその問いが、
民衆のどこへ届くのかを知っていました。

⑥ 民主政の怒りを読んだ男

『メノン』でアニュトスが残した言葉は、
議論ではなく警告でした。

ソクラテスよ、
気をつけた方がいい。

その一言には、
アニュトスという人物がよく表れています。

彼は、
ソクラテスを理論で打ち負かした人物ではありません。

けれど、
問いがどこで町の怒りに変わるのかを、
見ていた人でした。

敗戦の記憶。
三十人政権の傷。
アルキビアデスへの不信。
クリティアスへの怒り。
若者が危険な方向へ進むことへの恐れ。

それらが重なったとき、
ソクラテスは、
ただの問答好きな老人には見えなくなります。

町を揺さぶる者。

若者を危険に近づける者。

民主政をまた不安にさらす者。

そう見える土壌がありました。

メレトスは、
ソクラテスを法廷へ引き出した人物でした。

しかしアニュトスは、
その法廷でソクラテスがどう見えるかを、
すでに読んでいた人物でした。

ソクラテスは、
問いによって人を揺さぶりました。

アニュトスは、
その問いが民主政の傷に触れることを知っていました。

ソクラテスを殺したのは、
一人の男の怒りだけではありません。

敗戦後の町に残った不安。

民主政を守りたいという恐れ。

そして、
問い続ける人間への苛立ち。

アニュトスは、
その怒りの場所を読んだ男でした。

問い続ける人間を、
私たちはどう扱うのか。

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【人物紹介データ】

名前 アニュトス
生没 前5世紀末〜前4世紀初めごろの人物
出身 アテナイ
立場 アテナイの有力政治家
   ソクラテス裁判の告発者の一人
関係する人物 メレトス、リュコン

主な役割:
ソクラテスを告発した中心人物の一人。
正式な告発の前面にはメレトスが立つが、アニュトスはその背後にある政治的・社会的な重みを担った人物として語られる。

人物像:
民主政側の政治家として知られる。
職人や政治家たちの立場を代表する人物として描かれやすい。
ソクラテスの問いが、町の権威や実務家たちの自尊心を傷つけたとすれば、アニュトスはその怒りを背負った人物と見ることができる。

思想・特徴:
哲学者というより、政治と社会秩序の側に立つ人物。
『メノン』では、ソクラテスが政治家や優れた人物の教育について問い始めると、強い不快感を示す。
ソクラテスの問いを、単なる議論ではなく、町の秩序を揺るがす危険なものとして受け取った人物といえる。

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